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活動休止のメンタルヘルス

当たり前のことを当たり前に考えていく感じの文章。
結果というか過程をぼんやりと追ってくれたら。

ZOCが一時活動休止するみたいだ。

大森靖子を好きになって数年、ZOCやMAPAを好きになって数か月くらいたつ。

今回の活動休止は悲しい部分があるが、特別驚くべきことではなかった。

X(Twitter)の検索バーで調べると、
「大森靖子」で調べるのと「靖子ちゃん」で調べるので、大きくコメントが異なるし、
ZOCの活動休止やそれ以前の暴露のなかで大きく混乱している人も多いことがわかる。

Xのような文字数が基本的には少ないツールでは扱いきれない題材だと感じる。

今回はnoteという文字数をある程度自由に確保できるツールをつかって、
一ファンとして希望をこめて、それでいて淡々と、今回のZOCのことや似たようなあれこれ(大企業やお笑いやジャニーズの暴露)ついて考えるための言葉を重ねたい。
特にファンの人が気持ちを整理するための参考になることを期待する。

関係者以外の人はメンタルヘルス的にちょうどこれくらいのことを考えていくのがいいかなって。


まずパワハラという言葉を使うことには注意した方がいい。
似たような言葉で、被害、加害のような言葉を使うことも同様に。

パワハラだから悪い。加害をしたほうが悪いというふうに情動レベルで思わされる。
でも、パワハラだから悪いや加害をしたから悪いというのは、(個人的意味ではなく)話し合いをする段階で意味のある言葉からは遠くなる。

反応的な「〇〇だからダメ!」はただ何事かを言っているというだけのことに変換されるだけのものであり、
ニコニコ超会議の弾幕のような無意識レベルの感情の発露以上の価値を持っていない。(※1)

もちろんX上の感情の発露にも個人的なもの以上のメリットはある。
正確な言葉を使えば使うほど動員できる人数が少なくなり社会課題化が難しくなる。
そのため当事者運動の文脈ではハッシュタグデモと同様にある社会課題についてわかりやすい言葉をつかうことで少なくない人数を動員しイシュー化(=環状島の隆起)して議論化する土台を作ることを必要とする場合がある。
Xを活用したポリコレや炎上は賛成、反対に限らずこの文脈の流れになる。(※2)

でも、最近ではデモのようなものは何か既存の体制を壊す風潮を高めることはできても、少なくとも何かを考え直す段階や作り直す段階においてはむしろノイズになることが多いような気がする。(デモ自体が悪いわけではないが今に合わないように思う。)
パワハラのような、〇〇ハラといったわかりやすい言葉はメリット、デメリットを理解したうえで使った方がいい。
人間は愚かだし、難しいし、うまくいっていない現在の情報環境はまだ未熟なもので、少しずつ改善されていくのを待つほかない。

それに、このようなわかりやすい言葉を使った反対運動にはもう飽き飽きしている人も多いような気がする。
特に若い人には。
このままじゃだめなことはわかるけどさ。
体力や時間があるやつが勝手に騒いどって。みたいな。

その虚しさと疲労を体感するための教育としては、こういったハッシュタグデモのようなあれこれは価値がある。それは自己啓発本を若いうちに読んでおくことの意義に近い。
でもそれは「あえて」の域をでない。

もちろん理想や反対意見を持つことはとても大事なことで。
保守も反対も保守や反対という理由だけでなぜか価値を持ってしまうような不思議なものだ。(それも大森靖子の楽曲の主題の一つだと思う。)

生きることは結果的になんらかのポジションをとってしまうことだけど、その時生まれる小さくない違和感を言語化してみてほしい。


次に、加害、被害に似た話だけど、大森靖子が悪い、〇〇が悪いみたいな話について。

言うまでもないと正直思うけどそんな簡単な話ではない。

それにただ結論を宙づりにしたままでもいけないし、現実問題として宙づりのままにはならない。(※3)

基本的に人間社会におけるどのような問題であっても、一つの価値基準、システム、論理コードによって決定されるわけではない。
補足だけど、話し合いは複数の価値判断を調停するためにこそ必要とされる。それに人間の理解力が大したことがないとしても最終的には人間が決定することになるのだから。(※4)

