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箱根駅伝が好きすぎて箱根駅伝をリビングで観ている人の話を書いていた

箱根駅伝の気配がしてきてソワソワする年末です。

私は2018年の1月から2020年の1月までの2年間、朝日カルチャースクール横浜校の小説教室に通っていました。
その頃に書いた『箱根駅伝をリビングで応援している人々の話』があって
それはちょうど平成最後のお正月で
平成ってどんな時代だったんだっけ、と思いながら書きました。
もしよろしかったら読んでください。
原稿用紙換算60枚くらいです。

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 夜も明けきらぬ午前六時半。一月二日は毎年、この時間からザワザワしだす。そう、日本国民の正月最大イベント、箱根駅伝があるからだ。日本国民、と大きく広げてしまうと言いすぎだけど、それは我が家にとって、日本中で起きている事なんじゃないかと思うほど、当たり前のように行われる。全員がテレビの前に集まり、七時からの中継を見始めるのだ。なにがそんなに面白いのかと思った時期もあったけど、毎年行われるからこそ神事に近く、寒い正月にわざわざ外に出なくとも、コタツに入り、酒を飲み、一喜一憂できる庶民にとっての最大の娯楽、なのだと思う。
 私も多分に漏れず、洗顔を済ませパジャマのままコタツに入る。準備完了、と言わんばかりに私より先にオトンとオカンは席についていた。

 長方形のコタツの長辺に二人は仲良く座り、大量に作ってあったお節料理の煮物は天板に並べられ、いつでも誰でもお好きな時にどうぞ、と待ち構えていた。温かいものを欲しがるオジンとオバンのためのお雑煮用の鍋がカセットコンロの上に乗せられ、お餅を焼くためのトースターもキッチンから移動して、コタツの傍に置かれていた。反対側の長辺、つまりはテレビの前の席では昨日から飲み続けていた裕兄がひっくり返って寝ている。
「裕兄、始まるよ」
 私は裕兄を揺り動かした。オトンとオカンは二人して目を細め、首を横に振った。裕兄は大晦日に彼女と夢の国に行ったにも関わらず、何があったのか、元旦の朝に死んだような顔をして帰ってきた。はぁ、とか、ふぅ、とかため息をつきながら焼酎を飲みだしアッと言う間に一升瓶を空にして、そのままコタツで寝落ちし、今に至っている。正月早々失恋とは、かける言葉もない。哀れな裕兄に、近くに転がっていた毛布をそっと掛けてやる。
 テレビでは続々と選手たちの様子が映し出され、今年も青山学院大学の連覇か、それとも悲願の東洋か、とはやし立てている。
 「おはようございます」と言って私と向き合う短辺に腰を下ろしたのは、由香姉ちゃんだった。 
 「拓斗はまだ寝てるの?」とオカンが声をかけている。由香姉ちゃんはうなずいた。
 「七時から見なくちゃ、面白さ半減なのにねぇ」とオバンがお餅をトースターに並べながら残念そうにつぶやいた。
 「まぁ、その内起きて来るだろ」朝風呂から出たばかりのオジンが上気した顔でオトンの隣にグイグイと割り込んだ。ギリギリ三人が座れるとは言え、かなりきつそうだ。
 「ほらやっぱり、コタツは楕円の方がいいんじゃねーか? よし、来年は買い替えよう」オトンはワクワクと、もう来年を思い浮かべている。私は来年もこれやるわけね、と肩をすくめた。天板が丸くたって脚の位置は変わらないのよ、とオカンにたしなめられている。
 テレビに映る選手たちの点呼が始まり、短パンに付けられた「がんばれ日本」のタグを確認する映像が流れた。スタート地点に集う人たちの吐く息が白い。
 裕兄はモゾモゾと起き上がり、オバン、こっち入りなよ、と由香姉ちゃん側に移動し場所を開けている。相変わらず死んだような目をしながらも、画面に顔を向けた。
 「位置について」の声に私たち一同も居住まいを正す。
 パン、という乾いた音と共に選手たちは駆け出した。
 「さぁ、今年も青学かしらね」オカンが楽しそうに前に乗り出す。
 「いやいや、そろそろ交代してもらわないと、いつまでも一番なんてずるいじゃない」
 東洋びいきのオバンはダメダメと首を振った。一区集団の先頭は東洋大学だ。
 勢いよく飛び出していきました、二十三本の襷です、と毎年同じ始まりの実況が耳に入る。
 「番狂わせがあるのが学生なんだよ。そんな下馬評道理に行くかってんだ」オトンは先頭を走る学校を嫌う。いつも応援するのは上武大学だ。
 「さすがに上武はないなぁ。毎年予選を勝ち抜いてくるのは大したもんだけどなぁ」学生連盟を応援しているオジンは、ポンポンとオトンの肩を叩いた。学生連盟こそ優勝はないでしょう、と私は苦笑いを浮かべた。
 「なんだ、亜希は何処を応援してるんだ?」
 「拓殖大学」
 あいやー、と一同は仰け反った。みんなの反応を見なくても、拓殖が優勝しないことくらいわかっている。私は口を尖らせた。だけどいつもシードに入れるかどうかを頑張るその姿は、平民の私からすると希望の星なのだ。一番じゃなくてもいい、中の上、上の下、それくらいの夢を見ても良いじゃないか。特別、拓殖大学に思い入れがあるわけではない。中央学院大学でも構わない。箱根駅伝の時だけの、にわかフアンなのだから。
 「由香姉ちゃんは? やっぱり母校?」私は正面に座る由香姉ちゃんを見た。由香姉ちゃんは駒沢大学を卒業している。「そだねー」と言いながら不敵に笑った。
 あ、と裕兄が声を上げた。私たちも画面に映し出される映像に息を飲む。まだ一区が始まって一分も経っていなかったように思う。
 ライトグリーンが一回転してそのまま走り続けていた。
 え、えぇ? うそ! 悲鳴に近い声が上がる。ライトグリーンのユニフォームを着た選手は大東文化大学で、明らかに片足を引きずるような形で、顔をゆがませ走っている。
 「今、転んだよね?」
 「走り続けるの?」
 私と由香姉ちゃんは顔を見合わせた。うそでしょ?監督は?と、この部屋に居るはずもないのにきょろきょろと周りを伺った。
 「おい! お前、走り続けるのかよ! その足で! あと何キロあると思ってんだよ!」裕兄が画面にかじりつかんばかりに詰め寄っている。
 一区は二十一・三キロだ。まだここから二十キロはある。お酒の残る裕兄の浮かべた涙はコロリと落ち、荒井、荒井、と泣き出した。裕兄がこの大東文化大学の荒井君とは友人関係でもなんでもない、赤の他人だという事は誰もが知っていたが、突っ込むものはいない。それが箱根駅伝だから。親兄弟親戚友人先輩後輩のどれにも当てはまらない私たちは、この二日間だけ、疑似身内として選手を愛するのだ。

