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フグは食べたし命は惜しし

嘗て奉職していた職場の近くに高級寿司店があった。 
フランチャイズ乍ら朝の早くから店を開け、大勢の客で賑わう大きな店だが、ワタクシは結局、一度もその店の門を潜る事無く前述の職場を離れた。 
その店のショウウィンドウに大きな水槽があり、活きた魚が多数放たれて鰭を動かしていたのを今も覚えている。

多くはアジであったりタイであったりするのだが、いつかの冬のある日、寒さの為かフグの需要が盛んの様子で、大きなフグが数匹放たれていた。 

東京で食べるフグは頗る高価たかい。 
一人前で五桁なんて店も決して稀有ではない。 
然し、捌けば数万円に化ける【金の卵】為らぬ【金の鱗】(最もフグに鱗は無いのだが)であるフグの、その取り扱いはお世辞にも丁重とは言えない。 

狭い水槽の中で、喰われる恐怖から錯乱状態に陥ってでも居るのか、お互い噛みつ噛まれつして皮膚や鰭はボロボロ、眼は充血して精気を失い、泳ぐ姿にも全く覇気が無かった。
酷いのになると白い腹を見せて仰向けになりつつ水槽の底に横たわり、それでも鰓と胸鰭だけは忙しなく動かして辛うじて息をしていると言う有り様の個体も居た。 

フグは嘴のように融合した鋭い歯を持つ魚であるが、俎の上で料理人がその歯で指を噛まれると最悪指がそっくり無くなる程の大怪我に至る事もある為に、大抵ペンチか何かで歯がへし折られて居る事が多い(最近は状況が変わっているかも知れない)。
歯を破壊されて口元が血塗れ、肉がズル剥けの上、仲間内の争いで傷だらけのフグを見るにつれ、何とも言えない気分になったものだ。 

あの傷だらけのフグが、最終的には数万円の高級料理のフルコースに化けるのだから、誠に食の世界と言うのも好い加減、曖昧模糊としたモノだ。一時期、食品偽装問題が日本のそちこちで明るみに出てお茶の間を騒がせていた事があったが、あれも為るべくしてなってしまった風潮なのかな…等と暗歎たる気持ちになって来る。 

そうまでして食道楽にフグが受けるのは、矢張り毒を持つ魚である、と言う事実であろうか。
フグの毒は無味無臭、種類によって蓄積される部位が異なる為に、それに応じた調理法が必要であって、料理店で料理人がフグを捌いてお客に提供するには専門の免許を取得しなければならない。
フグを食べる文化は、そのままフグ毒との闘い、可食部がどの部分なのかを探る世代を跨いだ壮大な実験だったと言っても過言は無いだろう。
【フグを食べたし命は惜しし】と言う言い回しは、フグ食に命を賭した人々の血を吐くような叫びにも聞こえる。

だがその一方で、全くの無毒であり、食べても死なないフグが結構存在する事実はあまり知られていないようである。
あるTVバラエティ番組で、漁師と調理師(フグ調理の免許を持っていたかは不明)の立会いの元、無毒とされるフグを捌いて食べた事が明るみに出て、厚生省からTV番組制作サイドに厳重注意が下された事があった。
厚生省が無毒のフグを専門の料理人を通さず素人包丁で捌く事に目くじらを立てたのは、矢張りフグ=毒と言う構図が成り立っているからと思われる。近年では元来無毒とされていたフグ類が後天的に毒を蓄積する事が明らかになっているので余計だろう。余談だがフグの毒は、ハイチ島の魔術師が呪術に用いる薬の原料として、酷く重宝する物質のひとつでもある。

時に、フグを正面から見ていると時々、その顔が人間に似ていると錯覚する事がある。ワタクシだけが感じる錯覚かと思いきや、「ヒトヅラハリセンボン」と名付けられた奴も居るようで(ハリセンボンはフグに極めて近縁の魚類である)、あながち暴論でも無いのかな、と思う。

こんな事を考えてしまうのは、日本の民間伝承にしばしば【人魚】の説話が登場し、その多くが【魚の体にヒトに似た顔、肉は旨く、食べると不老長生を得られる】と言う特徴を共有している事に拠る。

これまた余談になるが、日本の人魚が西洋のそれのような美麗な姿に空想されるようになるのは、実は江戸時代も中期に至っての事である。それまで、日本における人魚は【怪物】として扱われていた。

人魚の肉を食べた有名人と言えば、若狭の国の伝承に登場する八百比丘尼やおびくにが真っ先に思い起こされる。
架空の人物と一般に考えられているが、その一方で実は比丘尼にはモデルが存在し、それも複数の人物が絡んでいると言う説がある。

ある資料に拠ると「人魚の肉は白く柔らかである」とされているそうで、此れは淡白な風味を持つフグの白身の魚肉を彷彿とさせるモノがある。ひょっとしたら、八百比丘尼(と思しき人物)が食べたのはフグの肉だったのかも知れず、不老長生と言うのは実は毒による中毒死の逆説的な流布で、彼女の死と生前の功績を口伝えにしていった彼女の関係者が複数、世代を超えて存在した事が「比丘尼は不老長生を得、八百年と言う長い月日を生きたのではないか」と言う説の元になった、と推測する事も出来る。

…飽くまで素人の当て推量であるが。

どうにも、フグの事を話題にするととりとめも無く色々語ってしまう。稀代の食通・北大路魯山人先生が言うようにフグが「魔界の滋味」に値するほどの珍味だから…なのかも知れない。

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