今回のようなものは理想の高くもった社会起業家が失敗したみたいな話としてとらえ直すのがいいと思う。

「ZOC」を「孤立しない孤独が共生する場所」と定義していると読んだことがあるし、大森靖子の「かわいい」も「PINK」も社会起業家の作る会社のvision、missionと重なる。
実際靖子ちゃんやその楽曲があることによってどれだけの人が死なずにすんでいられているのだろうか。

誰も取りこぼさないというような社会起業家、世田谷的な価値観に、
プロデュースと演者として大森靖子が一緒に出る共犯者的な側面や、
歌舞伎町的な価値観である自己責任論と成長論(※5) が混じっていることが、
そもそもとても危ういものだった。(それが魅力でもあったのだが。)

ZOC自体がいつ崩れてもおかしくないジェンガのようなものであるから、(もともと成長途中を見せるというコンセプトだった)、ZOCからMETAMUSEにいちど変わったのだろうとも想像する。

演者以前に見ている人があまりにも歌舞伎町、つまり煮詰まった東京的な欲望駆動的な価値観を持っていて、その価値観のまま不安定な表現を期待し、不安定なZOCを期待してしまって、期待に応えた演者もやっぱり不安定だったから一度崩れたというようなものだと思う。

組織を持ちながら組織を壊すような価値観の持つ表現を持つことはなかなか難しい。
いうまでもなく組織風土と事業のバランスが悪い。
より正しくは、事業やメンバーと、組織を維持することの相性が悪い。

もともとから長く続けることがとても難しいことをしていた。
芸術分野(しかも美しいかではなく挑戦的かどうかという評価コード寄り)の新規事業を長期にわたって安定化させることが難しいことは安易に素朴に想像がつく。
(そういえば、GEZAN with Million Wish Collectiveの”融解”にも似たような感想を持つ)(※6)


引き続き淡々と考える。

昨日の記事ではZOCの体制を立て直すのだという。

ZOCの体制はもちろん、TOKYO PINKという会社がどういう体制を作り直せるかが問われている。

挑戦的な表現を展開するための組織体制はどのようなものになるのだろうか。
挑戦的な表現を0→1でつくる人は、そして表現を憑依する人には時間や体力が必要だ。
アイドル業がこれまで息が短かったのは多かれ少なかれ憑依芸が必要であるだけでなく憑依する前後自体もコンテンツにするためあまりにも消耗が激しいことだろう。

ただでさえ同じ憑依芸のなかでもアイドル業は俳優業よりも一つのコンテンツに一人で向き合う余裕が少ないように思う。(※7)
特に大森靖子がプロデュースする憑依芸(※8)はあまりにもレベルが高いのは一度ライブに行ったことがある人ならわかるし、楽曲を作るペースもかなり早い。

ZOC自体がアイドル像を更新するアイドルだったのかもしれないが、
今回のZOCの新体制の再編もさらにあらたにアイドル像を更新することが期待される。

それは現在歌舞伎町の価値観の変化が問われていることと歩みを同じくする。
歌舞伎町もZOCも実像を売るモデルであり、今の時代に本物をみせる数少ないものだった。
しかし、本物は息が短くて維持するのがとても難しい。

METAMUSEの曲も、ZOCの新曲の『QUEEN OF TONE』も、それ以前のZOCとは異なり、壊すというよりも作り直すことにより力を入れた楽曲の印象が強かった。
挑戦してかつ維持するという難しいところを探っていたように感じていただけになんだかとても惜しく感じる。
(どちらの曲も初期のZOCほど再生が回っていないが、楽曲は初期以上の魅力を感じる。)

バックオフィス的な実務的な総務的な部分がとても大事な段階なのだろうと想像する。
大森靖子自身がライブのMCで言っていたように挑戦的なことをするためにはそれ以外の地味なところが肝要になる。
ただそれが何度も言うがこの破壊的な作風ゆえにおそろしく難しい。

集団で挑戦的なことをしている批評メディアを作っているゲンロンや現代アートを作っているChim↑Pom from Smappa!Groupがどのように組織を維持しているのかが参考になるのかもしれないし、talikiのようなzebra企業やその投資ファンドの持つノウハウが参考になるのかもしれない。(※9)


