見出し画像

傷つけると分かった上でものを作ること

傷つけてしまうことに向きあうための短文をたくさん書きました。
(創作・川上未映子・空気・お笑い・大阪弁・ヒカル・仕事・就活・建築・理系・東浩紀・リベラルなど)
読みやすいところだけでも読んでみてください。
最終的に気が楽になるような文章になってます。

就活中に「あなたがどうしても解決したい社会課題は何ですか?」と聞かれたときに、
浮かんだのは反出生主義だった。

今の時代をひとことでまとめると、反出生主義の時代だと思う。

傷への神経症としての、傷と磁器に対する中毒の時代だ。
一方では甲高い声をあげながら膿が溜まり腐敗したかもう完治間近かなど関係なしに瘡蓋をはがすくらいに傷や血を中毒的に求め、
もう一方では無声のままつるつるとした清潔なものを中毒的に撫でている。

ある意味私がこの半年間ずっと考えていたことは反出生主義に対しての向き合い方だったともいえる。


反出生主義というものを初めて知ったのはおそらく友達からのLINEだったように思う。

「最近反出生主義にはまっている」みたいなラインだった。
文字の並びが怖かった。
なんか怪しい宗教にはまったのではないかと心配になったような記憶がある。

しばらくたち少しずつ反出生主義についての印象が少しずつ変わった。
もっと素朴なものとして理解できるようになった。
感情的にはわかる、ってなった。

傷つけることがわかっているものを生まれさせていいのかという迷いだった。

この意味でいえば、反出生主義をモチーフにした作品はあまりにも多い。

川上未映子さんの『水瓶』のなかの「戦争花嫁」や『夏物語』『きみは赤ちゃん』では、草食系・HSP系な視点で描かれているし、
市川沙央さんの『ハンチバック』では障がい者の女性として生まれることと健常者の女性として生まれることを対比させながらどちらの生き方も泥に塗れたものであることが描かれている。

私が初めて好きになった『SKET DANCE』には声を発することで傷つけてしまったトラウマから、話すことをやめるスイッチというキャラクターがいる。

さらには、スタジオジブリ作品をはじめ、SF的・ディストピア要素がある作品の多くも、人間の愚かさを消そうとする清潔志向と、生暖かさへの回帰としての人間賛歌的な志向を一往復しているような印象がある。

本当にあまりにも多い。


今VR系の研究室にいる。
VR系の研究はざっくりといえば、
新しい体験を人工的に作り(作られた体験=Virtual Reality)、設計者が意図した体験が実際にどのように体験されているのかを評価するというようなことを行っているような分野だ。

といっても、大体世界が貧しい(ハイデガー)といっていいような工学畑の人が担っているためかわかりやすいものがお金を集めやすいためか、
基本的には生活をよりよくさせる(目的最適化的)ための介護・教育の向けの研究だったり、または小規模で極端にキッチュな体験をなってしまっている場合がほとんどだ。

新しいデバイス、体験を作るようなコンテストに参加し、企画書を書いた成り行きでリーダーになったことがある。

そのコンテストが一次を通過し、チームメンバーをぼろぼろに酷使することになりながらも、なんとか最低ラインまで作り上げて二次審査にのぞみ、評価を受けた。

二次審査、また関連した学会で受けた印象は、体験を作る研究分野なのに体験をちゃんと評価できる人がこの分野にもうすでにほとんど残っていないんだろうな、というようなことだった。

さらには、評価する人だけでなく同世代の人も締め切りに追われてただ作っているというような感じがした。



それから手が自然と止まった。

周りが大事にしていること、評価の仕方に味がしなかった。

なんで味のしないことのために、自分だけでなく研究室の後輩をぼろぼろにしなきゃいけないのかがわからなかった。
さらに、私が研究している研究題材がある種精神的に人を傷つけることになる研究題材であることを自覚していたこともあり、
作り手や見る人を傷つけるものを作ることはできないと思うようになった。

