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【シアターコモンズ'24】神話をとりだす、やさしげな手─サオダット・イズマイロボ 『彼女の権利』『亡霊たち』『ビビ・セシャンベ』が描き出す世界

中村佑子(映画監督・作家)
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 日仏学院の映写室が明るくなった瞬間、自分がいま存在している「この現在」という時間が、遥かな歴史の流れのなかの針の一点に過ぎず、莫大な記憶と、まるで過去のような未来に照射される形でしか存在しないこと、それが論理ではなく身体感覚としてわかる、そんな映像体験だった。身体ごと、どこかへワープするような衝撃が走ったのだ。
 ウズベキスタンの女性映像作家、サオダット・イズマイロボが描き出すのは、現代の神話であり、異土への入り口であり、無数の時空が鮮やかに立ち上がってくるような作品群であった。それでいてとてつもなくやさしく、産毛にそっと触れてくるようなやわらかさがある。
 それもいまこうして書いていて、思い出すことではじめてあの稀有な時空間を想うことができる。映像体験が神秘そのものだったからこそ、現代の日常の時間にはフィットしてこないのだろう。イズマイロボの映像に触れると、無意識や夢というものが、この世に「一つの世界」として実在し、星のようにいまも別の時空で輝き続けていると、強く信じることができる。
 たとえば『彼女の権利』(Her Right/2020)でイズマイロボは、コロナ禍の何も撮れない時期に自国の映像アーカイブから女性たちの姿を取り出した。ソ連侵攻以前の文化のなかで黒いヴェールをかぶった女性たち、その後のソ連支配下で強制的にヴェールを脱がされた不安げな女性、そこに現代の、緑のなかを駆けてゆく生き生きとした少女の笑顔がかぶさる。自らヴェールを脱いだのかもしれない。新鮮な風を頬に受けて走る彼女は、フレッシュな美しさを放っているが、映像は逆回転し、後ろ向きに走っている。生命そのもののようなこの女性の笑顔に行き着くまでに、どれだけの歴史が覆いかぶさってきたのか……。
 アーカイブ映像からとった隠喩のような作品とはいえ、前衛映像作家マヤ・デレンを思わせる、白黒の陰影、シャープな構図……イズマイロボの透徹した美意識が選ばせた映像は、見えるものと見えないもの、光と影の強いコントラストに彩られている。
 ソ連による強制的なヴェール解放運動は「フジュム」、つまり「暴力」と呼ばれるという。1927年から第二次世界大戦後まで続いた「暴力」は、彼女たちの自発的な解放へのプロセスを奪い、女性たちを一気に外界に晒すことになった。
 アラブ文化への理解に乏しい私たちは、女性にとってのヴェールを抑圧の象徴だとみなし、早く脱ぎ捨て、解放されるべきと思うかもしれない。しかし、黒いヴェールはウズベキスタンの彼女たちの心を、守ってきたところもあった。現に、歴史的にはいままたヴェールが復活しているという。歴史はいまも複雑にうごめいている。
 遠く極東の国の私でも、ヴェールの力というものはわかる。ヴェールのなかにいると、光はあいまいに透過され、ものの形もおぼろに、自分の息づかいはより近くなり、外界と内界の差が限りなく近くなる。強い日光からも、熱い砂嵐からも、とりわけ自分に向けられる欲望や、邪心なまなざしからもヴェールは私を守ってくれる。
 ヴェールを脱ぎ、自分たちの手で自分たちの頬に当たるまっさらな風を選びとること自体にも、女性たち一人一人、それぞれの解放のスピードがある。ヴェールのなかには女性たちの多声の響きが隠され、ひとりひとりの女性の内観に一つ一つの小宇宙があることを、イズマイロボの映像はありありと感じさせる。
 そうして彼女は、女性たちそれぞれの内観を、まるで掘りおこした柔らかい土に触れるような手つきで、そっと守るのだ。

『彼女の権利』(2020)

 このイズマイロボの映像に宿るやわらかさは、動物を撮ったショットで際立つ。
 『亡霊たち』(The Haunted/2017)は、冒頭、服従の象徴である白い布が風にはためくショットからはじまる。そこに、ソ連の侵攻後にこの地域で絶滅した虎への想いが重なってゆく。失われた者たちの残響に満ちた作品である。
 迫真にせまる虎のカットに瞠目した。絶滅した虎は剥製として登場するのだが、その前後で生きた虎の毛並みをカメラは捉えるのだ。絶滅した虎と違う種だからだろう、どのショットも極端なクローズアップなのだが、カメラは虎の毛のごわごわした硬さや、鳴き声に接近し、なにより息づかいで上下に揺れる皮膚に、虎の血潮や内臓のあたたかさが感じられる。毛並みや呼吸を、まるで虎の心に触れているかのように写しとる。
 普通カメラは外観を、ある種暴力的に切り取ってしまうものだが、イズマイロボのカメラはまるで虎に触れるように、撫でるように、その体温をも写しだしていく。視覚ではなく触覚が動き出すようなカメラ。なんという美しさだろうと、息をのんだ。
 ソ連の侵攻によって消えたウズベキスタンの文化や政治と、虎の体温が重なることによって、あらかじめ失われた者たちの共鳴がはじまる。抑圧され、抹殺されてきた声への痛ましい共感と、力になれなかったというやさしい後悔や信頼。そうした目に見えないやわらかい感情の渦によって、見ている私たちが慰撫される感覚になる。

『亡霊たち』(2017)