今回のZOCに限らず宙づりにすることと実務的にこなすことの両方を2段階に分けて重ねて考えることが必要だ。

宙づりにすることは複数の価値判断を持ち、一つの価値基準で取りこぼしてしまうことに注意深くあること。(※10)

そのうえで実務的に考える。
関係者は会社のリソース、社会的要望などの現実的な理由によって、実務的に一個一個決めていくこと。
関係者以外はそのうち関係者が基本決めていくものとして長い目で見ながら商材を買ったり、買わなかったりを、これもまた個人のリソースをもとに個別に判断していくこと。


それが淡々と考え、日常を送ることにあたる。

淡々と考えることができない状況の人は
友達と雑談の中で話してみてほしい。
友達がいない人は長い文章を書いてみて欲しい。
Xに書くのとは異なる意味があることがわかると思う。

ジャニーズや吉本と同様に組織として失敗している部分があったとしても、表現に感じた価値や記憶を貶める必要はない。

大前提として好きなものは好きなものでいい。
組織の価値や表現の価値は並列して眺めて判断するのがいい。

好きなことと現実的な判断は別でいい。
好きを守ったうえで自分のする行為がサプライチェーン的にどのような効果を持つかを踏まえたうえなら、ひとりで不買運動をすることも悪くはない。
同様に買うことも悪くはない。

できる範囲でよく調べてイデオロギーではない別のやり方で個別に一個一個判断したい。
らぶ all せずに無限とはいかないまでも有限のあいらぶゆーを何度も重ねていくこと。(『ドグマ•マグマ』(大森靖子))


ここまで常識的なことを改まって書いてみた。
常識だから押し付けるというよりも、
いろんなことを考えた上の暫定解を持てるようになると少し安心できる。
安心することで次の一歩を考えることができる。
地道なそういうことが、案外最も難しい。

少なくともこの文章を読んだ人は良い面も悪い面あるんだなってぼんやりと感じながら、似たような事例(ジャニーズや吉本とか)を考え直してみてほしい。

今回印象的だったことはZOCから離脱した人が大森靖子や楽曲のことが好きだけど抜けると言っていただ。

未来にもう戻ることがないとしても戻ってもいいと思えるような会社組織をつくることができ、
ZOCのような社会に必要なメッセージを持続的に作り続けるための組織が作れたとしたら、
あまりにも社会的価値が高い。
たぶんこれほど若い人の命を救っている日本人、組織は他にいない。
一度Xで「靖子ちゃん」と調べてみたらわかる。
一ファンであることを抜きにしたとしても間違いなくこの社会にあまりにも必要な存在だ。

TOKYO PINKの組織体制の変化には社会レベルで期待がかかる。
関係者以外はなんか違ったらその都度なんか違うかもって顔をしていればいいし、気楽に気長に待つのがいい。

もしいまここまで読んだ上で、
まだ心の中に激しさを飼っている人、なに理性的なことたらたら書いてんだ、ふざけんな、みたいな気持ちになった人もいると思う。

その気持ちはもっともだ。
精神科医のような人との面談は腹が立つ。
自分も腹が立ったことが何度もある。

その気持ちの一切は許されている。
ただそれはいつかでいいからちゃんと昇華すべきだ。
というより多くの人はいつのまにかしてしまう、そうしないといきていけないほどの力を溜め込んだ人がTokyo Pinkの周りを慕う人には多いように思う。

短い言葉で終わらないことがあるなら、
人に害をもたらさない形の表現を始めてみてから考えた方がいいことも多い。
大森靖子もそうだが、金原ひとみの作品やインタビューは特に背中を押してくれる。(『パリの砂漠、東京の蜃気楼』など)
また、歌舞伎町文学賞などを運営するヘヴンズゲイトの活動を追ってみるのもいいと思う。


※1
感情の発露として評価し、政治活用として利用する方法を東浩紀は『観光客の哲学』の中で提案している。しかし、その場合も専門家による熟議とそれを視聴する感情的な弾幕が同じ画面に並立するモデルであり、専門家による話し合いが必須になり、ただのハッシュタグデモのようなものに大した意味を持ち得ない。

