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#66 こんなことがあった(3つの震災・後編 1995年阪神淡路大震災と2011年東日本大震災)

最近起こったものから書いていたので前編では2024年1月の震災について書いた。今回の震災は1か月弱経過した今でも傍目には支援が十分に行われていない印象を強く受けるとともに、中学生を主たる対象とした集団避難の言葉を聞くたびに「集団疎開」を連想し、避難所よりは衣食住で不便を感じさせないのであればといった理由で苦渋の決断をした親子もあるだろうと思うとともに、親元から離れた子どもの心身について子どもたちの側でケアをする大人はちゃんといるのだろうか。子どもたち自身が自分たちの辛さをしっかり吐き出す場所はあるのだろうかと、子を持つ親として心配している。

また、直接の被害を受けたわけではないけれども比較的被害を身近に感じた震災として三つ挙げているけれども、私は父方が熊本に所縁があって、「熊本城の前に城はなし、熊本城の後に城はなし」と心底思っているところがあって(ベスト3なら熊本城、姫路城、大阪城で、大阪城はお城の形とかが素晴らしいというよりも通学途中で眺めることが日常的だった時期があるので馴染のお城と言う点で3つに入る。そう、父のお城自慢を聞いて育っていることもあって熊本城は別格。)、熊本震災もしっかり記憶しているし、震災後に観光客が入ることができるようになってから熊本城を訪れて、修復されつつあるとはいえその惨状に胸を痛めた記憶はある。そしてその他にも震災は起きていることは重々理解している。

ただし、記憶に強く残っているのは、2011年3月11日の東日本大震災と、1995年1月17日の阪神淡路大震災だ。順序が入れ替わるが、まずは1月17日の方から覚えていることを書いておこう。

〇阪神淡路大震災
1月17日は大阪・阪南市の家にいた。
午前5時46分の震災発生当時、ぐらぐらっという地震ではなく、ゆわんとした感じの嫌な揺れをベッドで感じた。揺れは体感としてはこれまで経験したことがない程度に長く感じた。

今はそういうことを言う人はいなくなっていると思うけれど、阪神淡路大震災の前は、地震は東日本で起きるもの、阪神地域の岩盤はしっかりしているから大きな地震は起きないといったことが言われていた。私がはっきりとした地震を感じたのは、東京で受けていた大学受験の試験中で、私が「えっ、地震?」と思って顔を上げたところ、試験監督と目は合ったものの、試験会場の他の人たちは何も無かったように答案に向き合っていたので、試験疲れでめまいでも起きたのだろうかと思った。その日の夕刻にその時の揺れが地震であることを告げるニュースがお天気情報レベルの比重でさらっと流れ、関東は、「関東大震災」っていうぐらいだから、地震が多く起きて皆慣れっこになっているんだなと思った。その後の東京での大学生活でも何度か中程度の揺れを感じることがあったので、あまり大きくない地震には慣れて大阪に戻った。そういう経験から、ベッドと本棚は距離を開けて設置していた。

本棚の本がばたばたばたっと倒れていく音がして、この揺れって大きいなと感じつつ、置いてある家具や物の関係ではベッドの周囲はとりあえず安全なのでベッドでじっとしつつ、もう少し明るくなったら状況が報道されるだろうが、未だとまだわからないだろうなとも思った。そして割合豪胆なのか、そのまま二度寝をしていた。

他方、その時に家にいた母と弟は飛び起きて、そのまま1階のリビングのテレビをつけて報道を見ていたらしい。断片的に伝えられる震災状況の中で、生田神社の倒壊映像が映り、これまで体験したことがないような大規模な地震なのだと悟り、そしてその時もまだ2階で寝ていた私を母が叩き起こしに来たのだった。睡眠は私の中では何よりも優先されるのだけれど。

すぐに当時は山口に単身赴任していた父に電話をしたが、その段階では震災のことを知らなかった父は、「何を馬鹿なことを言ってやがる」と言う感じで母からの電話を切り、そしてその後状況をようやく理解してこちらに電話を掛け直したそうだが、その時には電話が大規模に不通になっていたらしい。どのくらい後かはわからないが、ようやく電話が通じた時に、「こちらが心配しているのになぜ電話に出ないんだ、そもそも何で電話がつながらないんだ」とイライラを母にぶつけたらしいが、だから震災後すぐに電話したよね、その後の不通はこちらが電話を切ったわけではなくて震災に伴うトラブルだっていうことぐらいわかるよね、と思ったりした。

大阪でも母方の実家の豊中あたりは泉州地域よりも揺れが大きかったらしいし、後日、そう言えば年末位から揺れがあって気持ち悪いなと思っていたというような話を伯母か従妹から聞いたような気がする。親戚の中では明石の家の壁にひびが入って大変だったという話を聞いたが、大阪に住んでいる親戚は我が家も含めて怪我や建物に深刻な被害を受けることはなかった。

