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『青春100キロ』、あるいは他人に薦めにくいが観た人とは友達になりたい映画

AV女優と“ヤる”ために、若者が100キロを走るドキュメンタリー映画『青春100キロ』を観た。

※以下、AV(アダルトビデオ)等で用いられる表現がでてきます。

■思っていた以上の“エロビデオ”感

ひとことで言うと、「自分に14歳の子供がいたら絶対に観せたくはないが、もし14歳の頃の自分に会えることがあれば、絶対に観せてやりたい」映画だった。

鑑賞する前は、できるだけ他の人のレビューや感想を読まないようにしていたので、「思っていた以上にエロビデオ感があるな」というのが、まず衝撃だった。そこを越えると今度は、自分はこの映画にどのような距離感で接するべきかを考えさせられた。

『青春100キロ』がどういう作品なのかというと、まず上原亜衣という女優がいる。人気のあるAV女優だが、2016年春に引退することが決まる。その集大成として、あるAVが制作されることになる。そのAVでは、彼女がプロのAV男優とカラむ(=性交する)パートがあったり、大人数の素人とゲームをするパートがあったりする。その1つに「ある若者に『100キロを走れば上原亜依に中出しができる』という条件を課す」というパートがあって、『青春100キロ』はそこを映画化したものだ。もちろん「中出し」とは、膣内射精を指す。

作品ではこの他にも、AVで当然のように用いられている言葉が何度も出てくる。勃起、半勃ち、中出し、ち○こ、ま○こ、孕(はら)ませる……等々。

のみならず、AVの映像そのものが随所で使用されている。それらが映画館という空間では、妙な生々しさを醸し出す。俺が観た回は70人ほどの観客がおり、うち3~4名が女性だった。初対面の他人とエロビデオを観る感覚は、母ちゃんにエロ本を発見されるのにも似た、言い訳できない気まずさがある。

「そんな光景は異様である」として、この作品に(観る前から)嫌悪感を抱く人がいるのもわからないではない。だが個人的には、『青春100キロ』は「現象」なのだから、そこに文句を言っても仕方がないだろうと思っている。

たとえば、通勤時の満員電車という「現象」に対して不満があっても、会社の上司に「満員電車がイヤなのでボクだけ出社時間を変えてください」と訴える人は少ないだろう。同じように『青春100キロ』は時代や社会や文化やさまざまな要素が偶然重なってあらわれた「現象」なのだから、叩いてもきっと何も変わらない

■満ちあふれる「前向きさ」

実際、観始めると、これが「ネガティブさ」とはまったく無縁の作品であることがわかる。当の上原亜衣は「中出し」されることや「孕ませ隊」と書かれたTシャツを着た多数のファンを嫌がるどころか、「せっかく来てくれたのだから『よかった』と思って帰ってもらいたい」と、スタッフに涙で訴えるプロ根性を見せる。監督の意図とは違うのかも知れないが、個人的に『青春100キロ』の「青春」とは「上原亜衣にとっての青春である」と読み取ったくらいだ。

一方で上原亜衣のいる山中湖を目指して100キロをひたすら走る若者・ケイ君も「バカ」と言っていいほどポジティブな人物。大好きな上原亜衣に中出しできるなら何でもやるという気概が素晴らしい。もう身体がボロボロで、足を引きずりながら急な坂道を歩いているときでさえ、「(あと数10キロで上原亜依に会えるので)歯を磨きたい」と訴える場面には、彼の芯の強さをかいま見た。もし、安土桃山時代に生まれていたら、ケイ君は天下に知られる武将になっていたのではないだろうか。

話はそれるが、ケイ君を見ていてひとつ気がついた。『24時間テレビ』の100キロマラソンに嘘くさい部分があるとしたら、原因は自ら「走りたい」という人に走らせていないことにあるのではないだろうか。その気のない人を指名して走らせたところで、「○○のためなら100キロでも走る」というエネルギーが生む感動(?)には、とてもかなわない。

また、ケイ君に自転車で並走する平野監督の前向きさにも、頭が下がる。観ている途中で気づいたが、監督は走り続けるケイ君に一度も「がんばれ」と言わない(他のスタッフは言っている)。むしろ「ちゃんとカメラの前でも勃起できる?」とか、「その疲れた足を亜衣ちゃんに舐めてもらおうぜ!」などと、一見アダルトビデオ至上主義的な発言を繰り返す。だが、ケイ君にとってみれば、こうした「ゴールすることが前提」の話題があればこそ、気力を振り絞れたのだろう。

彼らは皆、ある種の「狂気」に取りつかれているようにも見える。だが、その「狂気」が、自分のいる場所とまったくかけ離れた場所のものかと考えると決してそうではない。自分の中にもそれがあるとわかるからこそ、距離感の取り方がわからなくなるのだ。

そして長い旅路の果てに、この三者(と「常識人」としてのスタッフたち)の気持ちが一つになるクライマックスは、まさにクライマックス。クライマックスにクライマックスを持ってきた、これ以上ないクライマックスとなる(これが書きたかった)。

エロビデオ感はあるし、世界に売り出したい“クールジャパン”的なものとは対極に位置する作品だ。「感動」という言葉を使うには、あまりに場違いである。しかしながら、心底楽しく、また同時に「狂気」について考えさせられる作品だった。


■余談その1

いろいろやることがあって、ネットでのチケット購入ができなかったので、朝イチで当日券を買いに行った(上映は20:20から)。販売開始を待つ列には、他の映画の当日券を買う人もいた。係の人が聞いてまわるのでわかったのだが、パレスチナ難民キャンプを撮った『だから まいにち たたかう』や、SEALDsの若者を撮った『わたしの自由について~SEALDs2015~』を観る人たちが多かった。そのなかで「『青春100キロ』です」と申告するの時には、俺の本気度が試されているのだと思った。

■余談その2

俺が観た回には、上映後に平野監督とAV監督のカンパニー松尾氏、ビーバップみのる氏のトークショーがあった。そこでは『青春100キロ』の話よりもむしろ、主題歌を歌ったゴールドマン氏の人物像について語られ、ゴールドマン氏の撮った『青春1メートル』も上映された。浅学にして知らなかったが、ゴールドマン氏もまた、興味深い人物であることがわかった。『青春1メートル』、ぜひまたどこかで上映してほしい。

■余談その3

ここでは「アダルトビデオ」を「エロビデオ」と呼んでいるが、個人的にそう呼んできた時間が長かったためそう書いているだけで、他意はない。

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