なんだか似たようなことを周りの言葉にも企業にも感じていた。

書籍や文芸が好きだけどライターなどの会社の中で文章を書く仕事を避けているのは世の中の文章のうちに残ってほしいと思うものがあまりにも少ないし、
気づけば就活中ほとんど自発的には大企業を調べることがなかったのは残ってほしい企業があまりにもないからだった。

昔の私だったらパンク的な精神をもって大企業を嫌っていたかもしれない。
パンク的な精神は先人たちがやってきたことによって取りこぼされていることに目を向けて取りこぼしを構造的に強いるような影響力の大きいものを嫌う、歴史の拒絶といえる。

でも、今の私にとって言葉や企業に残ってほしくないと思う理由は拒絶というような激しいものではなかった。
ただ自分の心を冷静に観察すればするほど理由がないというようなものだった。

お金とか福利厚生とか自己成長とかわかりやすい何かをそのまま習慣に取り込んでいる身体には理由があるように感じられるだろうが、
そういうものが習慣から一度抜けた人にとっては理由がない。

さらには、理由がない人にとってはありもしない理由を作るような、根拠のない理由をもとにした習慣を作り直すというある種の人格の再構築といえるような苦労をするような理由ももちろんない。

ましてや他の誰かを傷つけるのであればそんなことをしないほうがいい。


そのうえで、ものを作る理由を考えたい。

生きることは何かを表現してしまうことであり、誰かを傷つける可能性を持っている。

そのうえで、もの、サービス、芸術作品をつくるための理由って?
加害とのバランスのとり方って?

これは芸術活動をする人が常に考え、バランスをとっていることだろう。
バランスとしての倫理観がある種の作家性にもなっている。

工業的な研究や仕事に従事している人にとって倫理観はこのような形でないように思う。
学問上の開発研究と銘打ちながら、
実質的には工業的にシステム的要請としてプロジェクト運営されるものにおいては、
ペーパー試験的な安全試験的な倫理のみがあり、
個人的な倫理感としての作家性がほとんど育ちにくく形骸化してしまったように思われるためだ。


(この部分だけ難しいので苦手な人は一回飛ばしてください)

東浩紀の二次創作概念を中心として創作の倫理について考える。

初めに述べたように、現在は残酷さに目を向けすぎる、または、目を背けすぎるという傷に対する神経症を持っている。

東は神経症とは別のありかたとして傷に直面しながらも傷をいやすようなものとして、家族、ダークツーリズムの概念を提唱している。

彼の思想には二次創作によるズレ(誤配=観光=脱構築=訂正)、
ズレによってこそ生態系的に変化し維持される家族、家族に生じた深い傷に触れながら癒すある種の暴露療法としてのダークツーリズムがある。

一次創作と二次創作の間にはどうしても生まれてしまうズレがある。
読者は原作をある程度欲望のままに読み替え、意図の有無に関係なくズラしてしまいながら新たに創作してものを生み出す。(二次創作)
ズレのために一次創作の作者(=原作者)は喜ぶことも悲しむことも、またはもっと現実的に経済的に助かることもあり、いつのまにか一次創作と二次創作は理由なく運命共同体を作ることがある。

東は、
結果として生まれてしまったものが何かを傷つけてしまうことも癒すことの両方があることを、

結果として生まれるということが事前には偶然として事後には決定としてみなされるような非対称性をもつことを、

偶然によって生まれる家族的な共同体が作るのは空気であり、良くも悪くも一時的に逃れたとしても最終的には戻ってくるようなものであることを論じてきた。

リベラル的神経症は二次創作や観光のガチャ感・理由のなさ・身勝手さ、また、その結果として生まれる家族的なものを糾弾するための呪文を唱える。

東は、神経症と同じ用語を使いながらも読み替えることによって有害性だけではない側面についても指摘する。
理性的にも感性的にも訴えかけるために、思想だけでなく実践的活動を行ってきた。
してしまったことによる傷跡を読み替える文学的医者として弁護や治療を行ってきた。