 私たちは固唾をのんで荒井君を見つめた。自分たちが応援するチームに声援を飛ばす余裕もない。
 「応援できないわ。あたしがこの子の親だったら、もうやめて、って言っちゃう」オカンは顔をそむけた。
 「見てられないねぇ。荒井君はまだまだ若いんだから、この先も長いのに」オバンは困ったように眉をよせる。
 「ばーか。あいつは頑張ってるじゃねぇか。応援してやらないでどうすんだ。箱根だぞ。この一区を走るためにどれだけ練習してきたと思ってんだ」オトンは強く鼻息を吐く。言葉とは裏腹にきつく瞼を閉じた。
 「ここで止めたら男がすたるって思うもんなんだよなぁ。二区で仲間が待っているじゃないか。あいつのかけてる襷を、待ってんだよなぁ」オジンも苦渋の表情を浮かべた。
 「荒井ぃ、荒井ぃ、お前はそれだけのために、明日を捨てるのか? 明日から走れなくなっても、良いって言うのか? 今を、今だけを見つめているのか?」荒井ぃ、と裕兄は画面を掴んだ手を放さない。それでも私たちにも見えるように画面の下にうずくまるようにして見上げている。
 ここにいる誰もが、転んだことくらいある。痛いし辛いし恥ずかしいし、さらにはテレビに映し出されて大画面で実況されている。転んでもなお、走り続ける荒井君を見ているのは胸が張り裂ける思いだ。でも、私たちに止めることは出来ない。これは、荒井君の勝負なのだから。
 「やりたくてもさ、できないこともあるじゃん。どんなに荒井君が襷を繋ぎたくても、足が持たないかもしれない」私は煮物に視線を落とした。昨日散々みんなが食べたはずなのに、まるで減る様子がない。これも毎年我が家で繰り広げられる箱根駅伝七不思議のひとつだ。
 荒井君は先頭集団からズルズルと離されていく。監督車が後ろに着き、大丈夫だったら手を上げてくれ、と声をかけている。荒井君は健気にも手をあげた。
 「大丈夫じゃないでしょうに」由香姉ちゃんはため息をついた。
 「おいおい、足を痛めている荒井君と上武が互角とはどういうこった」オトンは、おい!プレミアムブラック! と声を荒げる。
 十キロを過ぎるころにはついに荒井君は悲しい独走態勢に入った。前を走る上武大と学生連盟の背中は見えているのだろうか。
 「そんなものじゃ、ないか。もっと先の鶴見中継所を見てるんだよね」と私は呟いていた。
 「鶴見中継所までもったら、奇跡よ。荒井君は奇跡を起こすの? そんな奇跡、起こす意味があるの?」オカンは青学の事など忘れている。オバンはソワソワとお雑煮の鍋に火をつけた。由香姉も焼きあがったお餅をお椀に盛っている。二十キロ、一時間の長さは永遠に感じ、ここに居る誰もが、早く終わってやってくれ、と願っていた。棄権をしたって、だれも責めないぞ、と念を送っているように感じる。
 一号車が映し出す先頭集団は縦に伸び、橋を下っているところだった。もうじき二区の選手が見えてくる。

一位で襷を繋ぐ東洋大学がガッツポーズを上げた。そのまま続々と、中央大、青山学院大、法政大、早稲田大、東海大、駒沢大と選手が入ってきた。荒井君の姿はもちろんまだ見えない。見えるのだろうか、いつか。
 「ちょっと! 駒沢、何やってんのよ!」由香姉ちゃんが目を見開き、怒鳴った。一区を走り終えた選手が襷を渡す相手が見当たらず、オドオドと立ち止まっているのだ。
 「もう!」
 「お。これで学生連合にも勝機がまわって来るか?」
 「おい! 荒井君は頑張っているというのに!」
 「あららら」
 「若いから、そう言う事もあるわよねぇ」
 「周りの奴も、知らせてやれってんだよ」
 舌打ちやらため息やら、ブーイングを堂々とできるのもリビング観客の醍醐味だと思う。今の時代、他人の前でこんなことを言おうものなら、写真を取られ、SNSに上げられ、ボコボコにされる。それでもここに他人は居ない。今までの張りつめた空気を一掃するかのように、みんなは口に出した。 
 私の応援する拓殖大は十八番手で襷を渡した。次いで順天堂大だ。
 あぁ、やはりシード権内は無理なのか。いやいや、まだ二区じゃないか、と自分を鼓舞する。上武と山梨学院、大東文化、学生連盟はまだやってこない。オジンとオトンはそろって、おーい!と画面に呼び掛けている。裕兄は荒井君の到着を祈って指を組んだ。二区にニャイロの居ない山梨学院は我が家からの声援も無く、テレビの画面に映し出されたその姿は、心なしか寂しそうに見えた。
 ここに立っている選手以外に何百と補欠の選手がいる。ニャイロだって見えないところで涙を飲んだはずだ。走っている選手なら尚更、その気持ちは痛いほど感じているだろう。だからなのか、荒井君は走るのをやめない。私たちは荒井君の到着を待っている。こんなに見ず知らずの人たちに心待ちにされているとは、少し羨ましくも感じる。
 「来た!」荒井! と裕兄が叫んだ。
 「うそでしょ、たどり着いた」
 「よく止まらなかったわね」
 私と由香姉ちゃんは目を見張る。オカンとオバンは、もう、無茶して、と涙ぐんでいた。
 「いけ! 男だろ!」
 「こらこら、大八木監督か」オジンはオトンに突っ込む。
 荒井君はトップとの差、八分四十秒、というところで二区の選手に襷を繋いだ。運営スタッフに両側から肩を担がれ、自力ではもう歩く事すらできない。さっきまで走っていたのに、不思議だな、と私は毎年箱根駅伝を見ていて思う。
 うわぁぁぁlと裕兄は床に突っ伏し、号泣しだした。
 「俺だって、俺だって、頑張りたい! 美香ちゃん!」うわぁぁぁー、と雄たけびをあげた。
 「誰なの、美香ちゃんって」由香姉ちゃんがオカンにささやく。
 「裕の彼女。大晦日に喧嘩したみたいで」オカンもささやき返す。
 「オレ、美香ちゃんに会ったぞ。昨日、神社で」オトンが雑煮の汁を吸いながら呟く。なぁ、とオジンをチラリと見た。オジンも同じ体制で雑煮の汁を吸っている。お餅をゆっくりと飲み込むと「子供を連れてたな」と裕兄に視線を動かした。裕兄は床に突っ伏したまま動かない。そうなの?そうなの?とオカンとオバンは顔を見合わせる。

