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長編連載小説 Huggers (16)

裕子は沢渡のことが気になって仕方がない。

         裕子(3)

 患者の急変やトラブル続きで特別に忙しかった日勤の日、裕子は仕事帰りに少し奮発して、一人でも入りやすいデパ地下のイートインコーナーのカウンターで「築地寿司」の握りを食べる。スイーツ売り場を物色し、大好きなフルーツがたくさんのった大きなゼリーを買ってアパートに帰る。

 風呂に入ってルームウェアのパイル地の上下に着替え、ノートパソコンを座卓に移動して、電源を入れてから紅茶を淹れる。冷蔵庫からゼリーを出して紅茶と一緒に座卓に運び、フルーツと生クリームを一緒にスプーンでたっぷりすくって口に入れ、それからインターネットの画面を開いて「沢渡哲史」と検索してみる。
 名前占いが二件しか出てこない。

 続いて「お気に入り」に入れた「長谷川不動産・世田谷」~あなたのまちの不動産屋さん~をクリックする。
 画面の右端に、会社の基本情報、「地域に密着して人と人のつながりを大事にする」という要旨のコンセプト、アクセス、スタッフ日記の項目がある。スタッフ日記を確認するが、ここのところずっと更新されていない。

 その作業を終えてからメールソフトを開いてメールをチェックする。ハガー協会から来月七月のセッションの依頼がもう二件来ている。あらかじめ仕事の休みの日を知らせてあるので基本的には全部受けられるのだが、たまに事務局のミスや自分の勘違いもあるため、手帳を開いて来月の勤務予定と付き合わせて確認する。

 以前永野から聞かされた新しいシステムが、小倉を含む数名のホルダーの「時期尚早」という意見をしりぞけて、この六月から始動した。
 それにともないセッションの申込み方法が変わり、今までの紹介者制に加えて、先月初めてスピリチュアル系の雑誌に出した広告や、今月初めに公開したHPでセッションを知った「いちげんさん」からの申込みも受け付けることになった。
 システムが変わったばかりなので裕子のところにはまだ「いちげんさん」のセッション希望者は来ていないが、来月発行される雑誌にハグ・セッションの特集記事が載る予定なので、一気に希望者が増えるかもしれないという通知が、数日前に協会員に宛てた一斉メールで来ていた。

 事務局への返信を終えると、しばらくは紅茶を飲みながら頭を空っぽにして「お気に入り」の中から目に付いたサイトをのぞいていく。夢中になっていて、気がつくと午前一時二時になっていることもしばしばだ。今気になっている若手俳優のブログはかかさずチェックしている。恋人ができたことはないが、擬似恋愛の対象が途絶えたことはない。さすがのハガー協会もそこまではダメ出ししてこないようだ。

 そうこうしている内にメールの着信音がして、メールが二件入ってきた。一件は永野英夫からだ。「TS氏のモニタリング調査結果」というタイトルを見て、鼓動が早くなる。気持ちを落ち着けるために深呼吸をしてから震える手でマウスを動かし見やすいように画面を最大化する。

「西野裕子様
 お疲れ様です。モニタリング担当者より以下のような報告が上がってきました。
『TS氏のセッション後の変化について、第一回の報告をいたします。二月のセッションより三か月半が経過しましたが、セッション後の対象者に一般的に見られる範囲内でのゆるやかな変化が観察されます。より深い意識シフトの兆候はまだ認められません。通常セッション後に行われる、本部とのメールのやりとりによるフォローアップや、定期的なアンケート調査への回答などのデータがないため、本人の感覚に基づいた内的変容の深さは把握しかねます。しかし外側から見る限りでは他の対象者と特に変わったところはなく、短期間での著しい変容による環境不適応等も起こしていない模様です。引き続きモニタリングを行いますが、緊急な措置の必要は今のところなさそうです』
心配なさそうで、よかったですね。 永野」


 3回ほどその文面を読み直し、裕子はほっと息をついた。安心したのか失望したのかは自分でもよくわからない。何か不都合なことがあれば、どんな形にせよもう一度沢渡に会う口実ができると、どこかで思っていたのかも知れない。
 報告の中に沢渡の個人的な情報、家族、特に妻とどのような事情があるのかについて具体的な内容が含まれていないことが、当然だと思いながらも、やはり裕子をがっかりさせた。

 しばらく沢渡について思いを巡らせた後、もう一件のメールのタイトルを見る。キンモクセイからだ。
 キンモククセイとは年齢も近く、同じ独身の仕事を持つ女性として共感できる部分もたくさんあるので、近頃は気心の知れた女友達のようになってきた。ここのところ、スカイプでの共振が必要になっても、小倉よりもまずキンモクセイに依頼することが多い。「誰に頼むかはハガーの自由だから、後ろめたく思う必要はない」とは最初に小倉に言われたことだが、どうしても気になってしまう。

