見出し画像

調整力

マガジン『ホームスクール、まなびのエッセンス
8ノート目

Essence:調整力


 小学校の保健委員会が主催する会がたびたびありました。専門の講師をお呼びした地域に開かれた学習会という感じでしたので興味深く参加していました。ある日のテーマは「学校給食について」でした。
 学校給食は基本的に完食することが望ましいですよね。作ってくださっている方々の想い、献立を考えてくださっている方々の想い、それから地域から食材を提供してくださる方々の想いが詰まっている給食です。(※給食室があり、そこで作っている学校でした。温かいままの給食をいただくことができます。)お悩みは目下、「食べ残し」だったのでした。
 給食時間のどんな工夫が考えられるでしょうか。

・一度よそったものは残さない
・すべて食べ終わるまで時間をかけてもよい
・「おかわり」推奨

 だいたい大きなところでこの3点でしょうか。かける時間をいつまで、どこまでにするかは先生の裁量によるようです。給食時間内にということもあれば、休み時間や掃除時間まで延長ということもよく聞きましたね。「おかわり」推奨というのは、クラス全体で給食を残さない努力をしようという考えが基本にあって、どうにか食べてもらいたい雰囲気が記憶に残るようです。
 そして、「よそう」量について意見がありました。

・よそう量を決定する
・よそう量を自分で決める

 給食献立は、低学年・中学年・高学年により調理する素材の量が違っています。学年(年齢)によって摂取推奨量が異なっているためです。単純に言えば平均的な体重別です。必要な栄養素は基本的に大人とこどもとで同じものが目安になっていますね。個別で考えると成長発達の具合や生活状況により「お昼に食べたいもの」はひとりひとり違って当然ですが、学校では平均的な目安を指標とするのはやむを得ません。これを基準にひとりあたりの量を視覚化すればよいのではないかという提案です。基準量を決めて、公平にその量をよそえるようにしたらいいのではということですね。

 こんな報告もありました。

 小学新1年生の学年は、食べ残しはほとんど無い。
 2年生にあがると途端に食べ残しが増える。

 1年生と2年生では給食で配膳される量に違いはありません。むしろ1年生の時より成長しているはずの2年生になると食べ残しが増えるのです。これに悩んでいるとのことでした。これに対して出た意見が次のようなものです。

・1年生は初めての学校生活で緊張と興奮の状態でもあって、給食を張り切って食べたのではないだろうか。
・2年生になって慣れが起こるのでは?
・それならば「食べ残してはいけない」指導が必要なのではないか。

 よそう量を決定する意見である方々の姿勢は、あくまで児童生徒の行動は大人が指導してあげなければならないとの思想であることがよくわかります。

 これは社会通念に連なるこども観からなるもので、学校現場でも教員養成課程でもあるいは保育士養成の課程でも、家庭内で世代間の家族文化継承によってもそのように学習してきた年代層が(2019年現在)40代後半あたりから上といえるでしょうか。それ以降は教育現場でのこども観の転換がありましたが、実際に家庭までそれが浸透するにはまだまだかかります。転換したこども観とは「こどもは未熟な大人」から「こどもという存在」になったことです。前者では「成熟した大人になるように訓練しなければならない」思想に流れます。後者は「個々の発達段階に応じて適切な育成環境を整えられ、こどもとして保護されるべき」思想です。児童の権利が認識された歴史です。しかし日本社会ではまだまだ「こどもの権利」「こどもの人権」についての理解は未熟なように感じます。


・よそう量を自分で決定する

 こどもの行動は大人が決定してあげなれけばならないと考える人たちは、こどもが主体となって自発的に決定する行動を信じることができません。もし行動をおこしたとしてもそれは「間違っているに違いない」と捉えます。それは「完璧なるモデル」を想定しているからに他なりません。個を見ずに、全体の理想モデルを目標において、それにひとりひとりを近づけることが教育の役目だと考えているのかもしれません。
 よそう量を自分で決定させてしまうと、「正しい量が分かるのか」と心配するようです。「それは適切な量に正解しているのか」と疑いたくなるようです。

 こどもは大人よりも誕生した時期に近く、本来持っている本能がまだまだ残っています。その感性も残っています。人間が成長していく過程は、数多の本能のなかから、自分が置かれた環境に適した能力だけを残し、使われない能力を動かすエネルギーは抑制することを学習していくようなものです。これもまた「こども観」のひとつであり、東洋的であるとも言えそうですが、「人間はもともと必要な能力の芽をすべて持っている」というとらえかたです。西洋的には「人間はうまれつき持っている才能が決まっている」と考えるようで、これは対比として挙げられるのですが、どうでしょうか。
 「もともと必要な能力をすべて持っていて、生まれ育つ環境によって選択された能力を才能と言う」のであれば、どちらも「その通りだ」と言えるのではないでしょうか。
 仮にそうだと考えると、「自分に適した量を決定する」能力は誰もが持っていて、その能力を発揮する機会が与えられているかどうかなのです。機会が与えられてこなくて、その能力が沈んでしまった時には、適した量を決定するちからは弱まっているかもしれません。でもその能力は消えているわけではないと思うのです。機会が与えられれば、道筋は違っていても、いずれは再燃する能力だと考えられないでしょうか。よく能力は「獲得する」と表現されます。その表現が適切な場合ももちろんありますが、それは「もともと無かった」という前提ではないように思います。

 調整する力を、人間は本来持っています。


 食べ物の好き嫌いはその現われで、知識として理解する以前に、食べたいもの・食べたくないものは、調整力を信じて育ってきた子では的確に選んでいることがわかります。言い換えると調整力が抑えられてしまっていると、なにを選んでよいのかがわからなくなっているかもしれません。標準や平均のモデルの枠にあてはめられてしまうとそうなるのではないだろうかと容易に想像できるのではないでしょうか。

 食べたいもの・食べたくないもの、その量も含めて、その目に見えることによって自分の体調、心の状態を理解することができます。そしてなにを食べれば整えることができるのかも、経験を重ね、検証を重ねて実感することで学習していきます。食べる時間もそうです。
 ひいてはすべての調整力につながります。起きる時間、眠る時間、休むタイミング、行動の上限…エトセトラです。

 人間本来の持つ力を信じてみませんか。


 長くなったのでこのへんで。
 ありがとうございました。

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 160

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。