 ガチャガチャとリビングの扉のノブが動き「おはよう、由香ちゃんは?」と言って拓斗が入ってきた。目をこすりながら、きょろきょろとリビングを見渡している。
 拓斗、おはよう~、と言って、起き上がった裕兄も由香姉ちゃんも、オカンもオトンも、オジンもオバンも、もちろん私も両手を広げ、拓斗を出迎える。さぁ、誰の所に来るか、と箱根駅伝のゴールテープさながらに待ち受けた。案の定、何の迷いもなく由香姉ちゃんの胸に飛び込むのだけれど。拓斗は今年、小学校に上がる。今後、色んな向かい風が彼に吹き付けることはわかっている。それでもあたしたちが付いてるぞ、とみんなは腕を広げるのだ。
 「美香ちゃんに、今日、うちで一緒に箱根駅伝見ないか、って誘ったんだよなぁ」オジンは独り言のようにつぶやいた。
 「そうそう。でも遠慮してよー。裕がちゃんと説明しないから、美香ちゃん怪しんだんじゃねーの?」
 みんなの視線が裕兄に集まる。
 「ちょっと、裕。あんた、いまさら恥ずかしいとか思ってるわけ?」
 オカンが裕兄を見つめる。「やっぱり、あたしがまずいのかな」
 「オカさんだけがおかしいんじゃないじゃない」
 由香姉ちゃんは眉を上げ、拓斗の脇腹をコチョコチョとくすぐりだし、部屋に笑い声を立てた。由香ちゃん、ずるい、と言って拓斗も由香姉ちゃんをくすぐり返す。由香姉ちゃんとオカンの間に入った拓斗は勢いづいてオカンもくすぐりだした。大の男でも脇腹はこそばゆいらしく、野太い笑い声が響いた。
 オカンはお母ではない。岡 信夫という男性だ。

 彼は立ち振る舞いから言動までまるで女だけれど、筋肉質の体は大きく、ピンクのパーカーを着た姿はまるでオードリーの春日のようだった。もちろんオトンと夫婦ではない。オトンは音無 保という男性で、「キムタク世代だからね」と言う理由で長めにした髪を茶色にし、肌は日焼けをしていた。マスカレードホテルの宣伝で見かけるキムタクは髪を短くしてホテルマンになっているので、私にはキムタク世代というのがピンとこない。オトンとオカンは、仲は良いがパートーと言うわけでもなく、お互い友人だと思っている。
 オカンの隣に座るオトンは「普通とかおかしいとか、そんなの時代で変わるんだよ。うちなんて時代を先取りしてたってことだからな。次郎の先見の明のおかげだ」とドヤ顔をしている。オジンは、ははは、褒められた、と照れながら頭を掻いた。
 オジンはお爺ではなく、笠間 次郎という、れっきとしたこの家の主だ。
 テレビ画面に映し出される映像は、どんどん我が家の近所になって行き、上空ではヘリコプターの音が聞こえだしている。トップを争うCのロゴを付けた選手は眼鏡をかけていて、なんだか可愛いな、なんて私は思っていた。
 「大東文化が優勝したら、美香ちゃんを迎えに行く」目の座った裕兄がおもむろに呟いた。
 「なんたる他力本願」由香姉ちゃんは目玉を丸くする。
 「おいおい、さすがにそれはねーよ」オトンも目を丸くする。
 「それこそ酷いプレッシャーじゃない」オバンも目を丸くする。
 「九分近い逆ハンデなんだよ。二区を走る選手の気持ちも考えてよ」私も目を丸くした。
 「学生連盟を抜かそうって言うのか?」オジンは口を突き出した。
 「優勝しなかったらどうするの?」オカンはキョトンと裕兄を見返す。  
 「なんだよ! それくらいの奇跡が起きなきゃ俺だって勢いづけねーんだよ! 奇跡を起こしてくれよ! 大東文化!」裕兄はまた画面にかじりつきだした。
 「なぁ裕。お前もわかってると思うが、別に美香ちゃんが子連れでお前より年上でお前が派遣社員であったとしても、何も問題はないからなぁ。ここは部屋も余ってる。家賃も食費も水道光熱費もみんなで手分けすれば、やれないことないんだからなぁ」
 オジンは冷蔵庫からビールを取り出し、オカンとオトンに渡した。男三人で並ぶにはコタツの長辺であってもやはり狭かったようで、オジンは私とオトンの間のコタツの脚を股に挟むような形で腰を下ろした。聞こえているはずの裕兄は振り返らない。最後尾を走るライトグリーンの襷から目を離さない。
 画面では、花の二区と呼ばれるだけあってスピードがすごい。それは早さだけではなく、順位の変動のことだった。鉄紺の襷の東洋が前に出たと思ったら日大の外国人選手ワンブイが迫っている。後続では順天堂がごぼう抜きを始め、私の応援する拓殖大学もメキメキとテレビに映っている。三区の戸塚中継所が近づき、誰もマークしていなかった国士舘が一番で襷を繋いだ。リビング中がどよめく。
 なんと、夢のある。私も今年は国士舘を応援するべきだったかな、と頭をよぎるがレースが始まってからの浮気はいけない。頑張れ、オレンジ。
 「もー、ほらー。襷リレーをちゃんとやらないからこんなことになるのよ。その一秒を削り出せ、って東洋だけの格言じゃないでしょ」由香姉ちゃんは眉をしかめた。
 「なんだよ、由香。そんなことがあったってまだ上位に居るじゃねーか。上武なんてどこ行っちゃったんだよ、中継車もつかねぇじゃねーか」オトンも眉をしかめる。
 続々と選手は戸塚中継所で襷を繋ぎ、山梨学院から遅れること二分で学生連盟がやって来る。しかしまだライトグリーンは見えてこない。
 「おい、まさか」裕兄ちゃんの顔が青くなった。
 戸塚中継所では大東文化大学の第三走者が白と黄色のストライプの襷をかけて待機していた。戸塚ではトップを走る選手から十分離れると繰り上げスタートになってしまうからだ。
 「おい、川澄、頼む。 荒井のためにも、なんとか、繋いでくれよ」
 裕兄ちゃんは土下座を始めた。二区はただでさえスピードランナーが揃う区間だ。ふるいにかけられるように、遅い学校は引き離されていく。ただでさえ九分近い逆ハンデの中、川澄君は走ってきた。トップを走っていた東洋を抜くほどの馬力を国士舘は発揮し、川澄君との差は強烈だった。私が応援する拓殖だって外国人選手を起用して十八位から十二位まで持ってくるほど、各校トップランナーを導入する。私たちは祈るような思いで川澄君の到着を待った。しかし、到着を待たずして、ストライプの襷は発進した。
 誰もいない戸塚中継所に川澄君が入ってくる。
 うぁぁーと声を張り上げた裕兄は涙と鼻水でぐしょぐしょの顔を天井に向け、子供のように泣き出した。私たちも涙が頬を伝った。この、仲間の待っていない中継所が川澄君の目に映るのかと思うと、胸が苦しくなる。誰も待っていないんじゃないよ、私たちはあなたの到着を待っていたよ、と誰からともなく拍手を始めた。
 「川澄と荒井の勇士に乾杯しようじゃないか」オジンはビールのプルタブを開け、頭上にかかげる。オカンとオトンもならってプシュっと音を響かせた。
 「ほら、裕。終わったんじゃないんだよ。襷が切れたって、諦めないよ、この子たちは。諦めたらそれこそ荒井君と川澄君に申し訳ない、って思うんだよ」由香姉ちゃんは煮物に手を伸ばし、ガンガン食べ始めた。拓斗が裕兄に近づき、よしよし、と頭を撫でている。
 「亜希、寒くない? 裕の毛布、腰に当てておきなね」と言って飲み物を取りに行ったついでにとオバンは私の腰に毛布を掛ける。あ、うん、と言って素直に私も腰に当てた。
 「あ、ついに逆襲始めだよ、オカさん」由香姉ちゃんがもごもごと口を動かし、お箸で画面を指した。
 「うそ、この子、故障してるって聞いてたのに」
 フレッシュグリーンの襷を掛けた、青学の森田君は猛スピードで駆けていた。戸塚中継所を八番手で襷を受けた青山学院の、前回王者の意地が爆発している。オカンは涙を浮かべ、頑張れー! と叫んだ。由香姉ちゃんの応援する駒沢大学が抜かれていく。
 「あぁ! 紫紺の襷! 何やってんだ!」由香姉ちゃんも叫んでいる。
 「おいおい、中継車、上武も映してくれよ」オトンは涙声だ。
 「学生連盟は創価大にバトンタッチか。こういう学校全体で出てこられない選手にも走らせてくれるっていうのが、箱根駅伝の良いところだよなぁ」オジンは感慨深げにうなずく。
 「あぁん、もう、東洋は毎年頑張っているのにぃ」オバンは口を突き出した。
 トップで襷を渡した国士舘はズルズルと順位を下げ、あれ、オレンジの後ろだ。
 「わぁ! シード権内に入った!」私の声も大きくなる。
 「そのストライプの襷でいい! そのまま繋いでいけ! 途切れるな! 途中棄権なんてなるなよ! 」裕兄も声を張り上げる。
 拓斗も一緒になって、がんばれー、と声を上げている。
 リビングが活気づく。誰かを必死に応援するって、いいな。私はオバンの入れてくれた温かいお茶に口を付ける。

