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鯉こく

残暑厳しい折から一転、初冬ではないかと錯覚する程に朝晩の冷え込みが厳しくなった。こんな時節は、暖かい食べ物や飲み物が恋しくなる。昨日は久々に自宅で暖かいルイボスティーを淹れて飲みながら、過日入手した資料を読み耽って一日を過ごした。

この時期食べたい暖かい食べ物と言うと汁物である。具は肉でも魚介類でも野菜でも何でも構わない…等と記していたら、15年程前の冬の記憶が色鮮やかに蘇って来た。

東京は浅草の歓楽街の程近くに【報恩寺】と言う古刹がある。元々は下総国飯沼(現在の茨城県常磐市)にあった寺で、紆余曲折の後に現在地に移された。
この寺では毎年1月12日に変わった行事をおこなう事で知られている。

その行事を【鯉の俎開き】と言う。
何と、仏前で鯉を解体し、参拝客に振る舞うと言う、凡そ寺院に似つかわしくない内容の行事である。

15年程前の冬の同日はたまたま休暇だった。それでワタクシはその行事に参加すべく、浅草に向かった。

此処で【鯉の俎開き】の由来についてざっと説明する。尚、執筆に辺り末広恭雄先生の【魚と伝説】に記載の内容を一部参考にさせていただいた事を附記する。

報恩寺の開祖である性信(しょうしん)上人は、高僧として有名な親鸞聖人のお弟子であった。この性信上人がある時、師匠である親鸞聖人からの依頼で下総国飯沼に一寺を建立し、近隣の住民に仏の道を説いていた(この寺は元々は諸事情により廃れてしまったものを性信上人が再興したものであり、再興後に【報恩寺】と名を改められたのだそうだ)。
ある時、この参拝客の中に人品卑しからぬ雰囲気の翁が交じるようになった。この翁は性信上人に深く帰依し、後に性信上人から【性海】(しょうかい)と言う法名を授けられるに至った。
そんなある日、性海は性信上人にこんな事を告げた。
「私は実は人ではありませぬ。上人様にありがたい法話を聞かせていただき、私も仏の道を理解する事が出来ました。ついてはご恩返しの験として、毎年鯉を二尾、上人様に献じたく存じます。今後ともどうぞ息災で」
そしてそれっきり、性海は報恩寺に姿を見せなくなった。
一方、同じく下総国は岡田郡に飯沼天満宮と言う神社があったが、ある時この社の神官が不思議な夢を見た。夢枕にひとりの翁が立って言うには…。
「私は天神である。報恩寺の性信上人より仏の道を説いていただき、悟りを得る事が出来た。その高恩に報いる為にそなたに頼みがある。手水鉢に鯉を二尾入れておくから、それを報恩寺に届けて欲しいのだ。しかと頼みましたぞ」
目覚めた神官が(不思議な夢を見たものだ)と思いながら手水鉢にふと目をやると、手水鉢の中には大きく肥えた鯉が二尾、ピチピチと跳ねていた…。

以来、この天満宮の御手洗で肥育された鯉は毎年二尾報恩寺に届けられ、御本尊(現代ではそれに加えて性信上人の御姿を描いた掛け軸)の前で解体された後、一部が京都の大本山に送られ、残りはお斎として参拝客に振る舞われるようになった。
解体の儀式は嘗ての宮中のまかないの所作を色濃く残した古式ゆかしいもので、包丁と菜箸を駆使し、決して魚体には手を触れぬようにして解体される。一筋包丁を入れる毎に喝を入れ、二尾の鯉の内一尾は尾を高く立てた姿で俎に並べられるが、これは所謂【龍門】を遡る鯉をあしらった姿なのだそうだ。残る一尾は尾を立てず、鰭と骨で【長久】の文字を象る。

さて、ワタクシが出向いた時は、解体された鯉は鯉こくにされて参拝客に振る舞われていた。
通常、鯉こくと言う汁物はかなり野趣溢れる調理である。鱗を落とした鯉を内臓ごと筒切りにし、胆嚢(俗に言う【鯉の苦玉】)を除き、下茹でしてアクを取り除いてからひたすら味噌で煮込む。煮れば煮る程に骨まで柔らかくなり味が良くなるとされ、長時間ゆっくり煮込むのが普通だ。味は普通の味噌汁よりかなり濃厚である。鯉の滋味が汁に溶け込んでいるだけではなく、長時間煮詰める為に味噌の味も濃くなっている為である。
然し、この時の行事では時間をかけて煮込む暇は無いから、もっと簡易的な作り方だった。確か絹豆腐と長ネギと共に薄口の味噌仕立てで作られた、あっさりした上品な味わいの汁物だったように記憶している。
それでも、捌きたての鯉の身を用いて、檀家のおかみさん達が心を込めて作ったあの鯉こくは飲むと心も体も暖まり、何とも言えず美味いものだった。

もしもこの行事が今も続いているのなら、また報恩寺に詣でて鯉こくのお裾分けに与りたいと願っているのだが、果たしてこの宿願は叶うであろうか。

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