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"教育権”を、どう捉えよう

 ホームスクールをテーマに書き綴ってきたnoteのなかで、どちらかといえば間接的に教育権や学習権について触れてきました。このnoteでは、”教育権・学習権”について考えるとき、どのような文献等を参考にし、どのように整理し、どのように解釈し、どのようなものと理解しようと努めてきたのかをふりかえりながら、あらためて”教育権”について考えていきます。

教育とは

 基本的なおさらいをしておこうと思って検索したら、予想外に読み応えのある内容で、もう、このリンクの紹介だけで、このnoteを終えるべきだと思ってしまったくらいです。下記に、目次を転記します。

『日本大百科全書(ニッポニカ)「教育」の解説』
(導入 教育の語源)
教育とは何か
・二つの教育観
・教育の可能性と必要性
・教育目的論と教育目標論
人間と教育
・教育の社会史
・古代・中世における教育研究
近代教育の理念と展開
・近世教育論の諸相
・近代教育の指導理念
・ヘルバルトの教育論
・ディルタイの教育理念
・デューイの教育思想
・マカレンコと集団主義
・20世紀の教育改革運動の諸相
・日本の新教育運動(☆)
・教育の現代化
・教育権と学習権
・教育権の歴史的展開
・学校の誕生
・近代教育思想の変容(★)
・日本における教育権の変遷(☆)
国民教育制度の発展
・教育の機会均等と歴史的発展
・教育の機会均等と義務教育
・統一学校の成立と歴史的展開
・教育領域の拡大・生涯教育(☆)
・日本の国民教育制度(★)
・日本の教育
・大陸文化依存の教育
・日本文化自覚の教育 (1)南北朝時代の教育事情(2)室町時代の教育事情(3)近世封建社会の整備・完成・崩壊(4)江戸時代の武士・庶民の教育事情
・西洋文化摂取の教育 (1)明治5年の「学制」発布(2)教育思想の輸入と教育方法の変遷(3)実業教育の振興計画(4)教科書の検定制度と国定制度(5)大正期の新教育運動と昭和期のファシズム化への傾斜(6)戦後教育の出発
・高学歴時代の教育(☆) 〔1〕生涯教育〔2〕教育の病理現象〔3〕国際理解教育・平和教育・人権教育
各国の教育の歴史
・アメリカの教育 植民地時代~18世紀の教育事情とアメリカの独立~19世紀の教育事情、とくに教育改革運動~20世紀前半の教育事情~20世紀後半の教育事情
・ドイツの教育 ドイツ中世の教育事情~近世・近代の教育事情~ドイツ帝国成立前後の教育事情~ワイマール憲法下の教育事情~ヒトラー政権下での教育事情~東西二つのドイツ~州における自治権と教育の独自性~ドイツ統一と教育
・中国の教育 溥儀退位以前の中国の教育~新中国の教育事情
・ロシアの教育 ロシア教育史(1)18世紀前半の教育事情とピョートル大帝(2)18世紀後半の教育事情とエリザベータ女帝(3)19世紀の教育事情(4)革命前の教育事情
・ソビエト教育史 (1)革命後の教育改革(2)ソビエト教育の特色(3)20世紀後半の教育事情
・現代ロシアの教育
・インドネシアの教育 16・17世紀のインドネシア~18・19世紀のインドネシア~インドネシア人のための最初の学校~20世紀の学制改革と激動~独立後の基本方針と教育事情
・世界の教育改革 アメリカの教育改革 イギリスの教育改革 フランスの教育改革 ドイツの教育改革 日本の教育改革(☆)

 kokageはホームスクールを実践する支えや励ましとなる基盤を探そうと努めてきましたから、そこに至る道筋として情報はおのずと選び出されます(☆や★)。おおまかに書くと、以下の点を軸に、考えを整理してきました。まだ、その途中でもあります。

〇日本の教育制度(学校教育と自由教育、普通教育)を知る
〇法的な位置づけ(権利)を確認する
〇教育観(生涯学習:学校教育・家庭教育・社会教育)を認識する
〇こども観を自覚する
〇文化背景と歴史背景まで含んで捉える


