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穴を掘って埋める一日

一日を終えて、布団の中に入る。なんとなくモヤモヤしていたので、心の声にじっと耳を澄ましてみると「次に何をすれば満たされるだろうか」「あれをやって、これをやって…」とささやいていることに気づいた。欠乏感を感じていること、行動の動機が未来への期待になっていることを認めなければならなかった。

なぜ欠乏感や期待をもとに行動したくないのかというと、それが穴を掘って埋めるようなものだからだと思う。もちろん、物理的・社会的には前に進んでいるのだけれど、精神的には減らしてから元に戻しているにすぎない。どうせ埋めるなら掘らなくていい。未来のことを無意識に考えて期待することは、精神的に穴を掘ること同じだと思う。

次に何をするかを考えているときに、明確な不快感があるわけではない。ソワソワするというか、むしろうまく未来を想像できた場合は興奮を感じている。「今にある」や「心の充実」というのは、未来に期待しなかったり、ドーパミンを出さないことなのかもしれない。どれくらい今を意識に向け、どれくらい未来のことを考えればいいのか、気になる。

行動の動機を欠乏感にしないための対策を考えてみる。一つは何もしないことだと思う。一通りやることをやってから、それ以降は何もしない。パソコンも開かないし、本も読まないし、何も書かないし、ゲームもしない。インターネットにつながれば情報が飛び込んできてやることが思い浮かぶから、インターネットも切っておく。それで調子が整うなら、たまにはそういう日があってもいい。

何もしていない状態に満足するところから始めなければならない。そうすれば、行動の動機が満たされることにはならないはずだから。何もしないことって素晴らしい。「今日誰のために生きる?」にあきらめる時間が来る幸せという話があって、これに通じるところがある。

日没になって、薄明かりがついていたとしても、もう真っ暗だよね。
だから、全ての作業をあきらめないといけない。
ショーゲンは、あきらめるという言葉を、マイナスに捉えていない?
でもこの村では、プラスなんだよ。
あきらめる時間が来るということは、今から真の休息の時間になるということだからね。

子供の頃、外で雨が降っているときは特にすることがなかったから、家で同じ漫画を何回も読んでいた。2回くらいなら読めるけれど、それ以上は次に何が書かれているか分かるから読みたくなくなってくる。最終的には何もすることがなくなって、暇で退屈になった。当時は嫌いな時間だったけれど、今となってはその感覚が懐かしい。

今年のテーマの一つは「今まさにやっていることを楽しむ」だった。何かをしているときの心の状態に注目しがちだったけれど、何もやっていないときも大事だなと思った。欠乏感を感じていないか、次に何をやろうかと考えていないか。明日散歩するときは、もう少し景色に目を向けてみようと思った。木々はいつも変わらずそこにあり、常に満足しているように見えるから。

そう考えていると、体を包んでいる温かい毛布に意識が向かった。なかったら困るのに、ずっとそこにあったから、あることに気づいていなかった。明日のことを考えず毛布の感覚に集中していると、いつもより安らぎながら眠りにつけた気がした。

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