 決して避けているわけではないのだが、小倉とスカイプで共振するとき、どういうわけか妙に構えてしまう。つい先日まで、夜勤明けのボロボロの姿や、寝る前のノーメイクの顔を見られても平気だったのに、最近はきちんとメイクをしていない顔をスカイプ画面にさらす気になれない。画面なしの音声のみの通話でも共振はできるが、表情や目の感じから受ける全体的なエネルギーを見たいので、できればビデオ通話にしてほしいと言われている。音声のみでと指定するたびにいちいち言い訳をするのが面倒で、つい共振自体をあきらめてしまったりする。

 軽く頭を振ってもやもやした気持ちを追い払い、キンモクセイのメールを開く。
「裕子ちゃん
 お仕事お疲れ様。 
 大ニュースがあるの!
 前に話したソウルメイト・リーディングの話覚えてる?
 東欧のカリスマ占星術師の話。半年待ったんだけど、昨日返事が来たの。びっしり十四枚のレポートだよ。それでね、私のソウルメイトだけど、日本人らしいよ。出会いは来年の春だって。仕事関係で知り合うって書いてある。
ああもう! 待ち遠しいよ。私も今年は三十六だし、子どものことを考えると、そうのんびりはしてられないしね。」

 驚くべき的中率で次に出会う「ソウルメイト」を教えてくれるというその占星術師のリーディングは、常に申込みがいっぱいで受付から手元に届くまで半年近くかかるのだが、各人の「ソウルメイト」に関して、性格や育った環境、学歴、食べ物の好みや健康状態、歩き方や癖まで具体的に教えてくれるという。そして実際に「ソウルメイト」に出会った人は、リーディングの内容が細かい点まで一致していることに驚愕し、感謝の言葉をサイトに書き込むので、さらに申込みが増えるらしい。

 メールは「もし私が来年この人に出会えたら、裕子ちゃんもぜひ申し込んでみて」と結んであった。恋愛、結婚、出産。キンモクセイはそれを当たり前のことだと考えていて、何の疑いも持っていないようだ。

 不思議な気持ちがした。裕子自身は子供はおろか男性とつきあうことすら、現実的に考えられない。もちろん今まで縁遠かった、ということもあるが、自分さえその気になれば、まったく相手がいないわけではないと思う。実際、丁寧なケアが男性患者から気にいられ、退院するときに名刺を渡されたり、アドレスをきかれた経験もないわけではない。
 
 だが正直にいって、この年で見知らぬ男性と一から関係を築くのはおっくうだった。それよりも、こうして誰に気をつかうこともない独り暮らしの部屋で好きな俳優やアーティストのブログを読んだり、たまに思い切って舞台やコンサートを見に行くぐらいのほうが気が楽だ。二次元の世界に理想の相手を見つける若者の気持ちがわかるような気がする。

「いいの、私は一生、ハガーを続けたいから」
というとキンモクセイは「まあホルダーとしては喜ぶべきなんだけどねぇ」と複雑そうな表情をする。
 それでも人がときめいている様子は何となく微笑ましく、占いが当るかどうか私も楽しみにしてます、という内容の返信メールを送信した。
 電源を落としてノートパソコンを閉じると、目の奥にじんわりと疲れを感じ、両手の指先でまぶたの上からそっと押さえた。

 疲れる一日だった。担当患者の園田幸生の転院先を決めなければならないのだが母親が高齢のために話がなかなか進まない。
 大学病院は治療が必要な患者を入院させておく場所なので、急性期を過ぎた患者には転院してもらわねばならない。
 園田は相変わらず意識が戻らないままで、発症から三か月を過ぎた今となっては植物状態と認定され、意識回復の望みは薄いが、病状は安定した。重い合併症を繰り返していたため、入院期間は通常よりもはるかに長い四か月に及んでいたが、そろそろ限界だった。
 数週間ぶりに見舞いに来た園田の母親に担当医から転院してほしい旨の話をしたのだが、どうも病院側の意向がうまく伝わらなかったようで、母親は裕子の手をとって、もう少しここにおいてもらえないだろうかと涙ながらに訴え続けた。
 裕子は深いため息をついた。
 たとえどんなに理想的なパートナーと出会い、運よく結婚できたとしても、相手や自分にいつ何が起こるかは誰にもわからない。それが病気や事故のように深刻なことでないにしても。沢渡夫婦の間に何かが起こったように。
(つづく)


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