シャワーが止まる事だってある

シマ:3月15日

 朝、シャワーが突然出なくなった。
この賃貸住宅に越してきて五年、調子の悪い素振りなど一度も見せたことのないシャワーが突然。
シャワーとカランを切り替えるハンドルを何度捻っても、シャワーヘッドに空いた無数の穴からただの一滴の水も出ない。
戸惑った私はとりあえず浴槽のヘリに腰掛け、気付いた時には「え〜、どうしよう。」と呟いていた。途端、自分はこういう状況下で「え〜、どうしよう。」と実際に口に出すタイプなんだなと思った。
私が困っているのは、自分が今全身をゴシゴシタオルで洗い終え、これからその泡まみれの身体を流さなくてはならないという段階でシャワーが止まってしまったということだ。
ヘリに腰掛けたまま少々落胆を続け、これからどういう行動をとるのが正解なのか考えた。はたから見ればあしたのジョーの様なポーズだったかもしれない。
最初に浮かんだ案は、「とりあえず身体をタオルで拭いてみる。」というものだ。泡も一緒にタオルで拭き取ってみて、身体に残るぬるぬるの処理については、何分後かにもう少し冷静になるであろう未来の自分が何か閃く事に賭けるとして。タオルは脱衣所の洗濯機のラックの二段目に積み上げている為、風呂場から一歩出て手を伸ばせばとれる。泡で床を濡らすのも右足が着地する一歩分だけで済む。
幸い、洗髪は済ませた後だったので、泡の処理しなければならないのは身体の部分だけだ。髪をシャンプーした流れで身体も洗い、最後にまとめて全身を一気に流すタイプの人間もいるが、私は髪を洗い流した後に両手で軽く水を切り、その後に身体に取りかかるセパレート洗体タイプの人間なので助かった。いや、助かってはいない。
気がかりなのは、水の出ない原因が、果たしてシャワーハンドルの故障によるものなのか、はたまた断水や水道工事などによるもう少し広い世界で起こっている事が影響しているのかがわかっていない事だ。数ヶ月前に一度水道工事の影響で少しの間だけ断水した事があった。しかしその時は、断水する可能性がある旨を告げるチラシが郵便受けに入っていた。ここ最近でそのようなチラシに心当たりはなかったが、知らぬ間に妻が捨てた可能性もある。
さて、それを検証するには、風呂場から脱衣所に出て、五歩程歩いた先にあるキッチンの流しの蛇口を捻ってみる他ない。
一個目の案に比べ床を濡らす範囲が拡大してしまうが、もし水が出なければ泡を洗い流す術は一旦全て失われ、消去法や開き直りから行動を起こすしかなくなってくる。それはそれで話が早い。
私は決意し、キッチンまで行ってみる事にした。
脱衣所の竹タイルに対し、ダイニングキッチンはクッションフロア。水に濡れるととても滑りやすい。こういう時に限って転んだりして、泣きっ面に蜂という目に遭いやすい事は、これまで生きてきた中で学んだ事なので、滑らぬ様用心しながら歩いていき、キッチンの流しの蛇口を捻った。流しは飄々とした様子で水を吐き出し、何秒も待たないうちにお湯へと変わった。
断水ではない事を確認した私は、来た道を戻り風呂場から洗面器をピックアップし、キッチンでお湯を汲み、風呂場でそれを身体にかけた。身体に纏っていたはずの泡は時間が経過し、泡というよりかは透明のぬるぬるとした液体が鬱陶しい膜になって肌にまとわりついているという様な状態になっていて、さらに室温がその膜を冷まし身体は冷えていて、一言で言えば悪い状態だった。キッチンへの往復を二度繰り返して、身体についた全てのぬるぬるを除去した。もう一往復すれば満足に身体を流せたが、床を濡らすのを最小限に抑えたかったのと、頭の中にレイトン教授のゲーム内に出てくるナゾ「イカダに乗せたヒヨコを対岸に最短何ターンで運べるか?」「容量の違う器の水の移し替えで8リットルずつに分けるのに最短何ターンかかるか?」のイメージが膨らみ、知らぬ間に「最短」で身体を流す事が目標となっていた。

 夜、仕事場から自宅に戻り水道工事の手配をする。
24時間対応の水道工事が今夜中に来てくれるのであれば、夕食を仕込みながら業者を待つし、本日中の対応が難しそうであれば先に銭湯へ行き、戻ってから夕食にしようという算段でいた。こんな時の為に冷マ(冷蔵庫にくっ付けるマグネット仕様の水道工事の販促チラシ)の一枚や二枚持っておくべきたったと後悔しながらインターネットで水道業者を検索した。【杉並区への出動 最短15分〜】という業者が見つかり、早速電話をかけ、自動音声ガイダンスに従い、条件に見合う番号をキーパッド入力し、いくつかの分岐を経て、ようやく「エリア担当者から折り返しの電話を致しますので、そのまま電話をお切りください。」というところまで辿り着いた。

それから一時間半が経つ。いつもより丁寧に炒めた玉ねぎを使ったサバ缶カレーが完成するどころか、完食までした。未だ折り返しの電話はない。
踏ん切りを付けて銭湯へ向かおうと自宅を出たところで階段を踏み外し、10段ほど滑り落ちた。
ズダダダダァアという大きな音を立てて滑り落ちたせいで、一階の住人が驚いて玄関から顔を出した。
「大丈夫ですか?」と心配してくれた。私は恥ずかしすぎて大丈夫ですと答えるよりも先に「すいません。」と言った。
一階の住人はスカイブルーの半袖のTシャツだった。

春だ。


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