「じつは……だった」と言ってもいいんだ!東浩紀『訂正する力』
「リセット」と「ぶれ」のあいだ
「訂正する力」とは何か?
それは本書「はじめに」で述べられているこの一節に尽きます。
そのバランスとは「リセット」と「ぶれない」のあいだを行ったり来たりする、もしくは「リセット」しながら「ぶれない」は矛盾しない、ともいえると思うのです。
私はよく「活用」なのか「悪用」なのかと考えます。
「リセット」も「ぶれない」も時に便利な言い訳になってしまいます。
「それはもう過去のことなんだから」と「リセット」して過去を省みる姿勢を排除したり、
「私は〇〇支持なので」と「ぶれない」人でいることをアピールして、ほかの立場の人を牽制してみたり。
さらにいえば、たとえば「まぁ、いろいろあるよね」と言っておけばそれ以上の議論から逃れられる。
こうした「あいまい」を悪用する方法もありますが、近頃ははっきりしている(ように見える)ことをよしとする風潮が強いようにも思います。
では訂正する力を活用するにはどうしたらいいのでしょう。
信者の恍惚
たしかにはっきりしているのはある意味で快感につながります。
著者はいいます。
「信者」になる、つまり身を投じられる恍惚のようなものがあって、その状態に興奮や安らぎを得る感覚は誰もが経験したり想像できると思います。
一方「是々非々」で、と割り切ることで、余計なことを考えずにに済む、効率がよいと、スッキリした気持ちになることもあります。
その「あいだ」でいること。
そのほうが複雑で、もやもやと自問し考えるプロセスが必要かになります。
文系の息苦しさ
かつては文系の方が、ああだこうだ、こう言ってみたり、ああ言ってみたり、と「訂正可能性」を持ち合わせていたのでしょう。文系の人が
なんとなく感じている息苦しさはここから来ているのかもしれません。
「喧騒」を取りもどす
大江健三郎がスピーチで「あいまいな日本の私」と述べてよく取り上げられるようになりました。
著者は「あいまいさとは両義的であるということ」と述べています。「日本は極端なものを共存されている国」だと。
「あいまい」ややもすると否定的にとられがちです。しかし、著者が「喧騒」を取り戻すことを、提言しています。
現実を動かしていくには、その時点でなんらかの答えを出し、目的のために決定を下すことが必要で、それなりの責任を伴うことがあります。
しかし「じつは……だった」と訂正しながら「わちゃわちゃ」大いに語り合りあうこと、そうした喧騒から生まれるものの大切さを感じる一冊でした。
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