 「そんで、裕。なんで美香ちゃんと揉めたんだ?」オトンが空になったビールを床に置き、煮物に手を伸ばす。こういう無神経な質問を堂々とみんなの前でするところがオトンの良いところだ。ブスっとした裕兄はみんなの視線を受け、家族会議、してくれるの? と伺った。
 「俺は良かれと思ったんだよ。ディズニーランドで美香ちゃんと、娘の美海ちゃんと年越ししたら、楽しいかなって。でも美海ちゃん熱っぽくなってたみたいで、俺、気が付かなくて、防寒用品持ってなかったし、途中で美香ちゃん、帰るって言いだして、チケット取るの、すげー大変だったのに、なんだよ、って」裕兄ちゃんはうつむいた。
 私と由香姉ちゃんと、オカンとオバンは、あちゃー、とのけぞる。
 「行く前に相談してくれれば良かったのに」オバンは、はぁ、とため息をつく。
 「子供を舐めてる。すぐ熱出すんだよ」由香姉ちゃんは拓斗を見た。
 「あたし、付いて行ってあげたのに。おぶって美海ちゃん連れて帰ってきてあげたのに」オカンが身体をくねらせる。
 「子供連れで年越し外、なんて裕兄にはハードルが高すぎる」私は口をへの字に曲げた。
 裕兄は、俺がバカだから、と肩を落としている。
 「じゃよ、別にうちの事でもめた訳じゃねーんだな?」オトンはホッと胸をなでおろした。
 「あれだなぁ、また家族が増える」オジンは蔓延の笑みを浮かべた。
 「でも、美香ちゃんが怒ってるんじゃないの? こんな父親じゃだめだ、とか」由香姉ちゃんはチラリと裕兄を見た。裕兄は肩を落としている。そこで、みなさんに、お願いが、と呟くとコタツから出て正座をし、「みんなで一緒にやってもらえないかな、と」上目遣いでみんなの顔を見渡した。リビングに集まるみんなはキョロキョロとお互いの顔を見合わせる。
 「俺はいい年してこんなだけど、美香ちゃんと美海ちゃんと、家族になりたいって思ってる。迷惑もかけると思うけど、それでもここに連れて帰って来たい」裕兄は頭を下げて、縮こまった。
 一同裕兄に視線を戻すと、いいよ、と答えた。
 裕兄は涙を浮かべ「そう言ってくれると思った」と温かい息を吐きだした。
 私たち一同、いやいや、そうじゃなくて、と首を振る。
 「それを美香ちゃんと美海ちゃんに確認して来い、って言ってんだよ」オトンはビールの追加を取りに立ち上がった。
 「そうよ。裕が良くても美香ちゃんと美海ちゃんが嫌がるかもしれないじゃない。うちは大歓迎だけど」オバンは、女心を聞いてきて、と裕兄を突っつく。
 「ねぇ、美海ちゃんって拓斗よりも下? 学校一緒になるかな。仲間は多い方がいいんだけど」由香姉ちゃんは拓斗を引き寄せて膝に座らせる。
 「由香ちゃん、美海ちゃんはぼくの仲間?」と拓斗は由香姉ちゃんを見上げた。
 「そうなってくれるといいな、と思って」由香姉ちゃんは拓斗の頭を撫でた。
 「でも今まで通り、一番の仲間は由香ちゃん?」
 「そうだよ。ママと約束したんだもん」由香姉ちゃんはニコッと拓斗に笑顔を向けた。
 「午後はママの所に行く?」拓斗は質問を繰り返す。
 「行くよ。昨日、拓斗のお父さんの爺ちゃん婆ちゃんに会ってきました、って報告にいかなきゃね」
 「いつもこっちに居るんじゃ、あちらさんも寂しいだろうからなぁ」オジンが口をはさむ。
 「でもさ、向こうの爺ちゃん婆ちゃんも高齢だから、拓斗をこっちで見てくれて、って頭下げられちゃうんだよね」そんなの気にしないでいいのにね、って由香姉ちゃんは小さく息を吐いた。
 拓斗のお父さんは三年前に交通事故で無くなって、拓斗をひとりで育てていた拓斗のママは今、末期がんでホスピスに入っている。同級生だった由香姉ちゃんは、半年前に拓斗を連れて帰ってきた。みんな、家族が増えたぞ、と喜んで迎え、今一緒に住んでいる。由香姉ちゃんは今年三十五歳になるバリバリのキャリアウーマンで、それでも色々恋愛はしたみたいだけど、「いやぁ、やっぱり一人に絞るとか無理」と言って独身を貫いた。それが今や良き母のようになっている。仕事のできる女とは、子育てもそれなりにできるものなのだな、と私は感心している。
 「美香ちゃんも由香くらい腹が座ってればいいのにね」オカンはうふふ、と拓斗に微笑みかけた。
 「まぁすぐ慣れるわよ」由香姉ちゃんも微笑む。

