映画『テッド・バンディ』見て来た

映画『テッド・バンディ』見て来た。見てよかったとは思うけど、すごい重い気持ちになった。

ある感想に書かれてた:
>> ザック・エフロンはハマり役!紳士的な振舞いや微笑みのすぐ裏に見え隠れする異常性が絶妙
はその通りだと思ったよ。
サイコパスのシリアルキラーは一見普通だから、一般社会に溶け込んでいる。

彼が言った以下の台詞:

>>Society wants to believe it can identify evil people or bad or harmful people, but it's not practical. There are no stereotypes.
(社会は邪悪な人々、悪い害をなす人々を特定できると信じたがる。でも、それは現実的ではない。悪人の典型なんてないからだ)

これは自己弁護として彼が述べた言葉だけど、図らずも事の本質を表していると思った。

ステレオタイプを信じすぎると人は判断を誤る、何に関してもそうだ。

悪人同様、善人も男性、女性も、ステレオタイプに当てはまる人なんてめったにいない。昔から劇作品には、善人に見える悪人、悪人に見える善人が登場するしね。だから彼のような人物が一般社会に溶け込んでいたりする。

テッド・バンディはサイコパスで、平気で嘘をつき、それが真実であるかのように自信を持って滔々と述べる。

犯罪をやっていながら、以下のようなことを真顔でさも真実であるかのように滔々と述べられるというのは、おそろしいけど1つの才能なのかもしれないし、こういう才能が生かされるまっとうな職業もあるだろう。政治家とか、あるいはコメンテーターとかだと、生かされる場面があるのかもね。つまり自分の信念に反してある役割を演じざるをえないような場面だよ。

Ted Bundy: I won't ask for mercy. In fact, I find it absurd to ask for mercy for something that I did not do. I'm not the one responsible for these horrific acts. Although the verdict found in part that these crimes had been committed, it erred in finding who committed them. As a consequence, I do not accept the sentence, because it is not a sentence of me. It is a sentence of someone else who is not standing here today.
(慈悲を乞うなんてことはしない。実際ばかげていると私に思えるのは、やってもいないことに対して慈悲を乞うことだ。僕はこれらのおそろしい行為の責任を問われるべき人物ではない。(陪審員が下す)評決はこれらの犯罪が犯されたことをある程度はわかっているが、彼らが間違いを犯しているのは、誰がこれらの犯罪を犯したのかの理解に関してだ。その結果、僕はこの判決を受け入れない。というのも僕に関する判決じゃないからだ。これはここに今日立っていない他人に関する判決だ)

err in doingのような堅い言い回しや、as a consequenceのような書き言葉的言い回しを理路整然と並べて、理屈をこねている。頭が悪い人にはこのような言い方はできないし、良心があればやましくてどこかで失敗してしまう。それをうまくやってのけるから、すごいと思うし恐ろしいのだよ。

こういうサイコパスって、自分でこのように言ってるうちに、それが真実だと思ってしまうのかもね。

自分が信じているから、一部の人も信じてしまう、そして騙される。怖いな...

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