阪神淡路大震災は、近畿エリアで発展している神戸、芦屋、西宮や尼崎などの大阪人にとってはなじみのある場所で大きな被害があったが、大阪中心部や東大阪、泉州といった地域ではそれほど被害がなかったため、震災地とそうではない地域での非日常・日常の差みたいなものがはっきりしていて、白昼夢を見ているような違和感を覚えることがあった。

お世話になる大学の建物は震災の被害がそこそこ大きかった。この後に棚の転倒防止装置が付けられるようになることもあって、棚が倒れ、本がそこら中に落ちて、研究室の中に入れないところが出たり、あるいはガス管にダメージが生じた研究室もあったと聞いた。

入学許可は出ていたものの、まだそこの学生になる前ではあったが、研究室の片付けの手伝いをお願いされたので向かったところ、おそらくは神経質になっていたのだろう、既に何度か研究会などで訪れた時には見かけなかった、建物の入り口に守衛さんがいて、お辞儀をして中に入ろうとした私は無礼者ないしは不審者として罵声に近い叱責を受けたことは今でも癒えない傷のように鮮明に覚えている。学生証などの「身分証を見せないなんて、貴様はどこの大学の出身や!」と言われ、頭に血が上っている人を刺激するのは悪手なのでひたすら謝ったが、内心は「多分、あなたの出た大学よりは偏差値は上だと思いますが、そういうことを確認したいわけじゃないよな」などと思っていた。その程度に図太いところは若い頃からあった。

その時、私に声をかけてきて叱責されている私をかばってくれたのは、私に手伝いを頼んだ教員の指導教員である名誉教授だったが、その人も身分証を示さずにすっと中に入ってきたにもかかわらず守衛さんはなおも私だけを叱責するので、「職務を全うするなら後ろにいる御大にも身分証の提示を求めるか、私と同じように叱責しろ」と思ったりもした。20代は本当に生意気盛りだと今になって思う。入学予定者に手伝いを依頼したことを守衛さんにひとこと伝えることを失念していた教員にも非はあったのかもしれない。また、人はマイナスの感情をその場で一番弱い人にぶつけたがるものなので、たまたま私が運悪く犠牲になったのかもしれない。お役に立ちたいという気持ちがどんどん萎えてしまって、それでもここまで来たからやるか、という感じで床に散らばった書籍などの整理を手伝ったことを覚えている。

また、当時は震災時などのボランティアが普及していなかったが、そのような中でボーイスカウト・ガールスカウトの団体は日ごろから自衛隊などと協力関係にあったことを背景に民間としてはいちはやく組織的に支援活動を開始していたと思う。伯母と従妹が長い間(既に80歳近い伯母はさすがに後任にほとんど任せてはいるが現時点でも完全には引退していない)ガールスカウト活動に携わっていたこともあって、被災者への入浴サービスや支援物資の配布などのボランティアをしていた。

おそらくは2月か3月の頃だろうか、伯母と従妹が阪南の家まで顔を見せに車でやってきて、近況確認をした後に、私が明日・明後日と特に用事がないことを知るとそのまま母と私を車に乗せて豊中に戻り、その翌日に被災支援ボランティアに連れていったことがある。

ほとんどその日だけの単発ボランティアなので、自衛隊が準備してくれたお風呂の入浴案内に向かったのは何度もそこでボランティアをしていた従妹で、母と私は体育館のようなところに積み上げられた支援物資(衣料が中心だった)らしきものの仕分けと支援物資を受取に来た人の対応のアシスタント(メインで対応する人はある程度の期間そこでボランティアをしている人)、支援物資をを手伝うことになった。震災から日が経過しているにもかかわらず、がれき処理などが行われているためか、鼻の穴がすぐに黒くなったことを覚えている。

また、さすがに震災などの自然災害に慣れざるを得ない日本に住むものとして、そのような時に支援物資と称してごみ処理をしようとする人は減ったと思うが、この時は、「ボロでもないよりはマシでしょ」と思っているんだろうなというような、人の尊厳にかかわってくるような酷い状況の中古服を送りつける人は多かった。新品かあるいはそれを着るひとが惨めな思いをしない程度に使用感のない清潔なもの、そして何よりも何が必要かをとりまとめる人が被災者側にいないと現場が混乱するのだろうなと思った。今回もロジスティクスが不十分だという報道を見たが、各自治体および住民かボランティアの中にそのあたりの専門家ないしは責任をもって対処できる人が必要なのだろうなと思った。

対応アシスタントにいっていた母は、休憩時間に「都会の人だから何かしらないけれど、物を貰いにきているのに、あれはダメこれは嫌とわがままやわ。だったら貰いにこなければいいのに。」などと大いに愚痴をこぼしていたが、何というか、ボランティアをしたことで被災地の人から拝み倒されるような感謝を受けることはなかなかないだろうし、着の身着のままで逃げ出したので服は必要だけれどもこういう時だからといって見苦しい格好はしたくないという気持ちもわからないでもないし、また被災地の人から見れば被災していないからボランティアに来ることができる人に対しては何かしらモヤモヤしたものを感じて、辛辣な言葉を投げかけたり、横柄な態度をすることもあるだろうなと、後からはそう思う。