ホームスクールをはじめよう~日本のホームスクール~

 ホームスクーリング・センターkokageのホームページ解説コラムを移行した同タイトルのマガジンがあります。「ホームスクール」について語られる時、多くは諸外国のホームスクーリング制度について言及されることがしばしばあります。しかし、国にはそれぞれの歴史背景があり、文化背景があり、その文脈で、近現代の教育観が成り立っており、さらに国策・政権が反映された制度が誕生します。
 日本には、日本のホームスクールが存在すると認識することからはじめようと思いました。


日本の法体系~国際法規を上位法として~

 「上位法優先の原則」の考え方は、リンクページの下記にあります【『ホームスクールと法律ホームスクールネットれんこん(2003年)>ホーム>法律】から得た知見です。2008年来の我が家のホームスクール実践を支える情報源はすでにインターネットがありました。特に「ホームスクール実践は違法ではない」根拠を自覚しておくことは、こどもの環境にとって最も重要なものだと考えました。こどもに「堂々としてよい」と伝えることができるからです。親の堂々と実践する姿からも、それは”あたりまえ”のことなのだ、と子どもの心に根付くことでしょう。

 教育法規に関する知見は、初めは「学校教育法」からでした。
 ”子どもの教育のこと”だからと思えば、自然ななりゆきでしょう。しかし法体系というものがあります。学校教育法は、どの基盤から成り立っているのか。教育基本法です。では、教育基本法を支えているのはなにか。日本国憲法です。ここで国民は、国家が国民主権を護っているかどうかを監督するのだということを理解できるのです。そして、敗戦国日本は、国際法に基づいて、世界の秩序に参加しているはずですから、やはり国際法にたどりつくことになります。さらに国内法と国際法の関係として「上位法優先の原則」は、国際基準としての基本的人権の共通理解の重要性の理解を示します。わたしたちは世界に住む個人のひとりとして、権利を知り、権利を行使し、その自由を脅かされないように意見を表明する意思をもった存在であることを自覚するのです。

 そうして国際法から国内法まで眺めていくと、国際法と国内法のそれぞれの内容に、整合性や関連性があることに気づくことができます。

日本国憲法第23条(学問の自由)、第26条(教育を受ける権利) 
教育基本法第10条(家庭教育)
学校教育法(就学義務)
教育機会確保法
 ⇔
児童の権利に関する宣言 ⑥⑦教育を受ける権利および選ぶ権利
児童の権利に関する条約 第31条(こどもが休み、遊ぶ権利)第5条 (親の指導の尊重) 第18条 (親の第一次的養育責任と国の援助) 



日本の教育観(教育の歴史)の文脈~日本の教育制度

  ホームスクールを実践する家庭のほとんど(※)は、一条校の在籍生徒になっています。そのため学校対応は必須となります。その時、制度としての学校運営に関わる専門用語を知っていると、共通認識の上で話を円滑に進めることができ、合意形成にいたる対話を重ねるために有効な手段になりえます。学校側や地域に必要に応じて具体的な提案をしたり、要望することが容易になります。立場によって通じる道理、立場によって異なる論理が理解できるからです。そうすれば伝え方も変わります。用語が持つニュアンスによって、どのように伝わるのかが分かるので、なにをどのように伝えれば明確に意図が届くのかが分かるようになります。

 (※)インターナショナルスクールに通っていたり、外国籍を持っていて就学義務に相当しないなどの理由で、在籍する必要のない子がいます。逆に言えば、置かれた環境と状況に応じてその必要が認められていても、就学の機会からこぼれる可能性のある子どももいるため、外国籍を持つこどもたちも就学通知がいきわたる配慮がされるようになりました。インターナショナルスクール生のなかでも、日本国内の一条校を卒業した公的文書(卒業証明書)が必要になるケースも多々あり、卒業学年までに一条校に在籍することはよく知られていることです。

普通教育・義務教育
生涯学習
教育権・学習権
一条校
夜間中学校
デモクラティック
指導要録
出席扱い・学習評価
出席簿
通知表
​出席停止
家庭教育支援/こども・子育て支援


 このnoteを書くにあたり、あらためてkokageのつぶやきやnoteで触れてきた「教育権・学習権」を振り返り、追記しています。

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日本の”教育観”と”こども観”を知ることからはじめよう

 ホームスクールは学校教育の代替とは違って家庭教育の側面が大きく占めます。家庭それぞれの哲学、家庭方針が異なります。そのうえで、家庭それぞれの独創的なホームスクールの空気ができあがっていきます。家庭が置かれている環境、土地柄、価値観、伝統、さらに家庭内で継承されてきた家庭文化までも、ホームスクール環境の要素に加わることでしょう。それほどまでにホームスクールは、”個人”に依拠するのです。

