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You can not handle the truth.だってさ

「集合的超自我」

中2病患者の造語ではない。

意図している意味としては、
フロイトの言う、超自我(自分の中の無意識に持つ、親のしつけ的な倫理的なスタンス、逸脱しないように自分に課された監視者としての自我)
と、ユングの言う集合的無意識の組み合わせである。
集合的無意識は人類の元型に言及するが、ここでは無意識に皆が共通してもつスタンスということに限定する。

つまり、皆がなんとなく、それはやっちゃダメでしょという、無意識の共通認識のことを差す。

こいつが実に厄介で、制御弁になっているが、拘束着にもなっている。
同調圧力とは違うもっと大きな何かだ。


なぜ一向に世の中がよくならないのかを考えてみる。

まず、大変残念なことだが、世の中は政治では変わらない。
経済政策でその国に富みも貧しさももたらすことは出来るだろう。
だがそれは変わったとは言えない。抜本的な制度改革は、自浄作用で行われない。それは歴史が示している。
社会を変えてきたのは、常に外圧とテクノロジーだ。

稲作の普及や自由民権運動、

それらの変革が産業上の技術向上がもたらす
精神的発達によるものだと断じれば、社会を変え続け来たのは、外からの力と、産業構造の変化だと言える。


例えば道交法を改正するにあたり、
小さな稚児を交通事故で亡くした親のロビー活動と、
車の自動運転技術の社会インフラの普及目的
を比較したとき、どちらがはやく結果にリーチするだろう。愚問だ。
正義の話ではない、これはコストの話なのだ。限られたリソースをどこに充てるか、という話なのだ。

歴史を鑑みて、逆張りでこう言ってみる。
政治は人間の感情による変更は決して認めない。あるのは消極的選択のときだけだ。

つまり世の中をよくするためには我々の正義は正直どうでもよくて、テクノロジーを推進しまくるしかないのだ。結局、ものを作り続けるしかないのだ。

クローンも不死もips細胞も核融合発電でも何でももってこい。
集合的自我って奴のクソみたいな正しさを逆手にとる。「便利なものは正義だ。」というオープンソースを使う。

その定義を否定できない限りその技術は死なない。
そこからわずかに抽出される正の精神性が我々の社会を一段先へと進めるに違いない。

デモもロビー活動も大切だ。世論を醸成する培地となる。

だが我々の集合的自我を甘く見てはいけない。奴らはコスト管理と勘定が得意で、建前が大好きで、その正論の完成度は類をみない。
これは我々人類と我々が創造した集合的自我との戦争なのだ。

ここである映画を参照したい。1992年の作品「ア・フュー・グッドメン」。
トム・クルーズが、「Did you order CODE-RED!?」とジャック・ニコルソンに詰め寄る手法にこそ我々の未来はあるのだ。

この映画の裁判所のこのシーンを紹介するためのエントリ。2人の演技がちょっと凄い。

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