ホームステイ参加生徒と__1_

大リーグを呼んだ男「秋沢志篤」を知っているか 子どもの未来にかけた人生(前編)

TBSテレビ報道局 社会部長 武石浩明

11月14日、都内で開かれたある男を偲ぶ会。その男の魅力を示すかのように財界、芸能界、スポーツ界などから多くの人たちが集まった。

秋沢志篤(あきざわゆきあつ)74歳。コンビニエンスチェーンのエーエム・ピーエム創業者であり、日本初の大リーグ開幕戦やレアルマドリード招致などを実現。そして、子どもたちへの支援活動、特に東日本大震災で被災した子どもたちの自立を助け続けた。秋沢の信条は「即断即決。私はこれに加えて、即行動」「夢の実現に最も大事なことは、決してあきらめないこと」。まさに、エネルギーの塊のような人だった。

石油元売りのジャパンエナジー社員だった秋沢は、コンビニエンスチェーンのエーエム・ピーエムを社内起業し、1989年に1号店を出店。店内にATM設置、デリバリーを手がけるなどコンビニエンス業界に旋風を巻き起こす。

添加物ゼロの食品、おでんは店に置かない、ゲームは売らないなど、秋沢の「あるべき論」に基づいたこだわりもあった。15年後に店舗数は1500店に達する。

一方、「物を売るだけでなく、感動も届けたい」という思いから、秋沢は新たな活動も始めた。2000年に日本初のアメリカ大リーグ公式戦として、シカゴ・カブスとニューヨーク・メッツのメジャーリーグ開幕戦を実現。ビリー・ジョエルやエルトン・ジョン、マライア・キャリーら海外スターのコンサートなどを次々にプロモートしていく。こうした活動を通じて、秋沢はスポーツ・音楽など各界のヒーローたちとの人脈を深めていく。

大きなイベントを実現していく中で、秋沢の頭に浮かんだのは「祭りで日本を盛り上げられないだろうか」ということだった。きっかけは、夏に都心から人がいなくなる現実を前にしたときだった。東京のほか神奈川・千葉・埼玉を合わせた東京圏には3700万人が暮らし、そのうち7割は地方出身者だと言われている。その東京圏の祭りをつぶさに調べてみると、けっこうな数があることに気付いた。東京の祭りをもっとピーアールして、祭りをネットワーク化する。それをスケジュールで見せて、地方ともつなげれば、地域を底上げし、日本全体を盛り上げることができるのではないか。

その考えは、GTF=グレータートウキョウフェスティバルという形で立ち上がる。2003年には、GTFがサポートする形でビッグイベントが実現。デビッド・ベッカムらスター選手を揃え、銀河系軍団と言われたサッカー、スペイン一部リーグのレアル・マドリードを招致。Jリーグ・FC東京との試合を開催し、国立競技場に集まった5万4千人の満員の観客を湧かせた。
 
企画の実現にひた走る秋沢の前に、転機となる場面が訪れる。エーエム・ピーエムの店頭で感じた子どもたちや若者の間に蔓延する無気力、無責任、自分だけよければいいという風潮。少子高齢化に加え、核家族化や共働きの増加といった急激なライフスタイルの変化が、子どもたちに大きな影響を与えていた。

秋沢は、このままでは日本はどうなってしまうのだろうかと、将来を憂えた。そのとき秋沢の頭に一つの光景が浮かんだ。それは1970年代のことだった。「神の手」とも呼ばれたオートバイ・チューナー、「ポップ吉村」こと吉村秀雄との出会い。吉村は第1回鈴鹿8時間耐久ロードレースでヨシムラレーシングチームを優勝に導いた伝説の人だった。秋沢は、吉村からレース用の石油を開発して欲しいと依頼を受ける。その後、レース会場で見た光景。それは選手以上に満場の拍手を浴び、観客から尊敬のまなざしを向けられる吉村の姿だった。感動が生み出す力。秋沢が関わってきたイベントの主役たち、つまりヒーローの生き様を見せられれば、子どもたちを変えられるのではないか。

時を同じくして、秋沢の活動を後押ししてきた父親が亡くなった。「子どもには夢を、若者には志を、大人には誇りを」。秋沢は企画書を父の棺に入れ、実際に行動を開始する。エーエム・ピーエムの経営から退き、2006年、教育事業を手がける「ヒーローズエデュテイメント株式会社」を設立。イベントなどで培った人脈を駆使し、ヒーローとともに、次の時代を担うリーダーを育成する「心拓塾」を開催していく。

2008年、秋沢は養護施設などで暮らす子ども達の支援にも乗り出す。その前年に、あるニュースに触れたことがきっかけだった。親の虐待など様々な事情で、家庭で暮らせない子どもたちが4万人に上るという内容だった。子どもたちが「自立」をすることを支援することが大切ではないのか。その思いは「特定非営利活動法人・次代の創造工房」として立ち上がる。

その活動が軌道に乗り始めた2009年12月15日、秋沢は倒れた。

脳梗塞だった。


(後編に続く)