対ステルスストレス戦線異常あり
先日、都会から離島へと移住した知り合いが思いがけずこう言った。
人々は日々、ストレスを溜めたり、ストレスを解消したり、ストレスを我慢したりしてる、つもりでいる。つまりストレスを自覚している、という前提で話は進む。
ところがどっこい本当のストレスは内に潜る。意識にすら上らない。自覚なんてもってのほか。その、身体のみが知覚している【ストレス】こそがストレスの本丸で、自覚できてるストレスなんて氷山の一角に過ぎない。そしてその【ストレス】がストレスとして意識の上に前景化するのは、半ば偶然その【ストレス】から解放されたときであって、その【ストレス】がなくなってはじめて「あれはストレスだったのだ」とあくまで事後的に意識化できる。
その身体のみが知覚している、意識されない【ストレス】のことを、「ステルスストレス」と呼ぶことにする。
少し私自身の話をする。
私は東京生まれ東京育ちで、コンクリートジャングルで生まれ育った。自身の苗字の漢字を「田んぼの田」と説明するくせに、ずっと田んぼを見たことがなかった。
そんな私だが、現在は何の因果か、里山の真ん中にある広大な古民家を仕事場にして竹と戯れる日々を送っている。
久々に東京に行くと、かつて晒されていた「ステルスストレス」の嵐である。電車のベル代わりの音楽が毎回プツッと止まるのがストレスだった。トイレのために行列に並ぶのがストレスだった。空が狭いのがストレスだった。音を思うがままに出せないのがストレスだった。駅をまっすぐ歩いてるだけで人にぶつかるのがストレスだった。などなどなど。
確かにそうだろう。ステルスストレスの自覚化は不可逆的な変化をもたらす。つまり、かつて耐えられた、いや耐えてすらいなかった当たり前の日常が、突如としてストレスとして知覚されるのである。それはなかなかの地獄であることは想像に難くない。あれもストレス、これもストレス、となれば「生きて行けない」という感覚は理解できる気もする。
ではステルスストレスはそのままにして、リラクゼーションやリトリートなどの「解消」という名の隠蔽を繰り返しておけば幸せな毎日を過ごせるかといえば、そんなわけない。
ステルスストレスを、身体はたしかに知覚している。ステルスストレスは着実に堆積し身体を蝕む。「一番のスキンケアは退職」というのがかつて流行ったが、ヘルスケアもダイエットも免疫強化も感染予防も、結局「ストレスの回避」が最善の策ではないかと思うほどに、みな夥しい数のステルスストレスに晒されながら生きていて一様に元気がない。
おっと、ステルスストレスという字の並びがゲシュタルト崩壊を起こし始めた。新種の恐竜「ステルスストレス」は群れで生活し、背後から音も立てずに忍び寄り全身に毒を浴びせて狩りをする。
乱暴に言ってしまえば、ステルスストレスを自覚すれば心の地獄、自覚しなければ身体の地獄というわけで、どちらの地獄がいいかと選択を迫られれば、新たな未知の地獄より勝手知ったる多数派の地獄の方がまだ安心感がある。だから結果的に多くの人たちは、ステルスストレスに身体を晒し続けるという選択を無意識のうちに行なっている。無意識のうちに行うものを選択と呼ぶのは無茶があるのは承知してるが、少なくともそのように見なされうる地獄を我々は生きている。
「ストレス耐性」という言葉をよく聞くけど、自覚すらできてないステルスストレスには耐性なんてつけようがない。身体は隠蔽が苦手だから、溜まるものは溜まる、蝕まれるものは蝕まれる。強いとか弱いとか基本関係ない。
ではどうすればいいのか。
身体の声に耳を傾けよう!とか、環境を変えてステルスストレスを意識化しよう!とか、意識化したストレスの解像度を上げて、腑分け、細分化をしてせめてストレスの対象範囲を限定させよう!とか、なんかそれらしいことを言うことはできるけど、どれも胡散臭い。
そもそも「生きること」と「ストレスに耐えること」が、そして「働くこと」が「ストレスを甘んじて受けること」とほぼ同義になってるようなこの社会において、ストレスと真っ正面から対峙するなんてキツすぎる。
こんな名言を遺した人が先日亡くなったが、ここで補助線になるかどうかわからないが、元気について考えてみる。
ここのところ、「元気がない人」が増えている。