 「よっし!」オカンがテレビを見て、ガッツポーズを取る。
 「よっし!」次いでオバンも、ガッツポーズを取る。
 「よっし!」次いで由香姉ちゃんもガッツポーズを取る。
 三区を走り終えた選手たちが平塚中継所に入ってきたところだった。フレッシュグリーンはトップを奪還し、鉄紺の襷は二位に続き、紫紺の襷は四位に入っていた。
 私も少し遅れて「よっし!」とガッツポーズを取る。オレンジの襷は九位で渡され、シード権内を死守している。
 オトンは、おーい、プレミアムブラック~、と画面に呼び掛ける。
 「出場できなかった学校のトップをもってしてもこれだからな。いやぁ、強い学校っていうのは、ほんとにすごいねぇ」オジンは学生連盟の通過を確認して、上位校に敬意を表した。
 「ねぇ!ちょっと! 三区の大東文化、結構すごかったみたいなんだけど!」いつの間にか裕兄はスマホで速報を確認していて、三区を走った選手の区間記録を表示させた。私たちがおしゃべりし、青学がダントツに早かったとしても、大東文化は区間五位に入っている。目に留まらなかったのが申し訳ないくらいだった。
 「見えないところで頑張ったんだ! ほんとはすげー早かったのに! 」俺、なんかやる気出て来た、と裕兄は煮物を猛烈に口に放り込み始めた。
 みんなは裕兄を見つめ、そうだね、とうなずく。レース全体での順位と、各個人の頑張りと、テレビではわからない部分と、襷が届かなかったけど走り続ける仲間と、ほんと箱根駅伝って勉強になるなぁって、私ですら感慨深くなる。

 「二宮ってフリーザさまが出るのよね」
 「復路だけみたいよ。四区ではいないんじゃない?」
 オバンとオカンは首位争いをしている二校を横目に箱根駅伝名物を探していた。
 「あれだろ? ドラゴンボールの。 それにしてもあいつら全身タイツで寒くねーのかね」オトンはブルっと身を震わせる。
 「ここから先は沿道も名物だしなぁ。ライブで観るからには見逃しちゃならんなぁ」オジンも目を凝らす。
 フリーザさまとはアニメのドラゴンボールに出てくる悪役スターで、そのコスプレをした大人が五・六人、顔を白塗りにして、全身白いタイツ姿で並んで、踊りながら箱根駅伝を応援しているのがここ数年、箱根駅伝リビング観客たちの間で話題になっている。選手に目が行かなくなるからか、テレビ局も周到に、映りこまないカメラワークで戦っているとツイッターでもっぱらの噂だった。後で動画が上がったとしても、テレビの前でかじりついて見ているのに見逃してしまってはフリーザさまに申し訳ない、とみんなで目を凝らす。
 あれ?と言い出したのはオトンだった。美香ちゃんじゃね? と画面を指さした。おそらく美香ちゃんと美海ちゃんであろう二人は『裕君、ごめん!』と書いた大きな紙を傾斜のコンクリート壁に貼り、懸命に二人でテレビカメラに向かって手を振っている。フリーザさまは映しこまないテレビ局も、何かの謝罪であるこの紙を全国ネットで映すことを認めてくれた形になっている。
 裕兄は固まったまま画面を凝視し、次第に涙をにじませ、すくっと立ち上がった。吊るしてあったダウンジャケットに腕を通し、リビングのドアの前で振り返ると
 「ぜったいに、この家に連れて帰ってきます!」と叫んだ。
 「絶対よ」とオカンも涙を浮かべ「青春ねぇ」とオバンも涙を浮かべ「おっ、仲間が増えるぞ」と由香姉は拓斗を突っつき「やったぁ!」と拓斗は万歳をして「こうしちゃいられねぇ、明日の煮物追加だ」とオトンは仕込みにかかり「奥の部屋、三人で使えよぉ」とオジンが声をかけ「裕兄、がんばれ!」と私も叫んだ。
 裕兄は大きく頷き、勢いよく飛び出した。おそらく外に出ても走っているのだろう。箱根駅伝を見た者は走り出したくなるものなのだ。

