見出し画像

054「58歳の転職記・完結編」幸せって何だっけ

ここまで来て、少し振り返ってみました。少し長文。
幸せって、キッコーマン醬油のある家、なんてCMが、昔ありました。

キャリアカウンセリングを受けたいと思い、カウンセリングに使うシートの記入をしていたとき「あなたが大事にしたい価値観を確認する」欄で、〇がなかなかつけられない自分に気がついた、なんてことがありました。

給料はたくさん欲しいけど、管理者、経営者になりたいとは思っていない気がする。
独立して仕事をするイメージはない。確実な報酬がほしい。
新たな組織の起業や、組織の再建などの仕事なんて、考えたことなかった。
開発や発明などへの情熱はないかな。
誰もが尻込みする困難な仕事へのチャレンジ、といってもケースバイケース。それより、めんどくさいけど誰でも出来そうな仕事に取り組んでできたときのほうが楽しい。
一番求めるのは、私の名前で、自分のペースで仕事をしたい、かな。今まで、人の都合に振り回されて仕事してきたので。

最初の勤め先では、楽しい仕事をやらせてもらうこともあったけど、長年勤めても、出世しないので、次第にいい仕事が出来なくなった。
この状況のまま、上司のパワハラに耐えながら仕事を続いていくと、精神がもたないと思った。

二番目の勤め先、確かにクビを言い渡された原因は、仕事中に寝ていたことだけど、言い換えると、眠い仕事しか来なかったとも言える。
同僚との雑談がなく、他の部署の人との交流がなく、朝から晩まで机に座って一人でじっとしているのは、私の能力は発揮されない。
この職場の構造は全体的におかしかった。同僚との仲がよくなかったし、仕事を続けていても、もたなかったと思う。

標準化団体にいた6年間は、私は能力を遺憾なく発揮できたと思う。はまり役だったし、楽しい仕事が出来た。
ただ、そこに行かせてもらえたのは、一番目の会社の後ろ盾があってのことだった。

団体職員になりたいと、足かけ2年ほどがんばってみたけど、後ろ盾がない状態での応募では、採用にいたらなかった。
行きたがる人がいない、ブルーオーシャンだと思っていたけど、実際は、レッドオーシャン、ハイスペックな人たちの後塵を拝して、海でおぼれそうだった。
5年ぐらい転職活動をがんばったら、団体1つぐらいに拾ってもらえたかもしれないけど、私はそこまで時間をかけられなかった。

ITの知識も、英語の能力も、それなりにあったと思うけど、抜きんでるところまではいかなかった。
意外に平凡、偉くなれなかった。それは認めるしかない。

任された仕事については、同僚が産休で仕事が二倍でも、欧州との時間のかかる交渉も、楽しんでやっていた。
例え収入に結びつかなくても、ITの資格の勉強は何年も楽しんでやっていた。
労働組合の書記長や、ここに書いてないけど、マンション管理組合のお仕事、地元のお祭りのお手伝い、儲からなくても嬉々としてやっている。
初めはつらいと思った家電量販店の店員だって、最終的には楽しくなっていた。
やりたい仕事、やってみんなから承認される仕事なら、率先してやる。
そして出来るなら、皆さんが喜んでくれる仕事をやりたい。
みんなからの期待と、自分の好みで、いろんなことをやって、そのどこかで、生きていくだけのお金がもらえたら、それでいい。

どれだけお給料が良くても、みんなから喜ばれない仕事は、私にとってつらいし、やりたくない。
駐車場の整備員は、他人とのコミュニケーションがないのがわかった瞬間、逃げ出してしまった。それは私らしい結論だった気がする。ということは、給料より、やりがい、人の中で生きることかな。

時間が限られているし、無職の状態が長く続くのは避けたい。
標準化団体の事務局にこだわるより、事務のお仕事。人とコミュニケーションをとりながらするお仕事。

次の次のお仕事を決めるときは、私は60歳を過ぎていて、そうなると担当できる仕事が限られてきそう。
60代になったら、給料が少なくて働く時間が少なくて、リスクがあっても、働ければガマン。マンション管理人はその時が来るまでとっておく。

幸せになるためには、いくつかの条件を捨てないといけない。
自分にとって欠かせない条件を満たした仕事を見つけて、一所懸命働く。
その条件は、人との交流があること、かな。

自然と、そういうことが必要なのだ、と考えるようになりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?