この治療者的な振る舞いは、家族という逃れられない生態系の、根拠のない歴史を受容することを意図しながら二次創作を行うことである。

傷をまずはふまじめでも触れてみることをはじめとして、まじめにも少しずつ知っていく過程を提案するとともに実際にその過程を生む。

その過程は
友達をただ一人作ってみるみたいな軽さがもはや全てといってもいいような一を生み出すようなものだ。
(ディズニーランドの「イッツ•ア•スモールワールド」が世界の人たちを身近で小さな範囲で捉えない限りは世界平和という大きいことを感じられないことを示しているように思える。)

一をきっかけとして、
エンタメ的に触れる軽さをきっかけとして、
傷という言葉から連想するような重さへといつのまにか辿り着く過程を生み出すことが歴史を受容しながら創作、生活をすることにあたる。

しかし、現在は過去の芸術作品や生傷に触れる機会が極端に少ない理系的、オウム真理教的世界観を持つ人たちがコンテンツを生み、影響力をもっている時代である。

特にエンタメ産業やVR的業界が認知科学やゲーミフィケーションという情動レベルに訴える政治手腕を身につけ、メディアをハックする形で影響力を身につけてきた。
しかしこれらの担い手の多くは先ほど言ったように傷に対する教育の機会がほとんどなく、歴史の受容を使命として持ちえていないことが多い。

認知科学的なものへの反対運動のように、歌舞伎町や大森靖子や東出のようなものへの人気が尽きないのは、傷への敬意があるからであり、初めはキラキラしたところからなんとなく知ったとしてもそこから生傷を見ることができるからだと思う。
(なお、羊文学やカネコアヤノが人気なのは、心の中でブチギレながらもぱっと見は清潔なオブラートに包まれているというバランスがちょうど今の時代にあっているからだと思う。)

傷や歴史に対する意識の軽さと重さがはっきりと分裂しているのが今で、その分裂がこの世界の地獄感、言葉の通じなさ、通じなさを乗り越える理由のなさ、傷を見た人にとっての世界のリアリティのなさ生み出しているように感じる。


大阪弁が苦手な人って案外多いように思う。

友達とこのことを話していたときに、
大阪弁の人と一対一で話すととてもいい人なのに、大人数の中に大阪弁の人がいる状況が苦手だという話になった。
大阪弁は大人数での会話を保つための話術と相性がいいように思う。
大人数が集まった時に関西弁で場を回すのが上手い人がいると、その人を中心にして場で生まれる言葉が決まってくるような印象がある。

そもそも私にとっては大阪弁というよりも大人数の会話が面白くなかった。
言葉が決まった途端に雑談ではなくなる。
舞台上の漫才になるような、ピッチ上のスポーツ選手になるような感じで、不自由で苦手だった。
ありきたりなことしか生まれない感じがして、退屈だった。


友達がお笑いをやっているからか、ちょくちょくお笑いについて考える。

茂木さんが日本のお笑いは空気を読むだけ、知性がない、政治がない、批評がないというようなことを言っているような印象がある。


茂木さんの意見は正しいし、気持ちもわかるが、正しいことを言って何の意味があるんだろうって思った。
その言い方で正しいことを言ってもそこまで意味がないのに。
(そこまで意味がないと今言わせたくらいの意味はあるけれど。)

日本のお笑いは日本の特徴そのものなのだから、日本の中でそんなことを言われたところでって感じがあるし、
何よりも反対を示すような批評が影響力を持ち得ない日本にとって、お笑いに批評がないという批評も影響力も持ち得ない。
暖簾に腕押しって感じ。


違う形で日本のお笑いの価値を考える。
むしろ日本のお笑いの価値は空気を作る能力の高さにある。
ユーモアとは言葉遊びの要領でそれまでとずらすことにあり、ずれに笑いが起こしさえすれば空気のずれを身体のレベルで受けいれたことにすることができる。
特に国民総コミュ障の日本人は観客も演者も同じ匂いの空気を共有しているため、
ずれるだけのもともとの共通性があるし、演者の振る舞いが観客に与える潜在的な影響力はとても大きい。

