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【大仏の日】なぜ、高岡に大仏が造られたのか?

結論

 地域を疫病などから守るために移され、高岡の工芸技術を集結させた大仏。

 高岡駅から徒歩10分の場所にある大佛寺。本堂の隣に鎮座している高岡大仏。奈良の東大寺の大仏、鎌倉長谷寺の大仏と並んで日本三大大仏の1つとされ、無料で見物できます。高岡駅から歩いて向かうと境内の右側に大仏が現れます。背中にある丸い輪は奈良大仏、鎌倉大仏には見られない特徴です。
 今回は、なぜ、高岡で大仏が造られたか、高岡市博物館なども訪れました。
 この日に大仏に関する記事を書く理由は、4月9日は大仏の日と制定されているからです。752年4月9日、奈良市の東大寺の大仏が完成し、眼を入れる行事が行われたことがきっかけです。

高岡の産業の歴史

 高岡市は戦国大名前田利家の長男、前田利長によって高岡城を拠点にして街がつくられました。加賀藩は「加賀百万石」と呼ばれるように、現在の石川県、富山県を抑えていました。高岡市は加賀藩の中部にあり、富山城、など周辺の城との連携が取りやすく、小矢部川、千保川、庄川という河川も近くにあったため、船運にとって便利な場所にありました
 1609年、富山城が焼失したため、前田利長は魚津に避難しました。魚津に避難中、徳川家康、秀忠に高岡城築城の許可を取った後、高岡城を築城しました。同時に町作りも指示し、わずか半年で完成させました。当時の地名、関野から詩経より高岡に改名しました。
 城下では、武士、家来562人を呼びました。
 街の産業の発展のため、1611年、現在の高岡市戸出西部金谷(高岡市南部にある高岡砺波IC北側付近)から7人の鋳造技術士を呼び、高岡駅北口から徒歩20分の場所にある金屋町に住ませました。税金を免除、家賃も無償という好待遇で産業の発展に寄与させました。金屋町は現在も千本格子の家並み、銅片の巻き込まれた石畳の美しい街並みが残っています。北陸地方だけではなく滋賀県、長野県など周辺の地域から630人余りもの商人、鋳物師など職人を招き、商工業の街としても発展しました。その後、金屋町で建築に必要な工具、日用品、農具など鉄器の鋳造から始まり、寺社で使われる鐘、灯籠、仏具、火鉢など銅器へジャンルを広げました。免税により、作れば作るほど儲かる仕組みのため、高いモチベーションで鋳造に打ち込むことができたと考えられます。同業者内でもルールを作成し、高岡は日本一の鋳造の街として発展を遂げました。

当時の街並みを残した金屋町

 明治時代、政府は殖産興業をスローガンに掲げて、助成金を出し、機械化を進めて生産量の増加を促したり、各地の特産品(美術工芸品)のブランド化に力を入れて、輸出して国益を上げ、国を発展させる計画が建てられました。高岡銅器の商人は幕末の開国後、横浜、神戸に進出して国内外の博覧会に積極的に参加しました。博覧会に高岡銅器を応募し、優秀な成績を収めて海外にも通じるブランドとして発展させました。特に、西洋では高岡出身の美術商人林忠正のセールスにより、日本の美術工芸品が大ブーム(ジャポニズム)になりました。生産現場でも、改革が行われました。機械化に加えて分業制を導入することにより、鋳造業、彫金、着色などの小企業を問屋が統括し、問屋性家内工業体制を取り入れ、生産量が増大しました。さらに、1871年の廃藩置県により、加賀、富山藩が廃止になると、藩と取引していた職人が失業し、仕事を求めて高岡に移住され、人材も多く確保できました。これらの要因が重なり、高岡の鋳造産業における生産額は大正時代の15年間で10倍に飛躍しました。
 当時から後継者の育成にも力を入れており、高岡駅南口にある富山県立工芸高校が1894年に誕生しました。しかし、戦争により、物資不足で生産中止になりました。
 高岡市は空襲をうけなかったため設備が無事に残りました。戦後、輸入が再開できたアルミを原料として鋳造技術を駆使して生活用品を生産しました。物資不足のため、作れば売れる時代。鍋など調理器具等を生産し、売上を伸ばして復興。アルミは軽く、需要が増えたため、銅器からアルミ産業に転向する業者が多くいました。
 平成に入り、バブル経済の崩壊による低迷、設備投資の低下、大規模工場による大量生産など生活の変化から生産量が現象しつつあります。小学校から大学までものづくりの一貫教育できる環境を整備したり、団地に業者を集めて集団化したり、海外へ見本市を展開したり、ブランド化も図り、技術を守る取り組みもされています。

 時代に合わせた商品開発にも力を入れており、うちわ、しおりなど身近に使えるもの販売されていました。仏様など縁起のよさそうな置物も販売されています。部屋のインテリアや開運祈願にオススメです。食器類は熱伝導が低いため、冷えやすく、ビール用のコップやサラダなど冷たい料理を盛り付けるときにぴったりです。
 高岡銅器は日本全国のモニュメントに利用されています。長野市の川中島古戦場公園の上杉謙信、武田信玄の合戦の様子を表した像、東京都葛飾区亀有駅にある両津勘吉像も高岡銅器です。探してみても面白いです。

高岡大仏の歴史

 鎌倉時代、源義勝が高岡市北西部にある二上山で巡礼していたとき、木製の大仏を造ったことが始まりです。当時の大仏は4.8mと大きくありません。江戸初期、前田利長が高岡に入って、高岡城近くに地域の安定を祈願し、移されたと伝わっています。1745年、現在地に9.6mの木造大仏を造りました。当時は金箔に覆われていました。しかし、1900年の高岡大火により焼失しました。現在の大仏は、高岡の工芸職人によって造られた7.43m(台座込で15.85m)の青銅製の大仏です。30年近くかけて造られ、1933年に完成しました。2023年で現在の大仏が完成してから90年になります。

実際に訪れてみた

 交差点から丸見えの高岡大仏。奈良大仏、岐阜大仏は大仏殿に覆われており、鎌倉大仏、昭和大仏(青森市青龍寺)は境内の奥に安置されていました。高岡大仏の特徴は昭和大仏と同じく、台座の上に鎮座されていること。さらに、背中には円光背という巨大な輪があること。これは、仏様から発せられる光を表現しています。1933年に訪れた歌人、与謝野晶子は高岡大仏のことを鎌倉大仏より美男子と称していました。顔立ちは美しく感じました。額の毛に金箔を施してました。 
 台座は入り、参拝した後、内部へ進みました。内部には仏、地獄めぐり、転生転生輪廻など13枚の絵画、1900年の大火から逃れた2代目高岡大仏の頭部が安置されていました。2代目の高岡大仏の顔は、現在とは違い、目が半開き、黑く大きな顔でした。
 売店もあり、おみくじはガチャガチャで200円で販売されており、大仏をモチーフにした親しみを感じるイラストで缶バッチもついていました。

境内の入口から拝める高岡大仏

 高岡の工芸技術を詰め込んだ高岡大仏は、現在、高岡市のシンボルとして市民に親しまれていました。

訪れた場所

高岡大仏

営業時間 9:00~18:00(台座回廊拝観時間)
定休日  年中無休
アクセス JR、あいの風とやま鉄道高岡駅徒歩10分

高岡市立博物館

営業時間 9:00~17:00(16:30まで入館)
定休日  月曜日(祝日の場合翌平日休館)、12/29~1/3
アクセス JR、あいの風とやま鉄道高岡駅徒歩15分

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