 中継カメラが上空から江の島を映している。良く晴れ渡った空は青く、もうお昼の色をしていた。
 「でもさぁ、毎年思うけど、すごいよね。東京から箱根までって走れるものなんだ」由香姉ちゃんはゴロリと横になった。裕兄がいなくなったコタツの長辺はオバンしか居なく、オバンも私寄りに座っていたので寝ころがってもテレビが見える。選手は走っているのに、由香の不届き者、と酔いの回ったオトンは絡む。
 「四区あるあるよね。山登りが始まる前に、私もトイレ行って来よう」
 オカンが立ち上がった。
 「裕が美香ちゃんたちを連れて帰ってこれたら、俺も転んだ甲斐があるってもんだな。なぁ鳥羽ちゃん」
 「そうね、あたしも看病した甲斐があるってものだわ」
 オジンとオバンはほほ笑みあった。この二人はまぎれもなく夫婦である。この二人が夫婦でいてくれたおかげで続々と家族は増えた。オバンは鳥羽 良子という女性で、子供の産めない身体だった。
 「ほら当時は、疑わしきは全摘、って時代だったから。検査結果出る前に十中八九癌だからって手術しちゃったんだけど、結果出たら癌じゃなかった、って言われてもねぇ。先生たちを責める気もないし、寝ないでやってくれたんだし」いつだかオバンから聞いた話だ。
 「今じゃ大家族だもんなぁ」オジンも照れたように頭を掻いていた。二人は同じような顔をして笑う。夫婦は他人なのに長らく一緒に暮らしていると似てしまうものらしい。信じられないよねぇ、と二人で見つめあっていたのも、去年の箱根駅伝だったか一昨年だったか、もう覚えていない。それくらい毎年話題に上がる、我が家の箱根駅伝七不思議。
 「毎年聞くけど、ほんとなの?次郎さんが箱根走ってた、って」由香姉ちゃんも毎年同じ質問をする。だって映像ないじゃん、と目を細めている。箱根駅伝の中継中に今昔のVTRも流れる。それに出てきたことがない、と由香姉ちゃんは毎年文句を言う。
 「だって学生連盟だもん。中継車付かないんだよなぁ」オジンはとぼけたようにそっぽを向いた。
 平成の初めの頃、大学四年生だったオジンは学生連盟の選手に入り四区を走っていた。私の生まれる前の話だ。全区間の中でも短い区間だったためスプリント向きだったオジンが選ばれた。舞い上がったオジンはぺーズ配分を誤り序盤から飛ばしていたらしい。
 「息が切れた次郎さんの前に、裕が飛び出したのよねぇ。避け損なった次郎さんが自分の足踏んで転倒。それでも襷、繋いだもんねぇ」オバンは当時を思い出して、懐かしそうに空を見る。
 裕兄は当時、今の拓斗よりも小さくて、コースに飛び出そうとしたらしい。群衆は前を行く選手に気を取られ、後方の学生連盟の選手には目を向けていなかった。丁度見に来ていたオバンが飛び出した裕兄の手を引っ張り、オジンとの衝突は免れたのでレース自体には支障は出ず、気が付いた人も少ない。オジンが勝手に転んだ、という事になっている。
 「その後、裕連れて交番に行ったんだけど、迷子の届もなくて。一時預かりのつもりが早三十年」平成も終わるのね、とオバンは可笑しそうに顔をクシャっとする。
 学校から近くもない学生寮に住んでいたオジンは最後の寮生で、運営してた寮母さんも歳を取っていて、旦那さんも亡くし、子供も無かったので、オジンは卒業後も住まないか、と打診されているところだった。裕兄を連れて謝らせに来たオバンは、腫れあがったオジンの足に驚き、泊り込みで看病をしてやったらしい。高熱が出て、とかそういう状態ではなかったので、泊まり込む必要もなかったのだけれど、寮母さんがオバンを気に入り、寮母さんも仮病を使って、泊まり込みで看病してよ、あんたがいなきゃ二人とも死んじゃう、と脅した。観念したオバンは裕兄共々ここに住むことになってしまったそうな。ここを二人にゆずる、好きに使ってよ、そしてあたしの事をここで看取って、との契約で二人は寮母さんを家で看取り、裕兄の両親が迎えに来るまでここで待とう、と各所へ手続きも行った。それでも裕兄の両親は迎えに来なかった。
 「恋人同士でもなかったのに、急に夫婦になって、子宮もないのに子持ちになって、親でもないのに寮母さん看取って、人生、こんなことあるんだなぁって思ってたら、わんさかわんさか、あるはあるは」
 オバンは毎年、可笑しそうに笑う。オカンもオトンも由香姉ちゃんも私も、えへへ、と笑う。
 「次郎も鳥羽ちゃんも、人が良いからな。オレだって改心せざるを得なかったってわけよ」
 「由香が荒れ暮れてたおかげでもあるわね」
 オトンとオカンは肩を組み、由香姉ちゃんを見てにたりと笑う。俺たちが由香を更生させたんだよな! と威張っている。
 「いやいや、二人よりも鳥羽さんのがすごかった」由香姉ちゃんは右頬を抑えた。
 「鳥羽ちゃんの左ストレートを受けたのは、後にも先にも由香だけだもんなぁ」オジンは煮物を突っつく。
 「そんなことも、あったわねぇ」オバンは目を細め、ほほ笑んでいる。
 オトンの十代最後の年、それは平成が始まって五年が経った頃らしいんだけど、施設から出て働いていたのだが喧嘩っ早さが災いして仕事は長続きせず、でもそれは誰かをかばってだったり、見るに見かねてだったり、決して俺が暴力野郎だという事ではない、とオトンは毎年力説する。そんなことは一緒に暮らしていれば重々わかるので、誰もそれを疑うものなどいないのだけれど。毎回事情を聴取してくれるおまわりさんもオトンの事は買っていて、オジンとオバンの元に身元引受人の相談にきたのだ。
 「うちは部屋も余ってるし、下宿だと思えばいいよ」とオジンはオトンの肩を抱いたという。
 「こんなよ、どこの馬の骨ともわからねぇ俺を、なんの疑いもなく家に上げちゃうんだぜ。こいつはいつか、誰かに騙されるに違いねぇ、俺がこの家族についていてやろう、って思ったんだよ」オトンは、どうだ、と威張っている。
 「あたしもね、まさか拾ってくれると思わなかった」オカンは涙を浮かべている。
 我が家や恒例、四区あるある。どうしても四区はオジンの想いの強い区間であり、オジンとオバンと裕兄の出会いの場であるから、毎年繰り返される思い出話は、当時そこに居なかった私でさえもそらんじて話せるようになっている。それは由香姉ちゃんも同じで、それでも黙って耳を傾ける。
 オカンは当時から大工をしていて、ガタイもよく、筋骨隆々なのに、ピンクのつなぎを着て化粧もして、現場でちょっと浮いていたそうだ。オトンが弁当屋の配達で建築現場に行ったときに、仲間にパシリのように使われていたオカンに会った。居場所のなさそうなオカンに声をかけて連れて帰ってきたという。
 「嬉しかったなぁ。みんなでご飯食べれたり、裕も今の拓斗くらいだったし、さすがに子供は産めないけど、育てることはできるんだ、って鳥羽ちゃんに言われて」
 「こっちこそ助かったのよ、女手増えて」とオバンはうふふと笑う。
 「腕のいい大工だったからな。俺が来た時点でここもずいぶんガタついてたから、岡が直せばいい、って思ったらよぉ、結構本格的にリホームしちまうし」オトンは、風呂が最高だよな、と言うとオジンもうなずく。
 オジンは「色々練習台に使えばいいよ」と家の改装に文句も言わず、オカンの技術向上に協力した。我が家は元々寮だったので無駄に広い。オカンはコツコツと改良し、食堂をリビングにし、男湯と女湯を分けて、檜風呂を作ってしまった。
 「昔はオカマって呼ばれてたけど、性同一性障害って言われた時もあったし。障害じゃないわよ、失礼しちゃう。でも今じゃLGBTとか言っちゃって。ずいぶん市民権を得たって感じ。あれよね、りゅうちぇるの存在もでかかったと思う」オカンは、時代はいつも変化する、と口を横に引いた。
 色々変化した時代だったのかもしれないけど、テレビでマツコ・デラックスを見慣れている私からすれば、オカンのことは何の違和感もない。
 オトンはオトンで配達していた弁当を作る側に回ったり、もちろん調理師の免許も取ったり、材料から気を使わねーととか言って無農薬農家を探したり、今や運営側になってしまっている。流通が一番金がかかんだよ、と言って地消地産をモットーとしていたが、今ではそれも世の中で当たり前のようになってきた。
 「で、あれだよ、俺たちは仲良く幸せに暮らしました、って時に由香登場」オトンはひっひっひと由香姉ちゃんを指さした。
「なによ、毎年うるさいわね、もう二十年も前の話じゃない」と由香姉ちゃんは口を尖らせる。
 「昭和でもいねーぞ、あんなヤンキー」ひっひっひ、と笑うオジンから由香姉ちゃんはビールを奪ってあおるように飲んだ。お、由香が飲んだって事は拓斗と散歩は俺だな、とオジンは嬉しそうにつぶやく。
 もちろん私はまだ産まれていなかったし、どれくらい由香姉ちゃんが荒れていたのかは知らないのだけど、小学生になっていた裕兄に言わせると、「面白くない鬼奴みたい」だったようだ。何度も同じおまわりさんに補導され、それはオトンの調書を書いていたおまわりさんだったのだけれど、「私の定年の記念に、笠間さんのところに置いてやってくれないか」と懇願された。オトンやオカンのように成人であれば下宿人になれるが、当時由香姉ちゃんは十五歳、聞けばオトンと同じ施設にいて、オトンも他人とは思えず、裕兄と同様オジンとオバンの養子縁組となった。「姉ちゃんって後からでもできんのな」と小学生だった裕兄は本気で思っていたらしい。
 由香姉ちゃんは住むところが変わったくらいで素行が直るわけもなく、ここでも荒れ暮れていたのだけど、ある日うっかり、オカンの事を「オカマ」呼ばわりして、オバンが切れた。スッと立ち上がったオバンは目にもとまらぬ速さで左ストレートを打ち、由香姉ちゃんはダウンしたらしい。オバンは若いころからキックボクシングをやっていて、当時三十代半ばではあったけれど、切れ味抜群で、周りに居た男三人は目をむいた。オトンとオカンで由香姉ちゃんを押さえつけるにしても、手加減をせざるを得ない部分もあったのに、オバンは躊躇なくパンチした。
 「当たり前じゃない。うちの子だもの」と相田みつおのようなことを言って、オジンはそれを半紙に書き、それが今でもリビングに飾られている。
 それ以来この家では、オバンを怒らせるんじゃない、というルールが設けられている。
 普通は平手でしょ? グーで来る? と由香姉ちゃんは眉をしかめた。
 「まぁ、それであたしも目が覚めた、って言うかオカさんには悪いこと言ったと思っていたから、殴られて当然なんだけどね」えへへと由香姉ちゃんは私に笑いかけた。

