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舞台「腹黒弁天町」を観劇した話

色々な諸々の事情により、当初の予定より遅れること約1週間。
満を持してその舞台は初日を迎えました。

パルコプロデュース主催「腹黒弁天町」@紀伊國屋ホール

主演は我が推し・ふぉ~ゆ~の福田悠太と辰巳雄大。その脇を固めるは伊勢佳世、中村まこと、久保酎吉、土屋佑壱はじめ錚々たるベテラン軍。

劇団ラッパ屋の名演目令和の時代に装い新たに開幕です。

時は明治時代の後期。舞台は人の数だけ陰謀渦巻く田舎の花街・弁天町。
踏み入れたるは二人の青年。みかんのように清涼な志高い新任教師。清廉潔白!初志貫徹!と理想と希望に友情固く契った二人に、迫る腹黒連中の口先三寸小手先八丁。恋も仕事もウソかマコトの丁丁発止で調子よくやるのが大人ってもんでさァ!なんて、気付けば現実の井戸にどぼんと落っこち、清濁の分別もつかずに飲み込んじまった青年達。彼らが縋り付きたい理想とは?辿り着く正義とは?背に腹は代えられない真の欲望とは?魂胆に塗れた大人たちに翻弄されたその先に何が待つのか。二人の行く末や如何に・・・。

笑えるからこそ悲しみが際立つ。喜劇とは斯くの如し。敗北の主題に優しく射し込む"人情の妙"にも救われる、珠玉の喜劇「腹黒弁天町」

今週末まで新宿紀伊國屋ホールで上演しています。
最近笑ってないなぁ。良い芝居を観たいなぁ。そんな方にお勧めです。

自分はこの時代背景の創作物が大好物なので、もうその設定だけで白飯10杯いける勢いで、語りだしたら止まらない自覚しかありません。分別つけずに書いたらキリがない。まずはいったん、初日と二日目を観劇した今の段階で頭の中でぐるぐるしていることをちょっと書き残しておこうと思います。

と言っても、推しのお芝居のことや、自分が舞台を観たあと一度はその世界観の登場人物になる妄想をすることなんかは、変態過ぎてお目汚し甚だしいのでそっと横に置いておきます。

今回書きたいのは、物語の主題。二人の青年たちのことについて。

ここから先は思い切りネタバレなので、これから観劇予定の方や、まっさらな状態で観劇してみようかなという方は、ゆっくりと回れ右、いったんお引き取りいただければ幸いです。

もう観ました、自分以外の考察もぐもぐし隊です、という方は、胃もたれ覚悟でよろしければ、どうぞお召し上がりくださいませ。

このあとも、有難いことに何度か観劇予定があるので、観るたびに色々なことに思い至っては空想して、自家発電を楽しむ未来がもう見えておりますが、まずはこれかな。


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山岡老人は、どうして、自分史を芝居にしてほしいと頼んだんだのか?という疑問。

いろいろな感情の内の一つに、「自分がこの弁天町で財を成し富を得て晩年を迎えるに至るこの町での人生始まりの一瞬には、確かに、親友と呼べた男が居たという事を、自分以外の誰かに知ってほしい、覚えていてほしい」という欲求があったのではないか、なんて、空想してみたりしたわけです。

財前はもう一人の俺なんだ」と、山岡青年が口にする部分があります。だから、遠くへ逃げてほしい、と。財前にとってはどうであれ(それもいつか知る由があればいいのなぁと思います)少なくとも山岡青年にとって、財前という存在は親友の域を超え、自分の片身ような存在だった。なんなら、自分の清濁の"清"を財前に託しているような心持であったのかもしれない。どうかゾウリムシのまま、変異などせず自分の代わりにその高い志を曲げずに貫いて見せてほしかった。「行ける所まで行く」というのは、山岡青年にとっては、そういう意味であったのではないか。いつしか、山岡氏にとっての希望そのものは、財前になっていたのではないか。そんな風に、空想してみたりしたわけです。

なぜそんな風に思ってみたのか?それは、いつの間にか入り込んでいた劇中劇のその中で、おや、と引っかかる一瞬があったから。あれ?これ、ダブル主演と銘打ってるけど主人公って財前なんじゃね?そんな疑問が、ふつ、と湧き出でてきたわけです。それくらい、"事の盛り上がり"の中心人物は財前だった。山岡青年は中心にいるというよりむしろ、傍観者の立ち位置という色が濃い印象を受けたのです。


でも物語のクライマックス、結びの仕方を見届けてみると、ああ、それならそのはず、そういうことなのかなぁと、思うなどしたのです。

どういうことか?山岡老人は、財前という男が居たという証を、自分が清濁に溺れ大人になっていく初めの一歩を、確かにその男と踏み出したのだということを遺しておきたかった。そのために、こんな"オーダーメイドの芝居"なんて酔狂な依頼をしたのかもしれない。そんな風に思い至った、ということです。

だって、それならば、ご自身は主人公というよりもむしろ、ストーリーテラーでありますから、自らが事の盛り上がりの中心にいることはなく、財前を傍で見守り、鼓舞し、庇う存在であったことも、すんなりと納得できたというわけです。

いやもしかしたら、なんとか一編のお芝居の形に仕上げた某劇団の某氏が、たまたまつけた演出がこうだっただけなのかもしれない。

でも、そうじゃないかもしれない。
そうじゃなかったらいいなぁ、なんて、そんな風に思ったのであります。

というお話でした。ちゃんちゃん。


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