お笑いは空気を意図しない方向に変えるズレの偶然性と、空気として浸透させる受容の両方がある表現だ。

私たち一人一人の身体は制服を着たとしても無意味に歪であるため、そこから生まれる振舞いも空気もそれぞれ無意味に歪に変化する。

そのため、お笑い、ユーモアや遊びの社会的意義は、正しさそのものでもある空気を、その正しさから半ば偶然的に逃れる形でずらすと同時に、そのずれた先を正しさに変えてしまうことに由来する。

その特長を踏まえ、日本のお笑いはこれまで観客ととても近い立場で空気の持つ正しさをマッサージし、過去の正しさであるれる欠点のようだったものを笑いに変えて正しさに変えて受け入れられるようにしてきた。(欠点を笑うことと隣り合わせの綱渡りだが)

それは論理的思考や西洋かぶれの弁証法重視の脳みそには出せない解決策であり、
海外で留学したり西洋的な手法で成果を残してきたような特権階級の人にこそ測れない影響力を持っている。

茂木さんは日本人のコミュ障性を前提とした方が良かった。批評のなさ、空気の強さ、彼の批評自体が暖簾に腕押しになっている感じを前提とした方が良かったように思う。

私は、今はお決まりのお笑い的なものが小さい単位になっている過渡期で、偶然性とその受容のありかたやその捉え方に関わる状況が変化してきているのだと捉えている。
その結果か原因か何にせよ、これまで以上に偶然性を重視するように変わってきたといえるのだろう。

長い尺(ネットより)のコンテンツは、偶然性が比較的高くでき、人の一般的な性質を超えて顔が浮かぶようなくらいの親密性と、狭く深い影響力を持つこともあるが、
短い尺(テレビより)のコンテンツは、偶然性が比較的、人の一般的で記号的な性質を超えることなく、広く浅い影響力を持つことが多いように思う。


そこには漫談とニュースぐらいのルールや役割の大きな違いがあるだけだが、面白い面白くないみたいな価値の強弱として理解されていることが多いように思う。

多分私が感じたような大人数の中での大阪弁の価値評価も雑に窮屈で退屈でつまらないとしていたけれど、集団を繋ぎ止めてくれるありがたさ、個人的に感じるおせっかいさ、退屈などを重ね合わせて評価した方がいいのだろう。

(中田さんや茂木さんの提言については、上の世代のズレに対する許容度の狭さに対する窮屈さや違和感として動機や感情を捉えると、私が感じた大阪弁が持ってしまう空気に対する違和感と同じに思えてくる。)

一度役割分担みたいなのを抜きにすると、
自分の好みとしては最近のYouTuber ヒカルの芸能人の二、三人の対談動画のようなものが偶然性が高いのにみていられるし面白い。

ある程度偶然性が高いのに受け入れられて、しかもたくさんの人に見られているし、人を購買に導くほどの深い影響力がある、という意味でヒカルを高く評価したほうがいい。

お金持ちだから、登録者数が多いから、成功者だからという理由ではなく、彼が個人的にええやんと言えば、比較的どんなに今阻害されているものでも良くも悪くも受け入れられる空気ができる。

彼の一見差別的な発言に気を取られすぎることなく、属人性と、属人性の高い人物が演劇のように場面変化ごとに登場するような偶然性が、ここまでの組織規模や影響力の割には驚くべきほど残っていることをリベラル的な人はもっと注目した方がいいと思う。

彼の良さでもあり欠点なのは青年漫画少年漫画的な漫画脳であるところで、リベラル的な人は違う種類の漫画の魅力をそれとなく語ることから近づくと彼はすんなり受け入れやすいのかもしれないし、社会的にいい影響がありそうだ。


日本のお笑いについて話したことで、
今の時代に大企業を希望することについて話すことができるような気がする。

大企業はお笑いと同様に社会や業界の空気を象徴する。
良くも悪くも歴史や空気にわかりやすく触れることができる場所だ。

大企業を望まない、もしくはキャリアアップなどのように替えが効かない人になるための替えが効く経験をするためにのみ望むだけなのだとしたら、
社会の空気や業界の空気に、反希望としての絶望を抱いているか、反希望ですらなく無希望的であるかだろう。