 「ちょっと待った! どういうことよ、これ!」
 久しぶりに画面に目を移す。オカンの応援する青学がいつの間にか順位を下げて三番目になっている。えぇ?青学が?ブレーキ? リビングがざわつく。
 どんなに強い学校でもまさかの出来事はある。転倒だけがアクシデントではない。コンディションが上がらないとか、プレッシャーとか様々な要因で失速をするのも箱根駅伝だった。
 「五区はまた走りが違うからなぁ。どこがどうなるか、わからんぞ」
 オジンは腕を組み、乗り出した。私の応援する拓殖はどこだ? と小田原中継所の続報を待つ。トップを走る東洋大学から遅れること六分、オレンジの襷が見えて来た。
 「あ! まだシード権内!」上位がグルグル変動する中、ひたすらにキープしている。
 「いけ! そのまま、いけ!」私は声を張り上げた。
 「そのまま行けねーよ。後ろに今年の山の神候補の、法政と順天堂がいるじゃねーか」オトンは難しい顔をしている。
 「やっぱり四区も目を離しちゃダメなのよね。でも人間の集中力なんて一区から五区まで続かない」由香姉ちゃんは眠ってしまった拓斗に裕兄の毛布を掛ける。
 「山登りが始まる前に、あたしもお雑煮食べちゃおうかな」オカンがお餅を取りに立ち上がった。あたしも、あたしも、と由香姉ちゃんとオバンは手を挙げる。
 「亜希はいいの?」と振り返るオカンに、私は首を振った。食欲は依然としてない。
 「亜希もずいぶん我が家の箱根駅伝観戦、慣れたよね」由香姉ちゃんはオカンのビールに手を伸ばしている。席を離れると自分の飲み物が奪われるのは慣例だ。
 「そりゃ、産まれた時から見てますし」私は肩をすくめる。私はゼロ歳の時に、このうちの玄関の前に捨てられていた。
 捨てられていた、と私が言うとみんなは首を横に振り「私たちに与えられたのだ」と言う。

 私は年の瀬も差し迫った大晦日の晩、それこそウソみたいに籐の籠に入れられて、真っ白なおくるみに包まれ、玄関に置かれていた。その籠には「この子の事を、どうぞよろしくお願いします」と書かれた手紙と一緒に帯の付いた現金がいくつも入っていた。
 「絶対、良いところの娘の子だ」由香姉ちゃんはつぶやいたと言う。
 「赤ちゃんポストってこの辺にないものね」オバンは、ついにオムツからやらせてもらえるのか、と目を輝かせた。
 「あれだよ、ぜってぇあのおまわりが耳打ちしたんだ」オトンはニヤニヤと顎をなでる。
 「まぁ、うちは部屋も余ってるからなぁ」オジンは眉尻を下げる。
 「あのお巡りさん、定年して、コウノトリに転職したのね」オカンは手を合わせ、大晦日の空を仰ぐ。
 「妹っていうのも急にやって来るんだな」裕兄は驚きを隠せない。
 ゼロ歳だった私が見上げた光景は、こんなだったのだろう。そして年が明け、箱根駅伝が始まり、各区間ごとにそれぞれ私を抱くというルールを作り、誰の番でおむつ替えかをロシアンルーレットのように競った。
 大きくなっていく私に、次郎さんをオジンと、鳥羽さんをオバンと、音無さんをオトンと、岡さんをオカンと呼ぶように教育したのは由香姉ちゃんだった。こうして全く血の繋がりのない私たちは、家族となった。
 「ほら、時代を先取ったんだ。今じゃこういうのシェアハウスって言うんだろ? おかしいって言ってたもんが、普通になっちまうんだよ。下馬評なんか、当てになるかってんだ」オトンはいつもドヤ顔で言う。
 オカンが焼けたお餅をお椀に盛り、鍋から雑煮の汁を注ぐ。私には温かいお茶を持ってきてくれている。
 「これだけ大人がいるのに、経験者が居ないからね。あ、美香ちゃんに聞けばいいのか」由香姉ちゃんが私を見つめたのちに、ポンと手を叩く。
 「いや、あれらしいぞ。美海ちゃんは亡くなった旦那さんの連れ子だ」オトンは訳知り顔で煮物を口に放り込んだ。
 「あら」
 「あら」
 オカンとオバンの声が重なる。
 「じゃ、やっぱりあの子たちはうちの子だ」
 二人してガッツポーズを決める。
 「まさかの大家族。神さまってのは、なかなかやるねぇ」オジンは目を閉じた。
 大家族、にも程がある。私は自分のお腹をさすった。出産予定は五月だ。

 本当に好きだったのか、と聞かれると今ではもうよくわからない。私も初めての事だったし、相手も初めての事だった。夏休みの終わりにクラスの有志で文化祭の打ち合わせをするために教室に集まった。アルバイトだったり塾だったり、それぞれみんな帰っていき、私と彼で片づけをしていた時だった。もちろん付き合ってはいたのだけれど、だからみんな先に帰ったのだけれど、手も繋いだことのない、ホヤホヤの二人だった。なんとなく、としか言いようがない。好奇心だったのかもしれない。触れ合った手を掴み、どちらからともなく、無言でそうなった。思ったよりも痛かったし、途中で、私たちは何をしているんだろう、とも思ったけれど、彼も同じようなもので、途中で止めていいのかよくわからない。終わった後、彼は「ごめん」と言ったけど、私も「こちらこそ」と返してしまうほどだった。それほど悪い事をしたという気もなかったし、遊ばれたとか、遊びだったという気もない。本気だったとか一つになれて幸せでした、とかそういう感じもない。
 それでも子供はできていた。
 我が家の人たちは具合の悪そうな私を心配し、私ですら何かの病気かと思ってオバンと一緒に病院に行った。そういえば生理が来ていなかった、とも思ったけどまだ私も生理が始まって数年だったので、遅れたり来なかったり不安定なものだった。
 学校を休みがちになった私を心配した彼は、うちまでやってきて自分の子供ができていることを知った。彼は土下座をして誤り、後日ご両親と再度やって来て、「まだ未来のある子供なんです。どうか、下ろしてもらえないか」と懇願されたが「亜希にも、この子にも未来はあります。認知は結構です。うちの子として育てます」とオバンは突っぱねた。「金輪際、こちらから連絡をすることはありません。だた、そちらから会いに来ることまでは、何も言いません。お好きにしてください」と譲歩のようなものも見せたが、彼も彼のご両親も何も言わなかった。
 それに引き換え我が家の人達は賑やかな反応だった。
 「おいおい、リアル『十四歳の母』じゃねーか」とオトンは笑い、「あたしもどっかで仕込んでこようかな」と由香姉ちゃんは腕をまくり「子宮もないのにおばぁちゃんになれた!」とオカンは跳ねて歩き「みんなでやれば怖くない」と裕兄は腕を組み「部屋はいくらでも余ってるからなぁ」とオジンはほほ笑んだ。私は「十六歳の母だって」と突っ込んだけど、「亜希の身体が心配。それにこの環境で生きていくって、強く育てる覚悟はある?」とオバンに言われ、さすがに黙った。でも私には後悔はなかった。嫌いだった相手との子供ではないし、後々奪い返しに来るかもしれないけど、私が生まれてよかったと思っているように、まだお腹にいるこの子も、そうなるように育てようと思っている。
 いや、一人では無理だと思う。でも一人ではなかったので、選べた選択だった。軽はずみな行動だったかもしれないけど。そこだけは反省します、と私はみんなに頭を下げた。
 「私の事は嫌いになっても、この子の事は嫌いにならないでください!」とアイドルのようなことを言ってみたら「嫌いになる理由がない」とスルーされた。みんなは口をそろえ、私の口癖を真似て「ありよりのあり」と言うだけだった。