 ホームスクールというと、やはりその例としてアメリカのケースを取り上げられることが多いかもしれません。しかし、アメリカにはアメリカの教育の歴史と変遷、教育観が存在します。例えば、「子どもの権利条約」についてはどうでしょうか。

 ホームスクール先進国とよばれる諸外国の制度体系のみを日本に導入することは、目に見える形式を真似ただけで終わる可能性が高く、本質的な理解まで及んで浸透する可能性を低くします。言葉が生まれるには背景があり、言葉からイメージするものが違ってくることから、受け止めるニュアンス(意味合い、意図)に違いが生じます。
 有用と思われるシステム(制度、構造、体系、仕組み)を参考にすることは、発展に重要な学びですが、そのシステムを支える人の価値観念をとらえることもまた重要な一面でしょう。「なぜ、どうして」といった見通しある理解が、行動の継続を支え、その重要性を肚落ちさせるからです。
 日本の土壌にあうようにカスタマイズされる必要があると思われます。そのことをふまえても、日本の教育観や子ども観について知ることは、とても重要だと考えます。現代社会に求められがちな”合理性”や”効率”、”生産性”といったものだけでは受け入れがたい感情的な部分に、より丁寧に寄り添うためには必要な過程ではないでしょうか。
 そういう意味でも、都市部に通じる道理や理屈を、そのまま地方にあてはめるような中央主義は、全国一律を誘い、柔軟性を失い、全体主義をも誘い出す要因であるとも思えるのです。

教育基本法の改正と、第10条に関する特記

 ホームスクール実践家庭にとって、平成18年に改正された教育基本法で登場した第10条は、家庭が主体となって我が子の教育の責任を負う根拠として大きな支えとなってきました。

教育基本法 第10条(家庭教育)
第十条  父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

出典:マガジン『ホームスクーラー、教育機会確保法を考える

 この条文は、家庭にまで法律の網をかぶせようとした、と反対派には理解されていました。しかし、この『仕掛け』を使えば、逆に、家庭教育の自主性を護ろうとした、と読むことができるのです。古山ブログより抜粋

 我が家がホームスクールに本格的に移行することを考えた時、初めてしたことは「違法ではないか」の確認でした。法律の条文を読んでいて、みつけたこの第10条は「ホームスクールができる」最大の根拠となりました。憲法が誕生した当時、ホームスクールという言葉や概念はまだなかったとしても、「学校以外の多様な学びの場と機会の登場は、想定されていた」とする説もあります。逆に言えば、いかに現在においても公教育が学校教育独占状態であるかの摩訶不思議さが垣間見えてきます。
 我が家もまた第10条を支えと根拠に、自信を持ってホームスクールを始めることができたわけですが、「家庭にまで法律の網をかぶせ」る解釈に塗り替えられる様相を示したきっかけが、2016年に成立した教育機会確保法であると言えます。

 『ホームスクーラー、教育機会確保法を考える』noteは、元々、kokageホームページのウェブサイト内で投稿していた記事を元に2018年から投稿したものです。2021年現在までに、確保法の影響にどんなものが認識できるかの観測がなされてきました。
 【教育機会確保法は、諸刃の剣】。
 このことは法案を推進する人たちも、そうでない人たちも自覚していたはずのことで、そのため、家庭にとって不利益の無いように活用するために、必要なことがありました。その内容についてはリンクのnoteに譲ります。

 教育機会確保法が成立して、思うほどには学校現場や家庭に浸透していない様子が見られますが、いくつかの声が届きました。実感もありました。

●「不登校を選んだ」の言説が(再び)広まり、”学校に行かない”ことを積極的に選んだことを肯定することで、不登校を受容する姿が強調(推奨)された。

●「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」点を必要以上に認識された結果、「不登校を選んだんですよね」と善意で尊重され、学校から完全放置状態に置かれた。

●”学校に行けない”心身の状態にある不登校児童生徒の対応とは区別されて、”学校以外の多様な学びの機会に選んだ児童生徒”として扱われ、学校側からの要求で、出席扱いにするために学校教育に相当する教育を受けている証明を求められる。