社会に対する同時代的な希望の持ち方は、子育てと建築を考えてみても分かりやすい。

毒親・虐待などの家族の悪い面ばかりが目立ってきた結果、
また一人でも推しに課金をしていればその習慣のまま割と楽しく過ごせるようになった結果、
子供を産むこと、それ以前に人と付き合うことに反対したり、
反対する以前にただもう意識すらしないという風になってきたように思う。
わざわざ子供を育てるとか、だれかと付き合うみたいなことを必要がない人が自然と増えてきた。

建築も同様だ。
流れてくる鈴木ゆゆうたの動画をみたり、猫ミームの動画などをみると、
建築業界の暴露というか悪い面がなんとなく目に入ってくる。

基本的に人の生活自体昔から大きく変わっていないのに、
人口が減ってきていて空き家が大量に出ているのに、
レトロブームが起きているように古いものに魅力を感じる人が増えてきているのに、
新しい高層ビルの建築のようなインフラ整備や職人の育成のため以上の建築が、
必要とされることの意味がわからない。
(国主導の新築のビルの建築ほど納期が厳しく、現場が厳しいなんてゆゆうたがいっているし)

少なくとももし私に子供が生まれたときに納得に行く説明ができない。
ほかの企業、国に経済的に対抗するためみたいな説明しかできない。
その説明には納得感がない。
ましてやそれで人が死ぬことに誰も納得したくない。

大きい建築物を新しく作る事と同様に、
大きい論理的建造物も、
大きいシステムに維持される企業も、
それを維持するのに必要とされる人や生き物の顔が浮かぶ。
そしてその顔に希望が持てるときが多くないのが今の日本に生きている人の多くの実感だと思う。
もしくは全く顔が浮かばず、希望どころか絶望する浮かばないのかもしれない。
いずれにせよ希望する必要も理由もない。

そのうえで大企業で働くとしたらその理由はお笑いの意義と近い。

中小企業以上に社会・業界そのものといえるくらい大きい歴史や空気を感じられることや、
さらによっぽど運が良ければ、大きな規模で変えられたように感じられるような経験が得られるかもしれないことが大企業の特徴なのだと思う。

私としてはルポライター的な目線で大きい空気を知れることに強い魅力を感じるが、
自分の体質を踏まえると部署内の風通しのよさ、人の話を聞く余裕があるかがもっとも大事な条件になる。
話を聞く余裕がなさそうな企業や人とは居続けることが生理的にできない気がする。

さらに、大企業よりももっと小さい単位で小さい欲望で個人的にも社会的にも落ち着いてほしいと思っている都合上あまり大企業の未来に対する魅力、希望は基本的には少ない。

希望を抱けるとしたら、ルポライター基質、マゾ適正、部署レベルの魅力のいずれかが高まった場合だけだろう。

(実際、大企業であっても信頼している人におすすめされたり説明会を聞いたりして、部署レベルに話を聞くような風土があって魅力的だなって感じたら個別に志望することにしている。大企業だから悪いという風にはならない。)

でも、そのどれにも機会に恵まれなかった人の多くにとっては名刺・社会研究・博物館的な展示以上にはテレビ的なお笑いや社会の空気・大企業に魅力を感じる理由や必要が自然にはないのかもしれない。


少年漫画少女漫画の理想をもう信じられなくなって、
ポリコレとかパンクみたいな激しい感情をもって拒絶するような熱が尽きて、
比較的幅広い分野の学問や表現を触れ終えた後に、
残っている理由は体質的なこだわりにすぎない。