 山を登る選手が画面に映し出されている。東洋は鉄紺の襷を胸にトップをひた走り、オバンは声の限りに声援を送る。そしてみんなは目を止めた。 
 「あれ? プルシアンブルー?」私の口から思わずこぼれた。ノーマークだった東海大学のプルシアンブルーの襷が二番手を走っていた。
 「うっそー! いつからいた?? 」鬼のような顔になった由香姉ちゃんは叫ぶ。
 大検を合格した由香姉ちゃんは駒澤大学と東海大学を受験し、東海大学にフラれた。怨恨は箱根駅伝でもぶり返す。
 「ちょっと待ってよ! フレッシュグリーンは何処に行ったの?? 」オカンも鬼のような顔になる。もともと男なだけに、大声になると迫力がある。四日の朝の『スッキリ』でのインタビューに出れなくなるわよ! と激を飛ばす。
 オレンジエキスプレス、十人目を抜きました、と実況の声が聞こえた。
 「オ、オレンジ・エクスプレス?」みんなが息を飲む。法政大学の選手が画面に映し出されている。
 新しい。まったく襷の色を無視した呼び名。十人も抜いたのに、もはや山の神とも呼ばない。箱根駅伝は実況さえも進化する。リビング観客は手を叩いて笑い転げた。
 「おいおい、いくらなんでも、そりゃねーだろ」
 「神さまじゃなくて、登山電車になったのかぁ」
 「青学も電車にはかなわないわねぇ」
 「でも鉄紺には届かないわ」
 「東海抜いてよ! オレンジ・エクスプレス!」
 みんな口々に勝手なことを言っている。
 何があるかわからない、箱根駅伝山登り。今までの順位なんて、いとも簡単にひっくり返る。そう、いつだって、何が起こるかは、わからない。私だってまさかこの年で子供を産むとは思っていなかった。私の生きて来た平成はもうじき終わるし、これから何がどうなっていくのか、誰だってわからない。私はお腹をさすり、平成の次はなんだかわからないけど、一緒に来年も見るんだぞ、と自分のお腹に念を送る。おー! と言わんばかりに蹴り返してきた気がした。
 選手たちはそれぞれ芦ノ湖にたどり着いて来ている。
 「あ! オレンジ、シード権内死守!」私の応援する拓殖大学は八位で芦ノ湖にたどり着いた。いい線行ってる、と嬉しくなる。オトンは、おーい、プレミアムブラック! と画面に向かって叫んだ。
 オトンになんで上武を応援するのと聞けば「だってよえーから」と言い
 オバンになんで東洋を応援するのと聞けば「二位でも喜ばないところよ」と言い
 オジンになんで学生連盟を応援するのと聞けば「関係のない学校が集まって頑張るっていいもんだよな」と言い
 オカンになんで青学を応援するのと聞けば「あの子たち楽しそうでかわいいじゃない」と言い
 由香姉ちゃんになんで駒沢を応援するのと聞けば「あの学校に入るために色々学んだからね」と言い
 裕兄になんで大東文化を応援したのと聞いたら「ダメもとでも走って見ちゃったからだよ」と言うだろう。
 私がなんで拓殖を応援したのと聞かれたら「そんなに目立たないけど、地味に頑張っているところ」と言う。
 それでもみんな、どこが優勝してもいいのだ。どんなレース状況でも自分が走っているその瞬間を、全力で向き合っている彼らが好きなんだ。
 この五区では上位三校が区間新記録を出していた。物凄い戦いだった。それでも明日の事はまだわからない。復路一斉スタートもあるから、順位を追うのも難しくなってくる。気合を入れて見守らなくてはならない。リビング観客にはそれしかできないのだから。それでも、泣きながら応援している。

 私のスマホが着信を知らせた。裕兄からのLINEだった。私は添付された写真にほほ笑んだ。
 どうやら、明日の箱根駅伝復路の観戦者は2人増えそうだよ、とみんなに伝えると、万歳三唱が起きた。

おしまい

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五区の途中で話が終わるのだけど
それは私の体力がここで尽きたからでした。
復路まで話が書けなかった。なんのプロットもなく始めたからだ。

小説教室は手取り足取り講義してくれるようなものではなく
受講者が書いてきた話が他の受講者に配られて、読んできてもらって
次の授業で感想を貰う、というのを繰り返します。
30対1くらいで、顔出しで、良くも悪くも感想を言われたりする、恐ろしい授業です。自分も書くし、誰もが言って言われてになります。
感想を言う側もその感想を他の人に聞かれています。
「感想では厳しい事を言うのに、自分が書くにはこうなんだ」とかもバレる。
言う側として、言葉も選ぶし、人格否定にならないように、感想と感情を分けて感じたことを言う訓練にもなります。とにかく先生が上手で、MCとして、誹謗中傷にならないようにコントロールしてくれました。
コロナが始まって、行かなくなったのだけどダメ出しをしてもらえるって、有難いものでした。

そんな中で、この話を提出し、ずいぶん色々言われた覚えがあります。
「こんな家族が隣に住んでいたら嫌だ」
「養子縁組がこんなに簡単に出来るわけがない」
「当日箱根駅伝を観ていたけど、こんなレース展開じゃなかった気がする」
「テーマはなんなのかしら」
「この作者、血の繋がらない家族の話、好きだね」
とか。

そして私はコリもせず、翌年もこの登場人物のまま、1年後また箱根駅伝を観ている彼らの話を書きました。この話のタイトルは『平成家族』で翌年の話のタイトルは『令和家族』でした。
今になって読み返すと色々粗があるけれど、基本的にはこれが私の作風なのだな、と思うところがあって、来年は文フリにも出るのだしと、さらしてみました。



すごく喜びます(≧▽≦)きゃっ