※2 社会課題化の流れについては。
『環状島=トラウマの地政学』宮地尚子を参考にした。

※3
現実的中断の思想は哲学的には千葉雅也におけるマゾや意味のない無意味に相当する。
ただ中立ではダメだとすることは戦慄かなのの立場と同じだ。下の動画は違法アップロードされてる動画なので注意してみてほしい。

※4
AIが意思決定するようになるみたいな楽観主義ももう時代遅れだ。サポートには役立つかもしれないし活用されていくだろうが、人間の愚かさはいつだって反対したいと言う理由だけでも反対できる。(『訂正可能性の哲学』(東浩紀))

※5
佐々木チワワのyoutube上のインタビューや書籍、ヒカルのyoutubeやそこに出てくる夜の職業の人の発言も同様だ。ここからわかるのは、家族が崩壊し、個人主義が台頭してきてしばらくたち、自己責任論をふりかざしたまたまうまくいった人が祭り上げられ、実際にうまくいってしまう町や集団ができていることだ。

※6
GEZAN with Million Wish Collectiveの融解についてはこちらのブログが参考になる。
http://blog.livedoor.jp/guays_ryosuke/archives/1081495500.html
どこかでマヒトさんが自分が教祖化されることをひどく嫌っていると述べていた記憶がある。
それでいてフロントマンに立たざるを得ないことがおそらく彼の中で矛盾して苦しんでいるのではないかと推測する。

※7
推しの子を読んだり、ZOCのyoutubeの内容と頻度を見るだけでもアイドルがプライベートっぽいものを切り売りすることはわかるだろう。
また、俳優業の時間の割き方については、山崎努の『俳優のノート』や山田孝之のインタビューを参考に。

※8
一度大森靖子のライブに足を運べば体感すると思う。アクセスしやすいものとしては、インタビューの中でも憑依すること、追い込みをかけることがもっとも得意なことであるというようなことを語っている。


※9
ゲンロンの創業からの流れは『ゲンロン戦記』(東浩紀)を読んでほしい。
また、世田谷的、京都的な価値観の組織が、歌舞伎町的な価値観を維持するために使われるとしたら、おそろしく社会的価値が高いと思うが、zebra企業はどのように日本文化の二大文化のもう一翼の今の歌舞伎町的な文化や問題をとらえているのだろうか。
リベラル村の外部にあるものとして捉えているのだろうか。
外部として捉えているとしたら、私はリベラル的な文化がやっぱり嫌いだと思い直す。たまたま特権を持っていただけでしょう?って。
(追記:自分も気づけばふぁっくallしちゃうところあるなー)

※10
今回のような事例に限らず、複数の価値基準を持ち出して、判断を宙づりにすることは現代思想上ではよく行われている。
個人的には大森靖子の「カワイイ」「PINK」はこの宙づりに向かうためのキーフレーズだと思う。
「少女になること : 新しい人間の誕生と救済の非対称性」(黒木萬代)や「あなたにギャル男を愛していないとは言わせないー倒錯の強い定義」『意味のない無意味』(千葉雅也)はヘテロセクシュアルな男性の、美少女化や萌え的なフェティシズムを論じる中で、異性愛規範と異性愛規範とは異なる別の欲望で並立させて論じることで早計な議論を諌めるというやり方を取る。
それ以外にも一見倫理的にダメに思われる好きを好きということは肯定するための思想が多い。
そもそも(論理的)脱構築(『存在論的、郵便的』(東浩紀)を参考)というもの自体が価値基準を宙づりにさせる読み替えに相当するともいえる。

P.S.
時事問題のようでいて時事的すぎない話をしたつもりだ。
わかりやすい常識ではない、常識を考えなおすことにこそ現代思想は役に立つんだろうなって思う。

ただ論理的に書かれただけの一見わかりやすい言葉か、あまりにも難しい学術的な言葉の両極端の言葉がほとんどで、そんなことをして何の意味があるんだろうって思うことが多い。

今回はその中間のわかりやすさを探ってわかりやすい部分を本文に、わかりにくい部分を注釈に載せたので、気になった人は注釈を見てほしい。


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