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カザフスタン人から見た福島

Nスタ ふくしま 1月16日放送より  取材:田勢奈央

去年11月、富岡町で取材スタッフが出合ったカザフスタン人の男性は、原発事故後の福島のことを幼い息子に伝えようとカメラにおさめていました。男性の思いの裏には、彼が育ったカザフスタンで行なわれていた核実験がありました。

去年10月に運転が再開されたJR常磐線の富岡駅。
1ヶ月後に駅を訪れると、カメラを持った外国人の男性を見かけました。

「ジャーナリストですか?」と話しかけると、
「いえ、違います。写真を撮りに来ました」と答えました。

福島で見たことを、2歳の息子に伝えたいと思っているんです。
彼が大きくなったときに、いまの世の中がどんなだったかを伝えたい。

福島のこと、原発事故のことを、2歳の息子に伝えたい。
そんな思いを聞いて、彼の一日に同行させてもらうことにしました。

旧ソビエト連邦のカザフスタンから来たバイガジ・ジャキシリクさん。
南部に位置するアルマトイという町で広告代理店を経営する36歳です。

どうやって線量を測っているんだろうか・・・

日本に滞在する5日間のうち、3日間をいわき市と富岡町で過ごし、線量計や、汚染土壌の入ったフレコンバッグを色々な場所で見ました。

(フレコンバッグを見て)こんなにたくさんあって、最終的にどこに持っていくんだろう?地中に埋めるのかな?

海のほうへ歩いていくと、福島第二原発が見えてきました。

原発が見えますか?ここ登って、あっちから写真撮りますね

海のないカザフスタンに比べると、太平洋は壮大に見えるといいます。

本当にきれいですね

最大21メートルの津波に襲われた富岡町。24人が亡くなりました。

(津波の映像は見ましたか?)
あんなに高い波が襲ってくるなんて、本当に怖かった

堤防を作っているという作業員の男性と出会いました。バイガジさんは「ポートレート写真を撮らせてほしい」とお願いします。

作業員の男性:この写真がカザフスタン行くの?

バイガジさんが福島に来た理由は、息子に伝えたい・・・というほかに もう一つ、ありました。

彼が18歳まで過ごしたカザフスタンのセミパラチンスクには、1949年から89年まで、旧ソビエト連邦の核実験場がありました。

四国ほどの広さの実験場で核実験が行われた回数は456回。核実験場だった場所はいまも続く放射能汚染のため、人は住んでいません。

周辺に住んでいた住民のうち数万人が飛散した放射性物質を含んだガスやチリの影響で、被ばくしたといわれています。

核実験を始めたころ、原子爆弾はそれほど危険じゃないと思われていたみたいです。当時は爆発そのものよりも、放射能が危険とはわかっていなかったようです。

バイガジさんが撮ったセミパラチンスクの写真です。

セミパラチンスクと福島。原子力に翻弄された、ふたつの地に住む人々の姿を、カメラにおさめたい。そんな思いで福島に来ました。

人にこそ、物語があるのです。
国は車や道路や、電車で作られているわけじゃない。
国はそれらを作った人たちによって成り立っているのです。

僕がここで見たすべてのものは人間が作ったもの。だからここにどんな人たちがいるのかを伝えたい。

富岡町は去年4月に帰還困難区域を除く地域で避難指示が解除されましたが、
住民の帰還率は3%にとどまっています。

女性:ここからもう帰還困難区域なんでね、あっちから6m先入れないの

喫茶店を営む女性にも出会いました。

女性:よかったら、お茶でも飲んでいかない?? 

いわき市で飲食店を営んでいた渡辺愛子さん。

(前のお店で)ずっと来てた女性がいて、その方が富岡町の奥様だったの。こんな感じでお話ししながら、地元で過ごせたらいいなって でもお店がないじゃない?

富岡町から避難した人の「地元で過ごしたいけどお店がない」という思いに応え、去年夏から町で喫茶店を始めました。

バイガジさん:おもてなしに感動しました

渡辺愛子さん:いい人だから 笑

海沿いに立っていた、一本の木。地震、津波、原発事故を経てもなお、力強く立ち続けていました。バイガジさんは、福島の人に「勇敢さ」を感じたといいます。

福島の人たちは勇敢だと思いました。
津波や事故のことを話してくれる。写真を撮らせてくれる。
彼ら自身の物語をきちんと語ろうとしてくれました。

バイガジさんは、富岡での時間を、「短い人生を過ごしたような特別な時間」と話します。バイガジさんが見た福島。フィルムで撮られた彼の写真は、後世に何を語り継いでいくのでしょうか?

(スタジオ)
バイガジさんが撮った写真はいま現像中で、今年中にカザフスタンで、セミパラチンスクと福島の写真展を開きたいと話していました。