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日本選手権④多くの要素が詰まっていた最速男決戦

引き立て役から主役へ。多田が男子100mで悲願の頂点に
9秒台4選手はなぜ力を発揮できなかったのか?

 日本選手権2日目(6月25日・大阪市ヤンマースタジアム長居)。標準記録突破選手5人が今大会最多の男子100mを制したのは、過去3大会連続5位の多田修平(住友電工)だった。得意のスタートから中盤で大きくリードを奪うと、後半の減速も比較的小さくとどめ、10秒15(+0.2)で優勝した。2位にデーデー・ブルーノ(東海大)が10秒19の自己新で入り、注目された9秒台4選手は山縣亮太(セイコー)と小池祐貴(住友電工)が10秒27、桐生祥秀(日本生命)が10秒28、サニブラウン(タンブルウィードTC)が10秒29で3~6位と敗れた。
 標準記録を破って3位以内に入った多田と山縣が東京五輪代表に内定したが、9秒台4人が敗れる厳しい戦いとなったのは、どんな理由が考えられるのだろうか。

●サニブラウン、桐生、小池の敗因は?

★クレジット「提供:日本陸上競技連盟/ニシスポーツ」一般100男子決勝 写真判定

「提供:日本陸上競技連盟/ニシスポーツ」一般100男子決勝 写真判定

 男子100mの判定写真を見ると、9秒台の4選手が大接戦をしているのがわかる。日本記録を持つ山縣が最上位で小池、桐生、サニブラウンと続いていた。山縣からサニブラウンまで0.02秒差。9秒台4選手が持ちタイム通りに大激戦を展開した。
 だがその激戦は優勝争いではなく、優勝した多田から0.12秒差がある3位争いだった。激戦というより混戦を展開してしまった。
 6位のサニブラウンは「例年に比べてレースの数がぐんと減っています。経験値的な体の慣れの差かな」と敗因を分析した。今季は復帰戦に予定していた5月中旬の大会を欠場。5月31日の復帰戦は10秒25(+3.6)だった。大会前日には「出るからには勝ちに行く」、準決勝終了後も「明日は万全で走ることができる」と強気の姿勢を崩さなかったが、準備不足は明らかだった。
 5位の桐生はアキレス腱痛があり、決勝前日は「歩くのも痛い」という状態だった。決勝レース後は「何か言うと痛みのせいにすることになる」と症状を説明しなかった。桐生が予選で走った10秒12が今大会100mの最高タイムで、しかも向かい風0.4mだった。痛みが大きくなっていったことは想像に難くない。
 小池は前日会見で「自分の感覚的に納得できるレースは、この2年1本もない」と話している。9秒台を出した19年と比べ動きのどこかが狂っていた。「ウエイトの重量を重くして、使うべきところにクセをつけ、走る感覚を全体的に見直した」ことで、少しずつ状態が上向きになっている。
 ただ、3位の山縣との0.001秒差について問われると、しばらく考えた後に「メンタル面でプレッシャーに弱いところが出たのでは」と話した。
 サニブラウン、桐生、小池の3人に関してはシーズンベストでも多田より下だった。今大会での失敗もあったと思うが、ケガや技術の狂いでシーズン自体のコントロールも上手く行っていなかった。

●山縣の力みは疲れがあったからか?

 山縣は敗因について「自分のレースに集中したつもりが、多田選手が前に見えて、追いつこうと思って力んでしまった」ことを挙げた。
 先行されるのは想定の範囲だったのでは? という質問には次のように答えている。
「今日は決勝1本だけでしたし、体力的には昨日の準決勝よりも良い状態でした。スターティングブロックからの“出”の手応えも直前練習で感じていました。多田選手について行くぞ、と思っていたのですが、それ以上に多田選手が速かった」
 この言葉通りなら完全に力負けだった。
 ただ、疲れについて質問されると次のようにも答えていた。
「予選、準決勝、決勝の3本の日程は経験済みだったので、今朝の疲労感は大きかったのですが、午前中にウォーミングアップを入れて、しっかり体が動くようにしてから決勝のウォーミングアップをしました。対処できたのかわかりませんが、暑かったので水分補給とと食事をしっかりとりました」
 対策はしたが、深いところに疲れが残っていた可能性はある。布勢スプリント後のプランでは、スタートから中盤でも多田に後れないようにするはずだった。そのための練習をしてきたが、疲れがどこかに残っていたなら、想定したように体は動かない。
 前日会見でも、布勢スプリント後の疲労の抜け方が、いつもより時間がかかったと答えている。「スケジュール的に体力的な練習ができていなかった」というコメントもあった。
 19年は5月のゴールデングランプリが最後のレースになり、昨年の試合出場は8月のゴールデングランプリ1本だけだった。実戦から離れている期間が長かったが、今季は通常の出場頻度にもどっている。年齢も6月10日で29歳になった。負担の感じ方が大きくなっていて不思議はない状況だ。
 疲労への対処の仕方も、今後は工夫しないといけないかもしれない。
 ただ、3大会連続100m代表入りという日本人初の快挙はやってのけた。人材が集中するこの種目では、なかなかできないことだ。
「五輪本番にこの悔しさをぶつけたい」と山縣。12年も16年も日本選手権は勝てなかったが、本番では五輪日本人最高タイムで走っている。五輪本番で期待できる選手であることに変わりはない。

