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愚痴の傾向と対策そして愚痴っぽくなっている俺

愚痴を言い続けることと聞き続けること、
どちらが辛いか、という比較は成り立つかしらん?と最近考えることがあった。
ちょっと連日、愚痴のシャワーを浴びてしまったのだ。

私自身、言い続けることも聞き続けることも、両方、人生においてやっちまったことがあって、結果、まったくの別物として「それぞれしんどい・辛い」という実感がある。

そしてどちらの行為も、やっちまう頻度に比例して、重さが違うかもしれない、と考えるに至ったのだった。

愚痴を言う場合の頻度。

ごくたまに人に聞いてもらうと、とてもすっきりする。それでも、ちょっとだけ罪悪感。
「私にも至らない部分があったしな」と反省したりもして、聞いてくれた人にもありがとうと感謝をして、お茶なんぞおごったりして、明日からまた生きていく。

嫌なことがあるたびに常に愚痴を言っていると、どんどん自分の中の正義が増幅し「私が一番正しい」と思い始める。愚痴で笑いが取れた時なんか、みんなに肯定してもらっているみたいで快感。
「みんなも喜んでくれてるし、これからも嫌なことは発信していこう!」

ちょっとした勘違いが始まる。
そして、大して不満に思っていなくても、わざわざ気に食わないところを探し出すようになる。
そのうち、「なんで私ばっかりこんな目にあってるの?」と、苦労して見つけてきた不満に、無理やり自分の不満を上乗せする。

愚痴を言っていると、愚痴を言っている人が集まってくる。
愚痴が愚痴を呼んで、包囲されて抜け出せなくなる。

自分で言って、自分で疲弊する。体中が真っ黒になったように感じて、文字通り、ぐちゃぐちゃ。
なんだか、とても遠くにきてしまった。

私、なんでこんなにイライラしたいんだっけ?

愚痴を聞く場合の頻度。

たまになら、むしろちょっと面白い。
この人はそんな視点で物事を見ていたんだ!と発見したり、頼られて嬉しかったり。
そして、生きていれば不満が生まれるのはお互い様。辛かったねと勇気づけあって、一緒に頑張れそうな気がしてきたりする。

嫌なことがあるたびに愚痴を聞かされ続けると、なんだか、言葉が出てこなくなる。相槌の言葉が見つからない。うっすらと灰色の霧のようなものがその人と私を包み込み始める。
自分の「考える」時間が、霧によって見えづらくなっていく。

さらに、「この人は辛いのに、共感してあげられない私はなんてひどい人間なんだ」と急に自分が悪人だと思い込み始める。

恐ろしいのは、直接愚痴を聞かされていなくても、傍にいて愚痴が延々と聞こえてくるだけで、同じ現象が起こるということ。

イライラしている言葉尻。物事が動かない停滞感、閉塞感。

私、なんでこんなに落ち込んでるんだっけ?

愚痴を言わないために、やってみる。

不満はないに越したことはないけれど、生きていたらそんなことは残念ながら、それこそ無いに等しいと思う。

だれかにちょっとした愚痴を、聞いてほしい時もある。
でも言ってしまったら、何かが生まれてしまう気がする。
自分の口から発した愚痴を自分の耳で聞いてしまったら、不満が確信になって、意志を持った生物になってしまうような錯覚。

だから、そんな生物を生み出さないために、自分の機嫌を取る方法を知っておく。

突然走り出したり、大声を出したり(家の中、枕を口に押し当てながら)してみる。
「想定の範囲内だ」と声に出してみる(意外と効く)。
旅行の計画なんぞ立ててみたりする。
大好きな映画のDVDを見る(笑う・泣く)。
雑誌も漫画も大量に読み耽る。
とにかく、いったん愚痴の対象から離れる。

もし人の力を借りられるなら、愚痴と関係ない場所にいる友人と、他のことでたくさんおしゃべりしてみる。
あとは、最初にも書いた通り、ちょっとなら、誰かに聞いてもらう。聞いてくれた人への感謝を忘れなければ、大丈夫。