 このやさしい感覚は、ドクメンタ15で発表された『ビビ・セシャンベ』(Bibi Seshanbe/2022)で、もっとも深まる。この物語はウズベキスタン版、いえイズマイロボ版シンデレラの物語である。物語はDVから逃げてきた女性たちのシェルターを舞台にしている。ウズベキスタンではDV から逃げるために、女性たちはしばしば薬品を自らの身体にかけ、火傷を追って逃げ出してくるという。火傷の治療を行う女性医師の元で、彼女たちが共同生活をする実際のシェルターで撮影が行われ、傷口の治療などの光景も出てきて、ドキュメンタリーとフィクションは自然にやわらかく交差していく。火傷を負わなければ、夫や家庭から、逃げ出せないのかと暗澹たる気持ちになるが、そのシェルターでさらに下働きをしている少女が主人公である。少女は、寡黙に労働をしながら、夢で動物たちと心を通わせ、なぜこの世は不平等なのかとつぶやく。セリフは極端に少ないが、少女の我慢と寛容さが、しずかな映像を通して伝わってくる。
 冒頭、綿毛から取りだしたばかりの真っ白な綿を、焚きつけの小枝にくくりつける女性たちの手作業が出てくる。綿やガーゼの肌触り、女性の手仕事に宿る親密さによって、このシェルターにやわらかい連帯があることが自然に伝わってくる。
 やがて少女は大切に育てていた牛が死んだことを嘆き、ゴミ捨て場でぞんざいに捨てられた牛の骨を見つけて埋葬し、それが異世界への通行路となってゆく。最後におなじみの靴もダンスシーンも出てくるが、男性は一人も出てこない。ダンスは少女が一人陶酔したように踊るシーンだけだ。
 このふしぎな神話のような物語を見ていて、私は南方熊楠が採集した中国版シンデレラ「葉限」を思い出していた。
 実はシンデレラの物語は、グリム兄弟が取り出したもの以外にもポルトガルなど古いヨーロッパ、アジアにも存在する。世界中に同じ物語の祖型のようなものが点在している。さらにそれらの古層のシンデレラは、異界との接続と転生の物語であった。
 私が思い出していた中国南部の「葉限」の物語とはこうだ。
 葉限という少女は、両親を亡くし、継母に引き取られてつらく当られている。 少女は遠くまで毎日水を汲むように言われていて、やがて水場の魚と仲良くなる。連れて帰って大切に育てていたある日、継母に魚を食べられてしまう。継母は魚の骨を肥溜めに無造作に捨てたが、葉限は掘り出して丁寧に埋葬し、それにより美しい魚との交流がはじまり、人間と水の世界が和解するという物語だ。骨を丁寧に弔う儀礼には、狩猟時代からの倫理観が裏打ちされている。
 現代版のシンデレラは極度に世俗化し、ただ財産があってハンサムな男性と結婚できるという物語へと矮小化されてしまった。本来靴は王子様が見つけるのではなく、少女が異世界の者と和解し、異界にゆくことができる印だった。
 ウズベキスタンにも古いシンデレラ物語が存在するのかは寡聞にして知らないが、イズマイロボのシンデレラはみごとに、世俗化されたシンデレラを古層の物語に接続している。
 少女が牛の骨を丁寧に埋葬することによって、美しい靴が異界から贈られるが、その靴は小さくて少女にしか履くことができない。少女が目を閉じると、そこにはちらつく雪とうつくしい木々が現れ、動物たちの目と少女の目が重なっていく。自然界や異界との交流を夢見るような、マルチ画面が透過されたその映像は、言葉にならないほど神秘的で繊細だった。
 そうして見終えたいま、私の身体のなかに残るのは少女の手のあどけなさだったり、牛が死んで泣いた、その頬の涙、そして少女のかぼそい声だったりする。神話をたちあげるイズマイロボの手つきは、静かで落ち着いていて、やさしげだ。そのことがどれだけ見るものを慰撫し、いたわってくれるか。シェルターのなかで、やけどを負った女性たちの連帯のなかから、少女がまた別世界へと転生していくという物語の力のどれほど強いことか。イズマイロボは女性たちに伝わる口承伝承を、祖母から聞いて育ったという。
 物語の祖型がもつ力とは、こうした人をいたわり、慰めるパワーなのかもしれない。そうして、物語が遥かかなたからも持っていた祖型を取りだすのは、とてつもなく繊細な作業だということも思い知る。神秘的な光は、触れ方を間違えるとすぐに消えてしまう。それを取り出すことのできるイズマイロボの手つきが、やさしくデリケートであることに、私は深く納得していた。神秘とはこわれやすいものだから。
 イズマイロボは、制作するときその土地に一人でたたずみ、ここで何ができるかを自らわかるまで時間を過ごすという。土地や場所がもつ力を身体を通して知り、そうして映像や物語に転生しているのだろう。
 〈いま〉がただ〈いま〉ではなく、遥かな記憶のなかの針の一点のようであること。私たちの知っているものの背後に、膨大な不可知の世界が横たわっていること。イズマイロボの映像には、ひいては神話というものには、人間の現世での重力を変える力がある。皆がたった一瞬、ほんのいっときしか、この世界に生をもたないこと、そうして見えない世界がどれほど広がっているかを知ることの尊さが、いまの時代に否応なく響く。
 私はたいへんな作家に出会ってしまった。

『ビビ・セシャンベ』(2022)

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中村佑子(なかむら・ゆうこ)
1977年、東京生まれ。映画作品『はじまりの記憶 杉本博司』『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』、テレビ演出作「NHK BSP 幻の東京計画 首都にあり得た3つの夢」「NHK ETV特集 建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」など。シアターコモンズ’21でAR映像作品『サスペンデッド』を発表。著書に『マザリング 現代の母なる場所』『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』など。

シアターコモンズ'24 サオダット・イズマイロボ『18,000の世界』ほか
https://theatercommons.tokyo/program/saodat_ismailova/
※上映は終了しました。

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