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2021年1月17日「風をよむ~ 半藤一利さん 逝く…」

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火曜日、亡くなられた、作家の半藤一利さん。90歳でした。

昭和5年に東京で生まれた半藤さんは、東京大学を卒業し、文藝春秋に入社。「週刊文春」や「文藝春秋」の編集長を歴任、作家として、多くのノンフィクションを発表しました。

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代表作のひとつ、「日本のいちばん長い日」では、“終戦の日”の玉音放送に至る24時間を、綿密な取材で再現、映画化もされました。

また、昭和の歴史を読みやすい文章で綴った「昭和史」や、満州国境でのソ連との悲劇的な戦いを描いた「ノモンハンの夏」など、昭和の日本が歩んだ、不幸な“戦争”の現実を問い続けました。

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半藤さんに、昭和史の語り部となることを、決断させたのは、14歳の時の空襲体験でした。

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作家 半藤一利さん「中学2年の時に、3月10日の東京大空襲を受けまして、自分も九死に一生を得たんですけども、実際、目の前で子どもを抱いた女の人が火をパァっとかぶった瞬間に、バァっと一気に燃え上がるという姿を見ましてね、たくさんの遺体を見たわけですが、私の心の中では、いつでもそれが生きているんですね」

しかし、半藤さんは、東京大空襲で九死に一生を得た体験を、すぐには公言しませんでした。「当時はみんな苦労したから」という思いが、ためらいを生んだといいます。

そのためらいを絶ち、積極的に語り出したのは、戦争体験者の減少で、戦争の非情さや、歴史の背景が、忘れられつつあるという、危機感からでした。 

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特に、その危惧を深めたのが、ここ10年程の社会の変化でした。

2014年、安倍政権が憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能とする閣議決定をして以降の、安保法制を巡る動きを、半藤さんは「歴史の転換点」と受け止めたのです。

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作家 半藤一利さん「30年後、50年後になったら『ものすごい転換点だったね、あの時が』と、後の人が言うんじゃないかというぐらい、重大な日だと思っています」「あれ(解釈改憲の閣議決定)ができるならば、こういうことが、いくらでもできるならば、憲法なんて要らなくなっちゃいますよ」

こうした深刻な危機意識を、半藤さんにもたらしたのは、今の日本と、戦前の日本の空気に共通するものを感じた事でした。

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作家 半藤一利さん「まず言論に対する制約というか、それに、まず手をつける。教育というものにちょっと手をつけてくる。さらに軍事同盟という形を取るんですが、戦前もそっくり同じにやってきたんです」

実は半藤さん、以前は“保守・半藤(反動)”などと揶揄された自分が、次第に左翼のように受け止められることに、当惑していたといいます。

言い換えれば、自分の立ち位置が、左翼的だと見えてしまうほどに、日本社会が右に傾き始めたと、半藤さんは感じていたようです。
  
昭和史の研究を通じて、日本人が、なぜ、あの戦争の泥沼に、踏み込んでいったのかを、問い続けた半藤さん。ひときわ強く警鐘を鳴らした、教訓がありました。

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作家 半藤一利さん「昭和史をずっと見てきますと、私たち日本国民の中にはものすごい攘夷の精神というものがありまして。敵を追っ払う、協調ではなく、すぐ攘夷の精神をむき出しにするんですよ。そういう意味で“熱狂”しやすい。私たちは熱狂する時代を、自分たちで作っちゃいかん。常に冷静にみる、誠実であれということだと思います」

大衆が生み出す“熱狂”が、戦争に結びつく全体主義、軍国主義の原点になってきたというのです。

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自らの体験を基に、半藤さんが書いた絵本。その中で、戦争を知らない世代に、次のようなメッセージを書き残しています。

『焼けあとのちかい(文:半藤一利)』より / 「あのとき(終戦の日)わたくしは、焼け跡にポツンと立ちながら、この世に『絶対』はない、ということを思い知らされました。絶対に正義は勝つ、絶対に神風は吹く。絶対に日本は負けない。絶対に自分は人を殺さない。絶対に…絶対に…。それまで、どれくらいまわりに絶対があって、自分はその絶対を信じてきたことか。
そしてそれがどんなにむなしく、自分勝手な信念であったかを、あっけらかんとした焼け跡から教わったのです。そのとき以来、わたくしは二度と『絶対』という言葉はつかわない、そう心にちかって、今まで生きてきました。
しかしいま、あえて『絶対』という言葉をつかって、どうしても伝えたい
たったひとつの思いがあります…。

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『戦争だけは、絶対に始めてはいけない』」

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