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ゴキブリの光、窓を拭き―【テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ】

先日、我が家の汚れた窓ガラスに透明感を戻すべく、掃除を決意した。
運気が悪くなりそうだからだ。
私は常に運気に脅かされて生きている。

外からやるか、とベランダに出て置きっぱなしのビーサンを履こうとしたら、さっと黒いものが動いた。ゴキブリ(以下G)である。

無言で後ろにのけぞって窓際に置いてあるデスクにかかとを打った。
かかとの痛みなんて今どうでもよく、殺意で自分を奮い立たせGを退治したのだった。ゴキジェットで。合掌。

しかし死んでもなお恐ろしくて、しばらく遺体を片付けることができなかった。
ベランダでひっくり返ったGを背後に感じながら集中力も散漫になりつつ窓ガラスを磨いた。

掃除後、10分ほどかかってGをとらえ、ビニール袋に入れゴミ庫へ走ったのだった。
戦いは終わった。私はことの顛末を、その時留守にしていた夫に誇らしげにLINEで報告したのだった。

後日そんなことも忘れ、猛暑日の休日にふとベランダに目をやると、Gの遺体がしばし放置されていた場所に枯葉色の虫が佇んでいる。
Gではない。手足が長く、体長は3cmくらいか。お尻の先のとんがった部分だけがくろぐろと黒光りしている。

冷房の効いた薄暗い部屋の窓ガラス一枚隔てて、太陽が照り付ける中、その虫はベランダでじっと動かない。

「怖ぇ……」

枯葉色の肢体も怖いが、お尻の先端のコールタールのような輝きが忌々しい。しかもたまにその尻を小さく左右に動いている。どうしようあそこから子孫が出てきてしまったら。

しだいに陽が落ち、気が付くと枯葉色の虫は姿を消していた。

私はその枯葉色の虫のことを、夕飯の際に夫に話した。すると夫はぽつりと「Gを弔っていたのかもしれないね」と言った。
種族を超えて、あいつはいい奴だった、と。なぜか男性的な口調で。

何言ってんの~……と笑い返そうとしたが、夫があまりにも真顔なので言葉を飲み込んでしまった。たまにこういうことを言う人である。
飲み込んでしまうと、私も考えざるを得ない。

Gとその虫のことを恐る恐る脳裏に蘇らせるとき、感じるのは体からの「光」であった。
怖いけど目をそらせない、おぞましさを感じさせる光。
光は希望だけではなく絶望に似た感情も同時に持ってくるのだった。
まる自分の体内に密着し入り込んでくるかのような、狂った光である。

現在、東京・六本木の国立新美術館で開催中の展覧会「テート美術館展 光 ― ターナー、印象派から現代へ」。
イギリスのテート美術館が所有するコレクションの中から、「光」に着目した作品が選りすぐられ一堂に会している。
時代も主義もバラバラなアーティストたちの作品たちが生み出す「光」。絵画、インスタレーションなどその創作は多岐に渡る。


ペー・ホワイト《ぶら下がったかけら》(2004)- 収納すると靴箱一つに収まってしまうらしい

Gと虫に光を感じてからのこの流れは確実にこの展覧会の意図とは違うので心より申し訳ない。でも同じ光だ。使い古されてあえて書くとバカみたいに見える表現を承知で書くと、物事を見るとき、光はかならず影を連れてくる。

Gに驚いた拍子に机に打ち付けたかかとはしばらく赤かったが、内出血でやがて黄色く発光し、今はどす黒い。38歳あたりからあざや傷が完治することがなくなった。このまま私はくすんで、黒くなっていって、あのときのGのようにもがいて死ぬんだろう、その前に美容外科に行ってやる。そんなことを考えさせられる美しい展覧会だった。

で、ベランダにはGよけのスプレーを散布してみたがほかにいい方法があれば教えてください。殺生について教えを乞う人間をお許しください。

ピーター・セッジリー《カラーサイクル III》 1970年-テートのコレクションは割と攻めている

テート美術館展 光 — ターナー、印象派から現代へ

会期:2023年7月12日〜10月2日
会場:国立新美術館 企画展示室2E
住所:東京都港区六本木7-22−2
開館時間:10:00〜18:00(金土〜20:00) ※入場は閉館の30分前まで 
休館日:火 

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