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本棚がやってきた

最近やっと本棚を買った。
2年前に和室を洋室にリフォームして自室としてもらい受け、新しいクローゼットもできた。デスクと椅子も購入し役員室みたいにしてきたわけだが、本棚だけがなかったのだ。空間を彩るセンスに自信がないせいで、物を増やすことにかなり慎重だったせいもある。

はじめは出窓風になっている窓際にどんどんと本を並べていた。しかし夫の部屋にあったプリンタが壊れたのを機に、プリンタもこの部屋に置いたほうが効率がいいかもしれない(夫の効率は不明)と思い始め、プリンタを置くためには出窓にある本たちをどかさねばスペースはない、となったのである。

本棚探しの旅は難航した。圧迫感が出ると嫌だからと、背の高い本棚ではなく腰高くらいのものを探していた。なんだか見た目におしゃれだし。だがしかし当たり前だが収納容量はとれない。私の所蔵する本と言うとまず漫画。これだけなら結構入るので問題はなさそうだが展覧会図録と写真集がやたらとある。正直見返す回数は年に1回あればいいというくらいのものなのだが、これでも心に残ったものだけを厳選して購入してきたつもりである。記念にもなるし……ああ、記念という言葉だけは使いたくなかった。親が断捨離しているときに「記念品なんぞ捨てたほうが良い」などとさんざん偉そうな口ぶりで叫んでいたくせに、自分はこのありさまなのだ。

話がそれたが、とにかくそういった、図録系の本はでかい。中には通常の紙の規格サイズではなく変形したものもある。従って高さも幅も必要になってくる。やむなく早々に腰高のチェストのようなものは諦めるしかなかった。
しかし背の高い本棚を選びたくない理由は実はもう一つあった。飼い猫である。

飼い猫のもけみは現在4歳、夫婦共働きの我が家へアダプトされたがために日中は家に一匹でいることが多い。もし私または夫の留守中に大地震が起き本棚の下敷きにでもなったらどうするのだ、というのが最大の懸念だった。今はまだ若いので俊敏性もあろうが、幸福にも年を取っていった場合には即座に動けないこともあるかもしれない。家に帰ってぺしゃんこになった猫を発見したらその後の人生など目も当てられない、というかもう人生など不要。
しかしこの懸念は地震対策で払拭するしかないと腹を決めた。突っ張り棒に下敷きはマスト。重い画集は本棚の下に配置。家を出るときは本棚が置かれた洋室を閉めていく、である。
もけみが年をとったときはこちらもそれなりの年齢だ。家にいられたところであんたらのほうが心配だ、ともけみは思っているであろう。

そうしてだらだらと思考の中を行ったり来たりしながらプリンタが壊れてから半年ほど過ぎ、やっと購入する本棚を決めた。背の高いSHIRAIの本棚、幅は90cm。

注文して届いた部品たちを見て静かに慄いた。組み立ては自分でやるというのが昨今当たり前のようだがみんな本当にこんなことをやり遂げていたのか、と愕然とした。日本国民はだてに電車に乗ってスマホをいじっているわけではなかったのか、と油断させられていた。

背の高い本棚はまず下半分を組み立て、そのあと上半分を組み立て、合体させ、そのあと中程の棚を入れていくというやり方だった。私は物事を立体的にとらえるのが苦手らしく、「背板をはめる」説明のところで立ち止まった。図解が理解できないのである。そして丸まったり立ち上がったりしながらねじを回したりボンドを穴に流し込んだりしたせいで、腰が痛い。元来素人がために無駄な動きが多いのだ。

やむなく夫を呼んで手伝ってもらった。夫はITこそ弱かったがこういった組み立て作業にはそこまで苦手意識がないようで、サクサクと作業をこなしてくれたのだった。私は歯噛みした。「ひとりで組み立てました~★」とSNSに乗せたかったのである。この夢はついえた。
(けがもなくやってもらい、夫には感謝していますが。)

出来上がったホワイトカラーの本棚はまぶしかった。かすかに木の香りを漂わせて、頼もしさと清廉さを併せ持ったでかいレディのよう。
さっそく本を入れていく。そして気づく、ブックエンドが必要だということに。分厚い本たちを入れては倒れるので、それを防ぐために片手で本を抑えながらもう片方の手で次の本を取る。この作業だけで背中にきた。ただでさえ重いものを、片手で抑え片手を伸ばしてとる。運動不足の人間の背筋に耐えられるはずもなかった。

この本棚の棚は可動式なのだが、真ん中に横たわる棚の位置だけは固定されている。なので、この固定されている棚から下と、上とで、可動式の棚をどんな高さで設定するかがキモになるわけだが、これが入れてみないとわからない。
頭の良い人、またはマメな人であればあらかじめ入れる本たちの大まかな寸法を測っておいて計算していくのだろうが、私は実地派である。
入れてみて考える。そのため途中で入れたあたりから「やっぱり高さがたりない」と思い始め、一度入れた本たちを出し、棚の位置を変えて入れ直していく。幾度となく繰り返される棚の配置換えに、棒のように力と意思を失っていく二の腕。やりながら、かつての登山を思い出していた。

10年前、父と上った富士山。辛かった。登山がこんなにも辛いものとは知らず、登っている途中で涙が出てきた。私はなぜこんなにつらい思いを自らしに来たのだろう。今立ち止まって帰りたい。

例えがかなり大げさだが一瞬そんなことが頭をかすめたのであった。自分がやるべきことをやらないだけで勝手に辛い道を選んでいるのである。幸い今回は高山病もないし、とりあえず汚くても本が入ればゴールである。ちなみに富士登山はその後わりと話のネタになるので今では誘ってくれた父に感謝している。あまりの辛さにもう二度と登ることはないと確信はしているが。

そうして1日かけて本棚整理は終わった。収納の関係から、「ガラスの城」と「きのう何食べた?」はやむなく手放すことにした。この2作品は言わずと知れた名作であるから、読みたくなったらきっとまたどこかで出会えるはずだ。
これを機に、本と一緒にぐしゃっと入れ込まれていた自分の歴代の通信簿たちももう捨てようかと悩んだが、ホメオスタシスが邪魔をするのかどうしても捨てられない。何度も言うが成績は別に良くない。どう考えたら捨てられるようになるのか誰か教えてほしい。

そうしてボロボロになった体をベッドに横たえながら、まだ少し空白のある上段には何を入れようかと考えた。落ちてくると危ないので大層なものは入れられないが、小さな植物くらいならおしゃれかもしれない。垂れ下がるグリーン。横には銀食器のような雑貨も置いたりして。痛む腰と背中を感じつつも、想像と共に幸福な眠りについた。

翌朝起きて本棚を見に行ってみると、収納場所がなくて自室の床に置かれていたトイレットペーパーが本棚の上段に並べられていた。夫が良かれと思いそこに乗せ上げたのであろう。その生活感たるやサザエさんですらこんなことはしない。なぜレディの頭にトイレットペーパーが。発狂することを通り越して思わずしげしげと見つめてしまった。
創造と破壊。そこから新しく何かが生まれる、わけもなく、せめてビニールから出してロールペーパーを並べてみるのはどうか、と精神が渾沌としだしたのであった。

後から起きてきたもけみは新しくできた本棚を一瞥したのち、興味もそこそこに、自分の隠れ家があるクローゼットへと早々に姿を消したのだった。

また書きます、おやすみなさい。

Amazonの箱ともけみ

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