ただ、いきなり伯母・従妹に連れていかれて、その連れていかれた場所でそれなりに真面目に作業をやっていて、感謝は別にされなくてもいいけれども、あなたの召使じゃないのであなたの思うようなサービスは提供できないし、そのあたりお互いに妥協点を見つけることができたらなと思った。

まだ冷え冷えとした体育館のような場所、段ボールや段ボールから出された衣料品の山、ぴりぴりした被災者たち、そういう断片的な記憶が今も残っている。私は単発ボランティアだけだったが、それを週に数回、かなり長い間行っていた伯母と従妹、特に伯母は、身内からは「家のことをほっぽり出して他人の世話ばかりやいて」と非難されていたが、身の周りの世話が必要な祖父やいつも片付いていない(しかも無駄に広い)家を知っているだけに100%伯母をかばうことはできないけれど、でもあの気配りと行動力はすごいと思う。

あと、がれきとなった神戸といえば、その後、多分神戸大学で学会があった時、震災から1年あるいは数年は経過していた頃、震災で全壊した教会一帯はまだ焼野原という状態で、震災後間もない頃に感じた非日常と日常がまじりあい白昼夢感みたいなものを再度感じた。今はもう再建が終わっているけれども、山に向かって手前が焼野原、向こうは無事という日常生活の断絶みたいなものは忘れることはできないだろう。

〇東日本大震災
2011年3月11日には三重で仕事をしていた。
午後、あ、揺れたなと感じてその場で揺れが収まるまで待った。
震源地は三重から離れていたが、これは大きな地震(がどこかで起きたな)とわかる程度の揺れだった。

この時はtwitter(現X)が状況把握面で役に立った。

パソコン画面でニュース速報を確認しながらtwitterに投稿される震災情報、東北の知人との連絡などを行った。

地震直後は大きいだろうということはわかっても、津波や原子力発電所の事故、関東方面への影響などは予想しなかった。

新幹線や電車が止まり、帰宅できない人が多数出た。その中に用事で東京にいっている知人も複数いて、彼等にどこだったら休憩できそうか、簡易な食糧や毛布を入手できそうかということをtwitterやメールでやりとりした。

阪神淡路大震災の記憶が薄れ、ホイッスル程度は鞄につけていても防災グッズを日常的に持ち運びすることまでは考えていなかったし、自宅に帰ることが困難になることも想像していなかった。また、公共機関や施設はそういう人への対応も防災対策として必要なのだということを知った。

また、トラウマケアの重要性は阪神大震災以後認識されるようになっていたし、性被害の場合は珍しくはないが被害を受けてかなり時間が経過してからようやく人に伝えられるようになる人が少なくないことから、当時はガセも含まれる噂程度だった震災後(自然災害後)の混乱などに乗じた性被害も既に嘘ではなく実際にあったこととして私たちは知るようになった。さらに被災後の避難所の運営においてその意思決定機関に女性がある程度存在しないと避難所において男女差別や性被害を防止することができないことも、被害発生から72時間以内の救助が重要であることも、被災地に送るもので先方に迷惑をかけてはいけないことも、いろいろなことを震災が起きるたびに好むと好まざるとに関わらず学んでいる。

ここまで震災が発生する日本において、日本と日本に住む人の安全を守るためには防災面での充実や、被害リスクを減らす(原子力発電所の再稼働を断念することなど)こと、そして被災者への手厚い支援が重要であることは明らかだと思う。困っている時、国がきちんと助けてくれるかどうかは、被災地以外の人もじっと見ていて、国は国民や住民を本気で助ける気があるのかどうか判断している。その点で、今回の震災については、過去の棄民世代(私は団塊ジュニアなので、いわゆる棄民世代)同様に、切り捨てようとしているのかと思わせる様な対応をしていて、報道の度に気が滅入るし義憤を感じる。

勿論、三重県は南海トラフの関係で大地震が起きる可能性が高いと長年言われているので、震災時の対応を家族と話し合ったり、防災グッズや備蓄品の見直しもしようと思っている。ただし、備蓄品はローリングストックを意識しているので1週間程度の食料と水の備蓄はあるようだが、防災グッズの見直しまだやっていないところに自分のダメさがある。この機会に子ども自身に防災ポーチに入れるものを考えてもらおうと思っている。その際にはこちらにも防災ポーチなどについて記事をまとめることができればと思う。

そしてまた、まずは義援金や被災者支援に向かっている実績のあるNPO団体への寄付を少しばかりとはいえ行っている。被害に遭われた方の苦境が少しでも早く、少しでもマシになりますように祈っている。