「元気がない」というのは、もう少し具体的に言えば「何かに挑もうとしたとき、『どうせやってもできない』という予感が先に来る状態」である。逆に言うと「元気がある」というのは、「何かに挑もうとしたとき、『とはいえやればできる』という予感が先に来る状態」である。
興味深いのは、本来「どうせやってもできない」「とはいえやればできる」どちらの予感も特に根拠があるわけではなく、もっと言えばそれは「幻想」に近いものですらあるのだが、「元気がない人」は「できない」理由や根拠を殊更に示す傾向が強く、「元気がある人」は「できる」理由や根拠なんて考える間もないまま、根拠なき予感のみを頼りに挑んでいく、という事実だ。
この「元気がない人」が殊更に示す「どうせやってもできない」理由の内容は、基本的に出鱈目なもので、それ自体に耳を傾けてもあまり意味がない。ただ、「元気がない人」がこちらが尋ねてもいないのに「どうせやってもできない」理由を語るのには理由がある。「何かに阻まれている」という自覚のみがあるのだ。
もうお分かりだろうか。
「元気がない人」が「何かに阻まれている」と感じる、その「何か」、それこそがステルスストレスである。
ただ先述のように、ステルスストレスは、身体は確かに被曝していても、意識化することができない以上、常に「何か」という名指し不能なぼやけた存在としてしか知覚され得ない。ところが意識は「何か」などという曖昧さに耐えられないため、身代わりとして明確に自覚できる「どうせやってもできない」理由が開陳される。
一方で「元気のある人」はどうだろう。
「元気のある人」はストレスフリーに生きてると思われがちだが、全然そんなことはない。特にこの地獄のようなストレス社会において、ストレスから自由になることなど不可能である。どこを見回してもストレッサーばかりで押し潰されそうになる。
ただ「元気のある人」は、相対的にステルスストレスへの被曝が少ない印象がある。つまり何らかの偶発的な環境変化によって(これは大抵意図されたものではない)身体が晒されていたステルスストレスを自覚するに至り、自覚的にかつてのステルスストレスを回避できるようになった人が、この社会においては「元気のある人」なのである。
ここで大切なのは、「元気のある人」はステルスストレスを回避するために環境を変えた、というわけではない、というところだ。ステルスストレスはそのままでは意識できない以上、それを意図的に回避することは不可能である。
つまり何らかの偶然によって、「動いた」ことにより、環境が変わり、ステルスストレスを自覚し、その回避が可能になった、というわけだ。
これはなかなか絶望的な事実である。
なぜかというと、「元気のない人」は「どうせやってもできない」という予感が先に来るため、「動くこと」が何より難しいからだ。動かなければ環境は変わりにくい。環境が変わらなければ、ステルスストレスは自覚されないまま。身体は今まで通り蝕まれ続ける。
だが救いがある。
動かなくても、環境は変わるのだ。
特に昨今の変化は、その速度と程度がけた外れだ。
つまりステルスストレスを自覚する契機は、明らかに増えている。かりそめの「安定」を享受した前の世代の人々には想像できないほどに、世の中は目まぐるしく変化し、今日もそこここでステルスストレスは炙り出されている。
リモートワークをきっかけに、通勤にまつわるあれやこれやがステルスストレスであったことに気づいた人も多いだろう。コロナで実家に帰れなくなったおかげで、実家のあれやこれ屋がステルスストレスであったことに気づいた人も多いのではないか。
元気を取り戻す契機は、むしろ増えている。
わざわざ動かなくても、社会や時代が勝手に動いてくれる。それはとりもなおさず、ステルスストレスの自覚化の契機という意味において、望ましいことである。変化に乏しい硬直化した社会においてステルスストレスに晒され続けることを想像してみてほしい。どう考えても、急激な変化のおかげで、この社会はマシな地獄へと向かっている。
せめて「あれはステルスストレスであった」という事実を認めきる気概を。
そしてそのかつてのステルスストレスから逃れるための実践を。
時代は確実に、元気を取り戻す方向へとシフトしている。
あと必要なのは、ほんの少しの気概と実践のみだ。
「元気のある人」が少しでも増えますように。
そして「元気のあるあなた」といつかどこかで出会えますように。
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