 これらの対応で望ましい家庭もあれば、当然、そうではない、望んでいない家庭もあります。個別の対応が必要なところを、忖度する体質もあいまって、いわゆるクレーム対応・予防策なるラインがはられた心地でした。学校が、保護者・児童生徒・教育委員会・文科省のいずれに向かっているのだろうかと問われるところだと思います。

 教育機会確保法は、【教育権は親に”も”ある】と既存の基本的な権利を再認識する機会、実際には知らなかったことを初めて知った機会になったと思われますが、行き過ぎて【子の教育権は親のものだ】と認識されてしまう側面も持っていたのではないか、とも思われました。

 人権について、子どもの権利について、初めて目を向けるようになって、学びを進めている真っ只中では、それが行き過ぎたものにならないよう、そして、本来の目的や本質からはずれないよう、客観的な目、冷静に見極める目を持ち続けることはとても重要な役目を果たします。初めて知ることについて、驚きとともに、いいようのない怒りや憤りがわいてくるのも自然なことです。与えられるはずのものを、手にしていなかった事実に気づくからでしょう。
 けれども私は思います。

権利を行使することと、
当てはまる条件を根拠に、権利を拡大して【特権を要求する】ことは、
まったく違います。


「休んでもよいと認められた」に眉をひそめる理由

 権利について考え始めると、教育権や学習権と関わって、現在では教育機会確保法の影響を外すことができません。別のnoteでも書いたことですが、確保法がもたらした益のひとつとしてよく挙げられる言葉です。ツィートを記しておきます。
 学校以外の多様な教育の機会と場を「認められていない。認めて。」の主張にも同じもどかしさを感じます。もどかしさの正体は、個々人が、それぞれすべての人が持っている権利を、自分も持っているのだと自覚がないことだろうと思っています。
 

欠席する理由に正当性も何もない.「欠席する」と意思表明し,それが尊重されるというだけのことだ。
「学校に行かない」理由の中で認められる・認められないの区別などない。
「欠席する」という事実状況にすぎないのだから。
「不登校」だと認める理由の正当性を計ることも当然必要ない。
本人の意思によるのだから。

「認められる理由が無ければ欠席できない」と考えるのは、休む権利をみずから放棄しているのと同じこと。休む権利は、権威者に「許可承認」を受けたからなされるのではなくて、基本的人権なのだから。

求めることは「欠席した」ことで受ける不利益を最小限にすること。それが学習者の権利を護る。

学校にとって「欠席する理由」など重要ではないだろう。重視しているのは欠席したことで生徒が「国が定める学習指導要領に沿った学習課程を受ける機会」が奪われることだ。学校教育を家庭で行うことはできない(これが文科省HPにある通りの「フリースクール・ホームスクールと義務教育の関係」)。
そこで今現在進められているであろう学校改革がいわば在宅学習での履修を認めるGIGAスクール構想とみられる。経済産業省Edtech「未来の教室」には在宅学習者の学習内容を学習指導要領に沿ったカリキュラムで作成し、それを学校教育の履修・修了とみなす。ただし、それを選択できる生徒は限られるだろう。
想定される対象となる生徒は従来の長期欠席児童生徒であり、病気療養や不登校、スペシャルニーズを持つ生徒。医療的に「登校するのが難しい」と判断される生徒となるが、この点の変更があるかもしれないとは思う。
そこで懸念される点は「医療機関の介入」だ。
なにかしらの「診断名」や「所見」が求められるのであれば、我が子の教育というきわめて私的な市民行動が、「認められる」ためにという動機から出発する制度整備がなされ、いとも簡単に国家介入に結び付けられるだろう。
ここにもっとも危険性を感じていたのがオルタナティブ法案はじめ教育機会確保法に反対や懸念の意をしめした人たちだったはずだ。
「認められる」引き換えに自分らしく生きる権利、個人の尊厳、自由を奪われることがあってはならない。
ましてや「責任を伴う自由」と正当化されることなど、容認できるはずもない。その理由もない。
-2020/5ツィートより

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アンスクーリング12年目のホームスクール家庭から見える「ホームスクールとはなにか」を探りながら、教育について、学習環境について書いたnoteをまとめていきます。

自由教育としてのホームスクール、学校に登校するという従来のスタイル以外のカタチで学校教育をまなぶ在宅学習。ホームスクールか、不登校か。教育…

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