体質的こだわりに合わなくてする理由がないのに、わざわざ人や何かを傷つけることをする必要はない。
生きることも死ぬことも何かを傷つけるのだから、
みんな何かを傷つけながら生きているのに、私だけが生きることも自〇するだけの理由もない。
快楽に溺れて忘れることも浅はかな感じがするし、
神話に酔い続けるような無知なふるまいをずっとしていられるような身体ではもうない。
老いとは因果の雑なぶつ切りにすぎない「親ガチャ!」って叫ぶ世界観から離れて、
世界や歴史が理由のない中毒的学習そのものだと、断面がいつのまにか少しだけ変わる金太郎飴だと知った上で、
それでもたまたま接したそれぞれの歪な形と中毒症状に生温かさを感じることにある。
生暖かさを知るにつれて他の中毒症状を慮り、罪悪感少なく習慣にできるくらいの小さなお庭を毎日手入れするような仕事や生活に落ち着いていく。

もう年老いた私にとっても、ものをつくるというよりも歴史を適切に受容し修繕するような活動をしたいし、そういう企業を基本的に探しているし、それくらいしか社会的に残ってほしくないし、それくらいしかそもそも残っていかない。


改めて、ものを作ることの社会的意義を考えてみるとやはり空気を調整することができることだと思う。
お笑いの話をした時と同じ表現を使うと、正しさをマッサージすること。

自分ひとりがいなくても似たようなものをつくって人を傷つけるのが社会レベルでのものづくりの本質で。
そんな残酷な社会の中、制服をはみ出し他とは違う身体でほんの少しだけ違うやり方でものを作って傷つけると同時にかすかにどこかの傷口をいやすこと。
人を傷つけると同時に今よりはほんの少しましに感じる空気を作ることだと思う。
弁護士的に生傷と理想間の参勤交代の機会を増やすことによって傷への意識を調整することだと思う。
その過程と結果として個別の傷に向き合うだけの時間を作ることだと思う。


もちろん創作(=生活)の携わり方や規模感は担い手の体質や現実的な状況による。

ただ私個人としてもたいていの人にとっても、目標がちがちなタイプじゃなさそうだから、

2000年前後の秋葉原の都市開発のように、
ヨシタケシンスケさんが絵本作家として大成するまでのように、

小さい規模の個人的な営みがいつのまにか社会的の空気に対しての影響を持ってしまうみたいな感じが肌に合っている場合が多いように思う。

(なお、大企業であっても部署レベルの小さい規模の関わりとそこから広げていくことが個人的なものとしても社会的なものとしても大事なことは同じだと思う。)


ここまで書いてみて、就活をしている時の心の持ち方が楽になってきた。
自分の就活の軸のようなものとして、
風通しの良さ、女性比率、人の話を聞けるか、余裕があるか、目の前のものが偶然的に変化するものか、などを挙げていた。

これらは空気がズレる時のズレ(偶然性)に対しての個別の応対や許容があるかどうかとまとめてもいい。
それは傷や弱者に対しての許容度にもあたる。
(日本における多様性を考える時には空気を前提とする必要がある。)

ここまで定まってきたらあとはただ個別の部署を推測できるだけの情報を集めてそこに自分がいるかを想像してみたらいい。
ただの縁。
縁がなくても生存。
生存は抵抗。
それは昔からあらゆる生物がただ置かれてきただけの生活。

P.S.
全体的に東浩紀の議論が下地になっています。
彼の議論は初期は取りこぼしについて(デリダ的)、最近は取りこぼしを受け入れていく形としての空気が重点に置かれています。
最近の議論は、おそらく初期の東浩紀を輸入した千葉雅也(やマラブー)の形についての議論を逆輸入する形で展開されています。

大きいものは空気を作り、そこからこぼれ落ちるものがあります。
大きいものがそれぞれ違うような感じだったらそれぞれ選べてイイカンジになるわけですが、大きいものが似通ってるととても生きにくいよなって、ちょうど今大企業の多くが、早期選考と通常選考もしくは能力採用ばかりしているのを見ながら考えます。
多様性って言葉を綺麗にだけ使っている企業をみると、縁を感じない。


過去に傷と喪について書いた文章です。お気に入り。


また、日本のお笑いについて対談で語られています。
ここで語られていることに私は完全に同意します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?