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●多田の集中力が高まった背景は?

 ハードな戦いになる、と言われた今大会の男子100m。9秒台選手全員が崩れ、難しい戦いだったことを証明してしまったが、多田だけが自己記録との差を0.14秒と最も小さくとどめた。標準記録突破5選手の中でしっかりと力を発揮した。
 勝因を質問され「今まで以上に集中したこと。試合を重ねてスタートから中盤までが良くなったこと」を挙げた。注目したいのは、その後のコメントだ。後半の減速を小さくできたのでは? と振られると「実は記憶がなくて、これから(動画などを見直して)確認したい」と答えているのだ。
 五輪選考レースに9秒台選手が4人、標準記録突破者5人が出場し、異常な盛り上がりがあったのは事実だ。だが多田の集中は、この大会だけでなく、ここまでの数年間で取り組んできたこと、悔しい思いをしてきたことが現れた気がする。
 リオ五輪イヤーの16年は日本選手権に出場はしたが、準決勝を走った組の最下位。五輪代表になった選手たちは「雲の上」の存在だった。
 翌17年に多田はブレイクした。5月のゴールデングランプリでJ・ガトリン(米国)に善戦し、6月の日本学生個人選手権は追い風4.5mで参考記録ながら9秒94をマークした。日本選手権もサニブラウンに次いで2位に入り、世界陸上ロンドン大会では準決勝に進出。
 当時大学(関学大)3年で、国際大会でも前半の強さは十分に通用した。短距離界を担う選手になると期待された。
 さらなる飛躍を期して、翌18年から接地時の地面への力の伝え方を変更した。だがその結果、多田のもっていた脚の回転の速さが失われた。ストライドは大きくなったが、それがスピードにつながらなかった。走りは19年から無理に蹴らない走りに戻したが、17年の走り戻すというより「17年以上の走りを求めてきた」。
 しかし結果はなかなか出ない。18年から20年まで、日本選手権は3年連続5位。17年に出した10秒07の自己記録も更新できないまま3シーズンが過ぎた。
 全日本クラスのメンバーが集まれば、スタートから中盤でリードはできても、後半で差を詰められ抜かれていく。そのパターンで負け続けた。後半の減速が大きいことへの対策はずっと行ってきたが、結果に現れない。
 18年頃は注目度が一気に上がったこともあり「試合に出たくない」と感じたこともあった。だが、その後は負け続けても、「これをやれば強くなれる」と信じて努力を続けて来た。その努力が減速することはなかった。
 今年3月の日本選手権室内60mに優勝したときは、スタートよりも後半の強さで勝つことができた。100mなら中盤にあたるが、冬期練習では300m、250m、200mなど長めの距離を、「ゆっくりでもフォームを維持する狙い」で行ってきた成果が現れた。
 4月の織田記念は4位だったが、5月のREADY STEADY TOKYOでガトリンに善戦して日本人トップ。6月の布勢スプリントは10秒01(+2.0)と4年ぶりに自己記録を更新。17年と似た良い流れになっていたが、4年間苦しんだ思いが17年以上の集中力につながった。
 17年世界陸上は準決勝3組で10秒26(+0.4)の5位。同じ組3位の選手が10秒09で決勝に進出している。その差は0.17秒。
 自己記録は17年から0.06秒しか縮めていないが、日本選手権に勝ったことで、もう少し上積みがあると考えていい。
「日本選手権の決勝の走りではまだ、世界では勝てません。もっと練習を積んで地力を伸ばし、(戦後では)五輪初のファイナリストになりたい」
 国際大会で有利といわれている前半型の選手。多田に対する期待が大きく高まった。

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TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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