愚痴を聞きつづけないために、やってみる。

愚痴が始まったら、複数聞いている人がいるなら、そっと席を立つ。その場所を離れる。

聞いているのが自分だけなら、話を変えてみる。
例:「ところで私さっきからおならしてるんですけど気づいてました?」

話に乗らない。愚痴を言っている人を、褒めてみる。
例:「大変でしたね。なのになんで眉毛そんなにうまく描けるんですか?」

愚痴聞き要員のメンバーからわかりやすく外れると、そこでの疎外感は、残念ながら生まれやすい。

目を合わせてもらえなくなったり、他の話もふってもらえなくなったり。
やりにくい。楽しそうなみんなの輪の中にも、入れなくなる。

昔は、この気まずい時間におびえていた。居心地が悪いし、みんなの不機嫌を自分が招いたような気がして。

今も、この感情が消えたわけではない。でも、ふと気分が楽になっていることに、気づけるときがくる。
基本的に自由に動けるので、席を立つのもタイミングを伺うことがなくなる。愚痴が聞こえても反応しなくて良いので、仕事にも打ち込んで定時退社が日常になってくる。

大事なのは、自分から卑屈な態度はとらないこと。すごく難しいし、こっちは嫌な目にあっているのになんで、て思う時もあるけれど。
人に愚痴を聞かされることと、人に嫌な態度をとるというのは別次元の問題で、自分に非があることをみせることはしないほうがいい。
毎日の愚痴は聞いてあげられないけど、相談なら、いつだってのる。
そう態度で示せれば、大丈夫。これは本当に実体験。

少し本題から外れてしまうけれどメモしておく。

本当に我慢ならない、おかしいと思うことは、もう愚痴でとどめておくことなんかじゃない。

「変えていきたいことがある」という明確な意思表示が必要になる。
面倒だし、変わらないかもしれないし、恥をかくかもしれないし、誰かが不利益を被るかもしれない。

そんな目に合うなら黙っていたほうがマシ、それも選択。
今は守らなければならないことがあるから悔しいけれど黙っている、それも選択。
それって全部、長い目で見たら大したことではない。こんな意見もあったって誰かに覚えておいてほしい。それも選択。

この世は愚痴の歴史でできていると言っても過言ではないと思っている。

最初は愚痴だと思われたことも、意見に変えて、叫び続けたから変わっていったことがたくさんある。
いまだに変わっていないことも、たくさんある。
ちょっとした愚痴で終われてよかった、愚痴で終わらせないでよかった、両方ある。

愚痴は、「文句」「不満」、色々言い換えられるけれど、私は「血液」に見えるときがある
だらだらと垂れ流して、誰かに血を止めてもらったように見えるけれど、また自らを痛めつけて、同じところから吹き出す血液。
みんな、痛みを抱えているのだ。

そして、要は血を流している本人が血を止めたいと思うか、思わないかにかかっている。
もしもう血を止めたい、止め方がわからないと知らせてくれたなら、絆創膏と包帯を持って、一緒に傷を塞ぐ手がかりを探せる、そんな人であれたらと思うし、「血を止めたい」と誰かに言えることができる人になりたいとも思う。

***

偉そうなことを書いているけれど、自分だって大層愚痴っぽいところがあって、人と話していて「なんて自分は物事を悪く捉えていたんだ……!」と気づかされることがしょっちゅうある。
なんでもかんでも前向きにとらえる必要はまったくない(前向きって言葉もそもそもそんなに好きじゃない)けれど、悪く捉えすぎて周りが見えなくなるのもつまらない。

だから最近は、人と会話したいなぁと思う。いやもしかしたら、ずっと前から会話したかったのかもしれない。「この人は聞いてくれないかも」とか、「私は話下手だしなぁ」と決めつけずに、愚痴ではなくて、人の意見を聞いてみたいし、自分も伝えたいと思うのだ。もし「愚痴を言う」その行為が本当に解決したいのに糸口が見つからない、という意味合いなのなら、そこにまだ希望はある気がする。

まだまだ課題はあって、会話をしていても顔色を窺ってしまうことはあるし、人の意見に流されることもある。でも「知りたい」と思えたこの気持ちの変化が、愚痴っぽい明日じゃなくて、変化の明日を迎えられる一歩につながるんじゃなかなぁと、最近少し思っている。

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