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「習慣化」ができないのは「終感」のせい? それとも「醜感」のせい?

「はぁ…また忘れた…」

朝、会社で手を洗ったあと、ポケットに手を入れ手拭いを探すと今日も入っていない。

私は手拭いをハンカチ代わりに使っていて、仕事の時はいつも、休みの日は外出する時に必ず右のポケットに入れる…いや、厳密にいうと「入れたつもり」になっている。

外に出る時は必ずしも持って出ることにしているのだが、なぜか2、3週間に1回は忘れてくる。そして忘れる度に凹むのである。

性格からくるものなのだろうか…私は無意識に同じことを続けることができない。

「習慣化できることは一つの才能である」という言葉を聞いたことがあるが、そういった意味では私には才能がないのかもしれない。

忘れっぽくなったのをあまり年のせいにしたくはないのだが、明らかに40才になったあたりから忘れっぽくなっているのは事実だ。

そんな頃に、突然忘れっぽくなったことを真剣に悩み、会社の先輩に打ち明けたところ、その先輩は笑いながらこう言ってくれた。

「それは覚えること、やらなきゃいけないことが増えてきたからだよ。決して脳が年を取ったわけではないよ。」と。

この言葉にはかなり救われた気がした。

しかし、忘れっぽくなったことと共に一つのことが続かなくなる、なかなか「習慣化」ができなくなってしまった。

そう、「続けるぞ」と思ったことをやるのを忘れてしまうのだ。

「子供たちに親として『昔話の語り部』になるのではなく、『隣を一緒に走り続ける挑戦者』でありたい。」と思っていた。

「挑戦」というのは一朝一夕で達成できることはないわけで、継続的に「挑戦」し続けていかなければいけない。しかし、時々続けることを「忘れてしまう」ことがあるのだ。

あくまでも「飽きる」とか「止める」のではなく、忘れてしまうのだ。

まぁ、この場合の「忘れてしまう」というのは、いわゆる認知症や健忘症のたぐいではなく、忙しかったり突然の予定が入ってしまったりという「忙殺」というものによるものなので病気ではない。

確かに、20代の頃は自分のことだけを考えていればよかったが、仕事をすればお客様のこと、家族を持てば妻や子供のこと、年を重ねれば親のこと、会社の立場が変われば部下のこと…自分のことのように考えなければならないことがどんどん増えてくる。



「感じる」ことが終盤にさしかかったのではないか?…いうなれば、自分の「習慣化」を妨げているのは自分が「終感化」してきたことではないかと考えるようになってきた。

これは年を取って「感じる」ことが終わってしまったということではない。色んなことを経験しすぎて新鮮に「感じる」ことが少なくなってきてしまったのだ。

もう一つ「習慣化」の障害となっているのが、「感じる」ことが醜くなってきた…「醜感化」してきたのではないかと。

人は何かを「感じる」時はその瞬間、またはその直前・直後に反射的に「仮説」を立てて「感じる」ことの準備をしているというのが私の理論。

若いうちはその「仮説」はどちらかと自分にとっていい方向に捉えることが多かったのだが、それを何回も繰り返して段々否定的…「自分が思っているように上手くはいかないよ」とまるで周りが自分に悪いように攻めるように取り巻いているのではないかと懐疑的に反応をするようになってしまった。

そのせいか反応したあとに自分が思っているのと違い世の中は自分に優しくしてくれていることに気がつき、「ごめんごめん、俺が勘違いした。」と謝る局面が増えてきた気がしてならない。

そうするたびに凹んでしまい、一旦「行動する」ことを止めてしまうのだ。

しかし、謝る局面が増えてきたというのは必ずしも悪いことではない。

今までは一方的に自分の主張だけを放り出して、相手の反応を全く気にしていなかったから「謝る」、「私が悪かった」と考えることがなかったのかもしれない。

醜いひねくれた感じ方をし始めたお陰で、「あっ、ひょっとして今の言い方は正しく理解してもらえなかったかな?」…そんなことを考えるようになることができるようになってきた。

そんなプラスの効果が副産物的に生まれてはきたのだが…さあ、どうやって「習慣化」を手に入れるのか?…そんなことを頭の片隅に置いていたら昨日ふと「これかな…」という思いが浮かんだ。

それはまた次回。

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