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#15 こんなことがあった(五右衛門風呂)

 母方の祖父母の家(豊中)には、昔、五右衛門風呂があった。

2022年に完全閉館した千里セルシーは、私が幼い頃に母が連れ歩いていた場所らしい。この千里セルシーが建設されたのが1970年で、それ以降千里中央エリアは開発が進められていったが、それ以前は何もない山、だったらしい。

母方の祖父母の家は豊中市の永楽荘という場所にあった。今も伯父夫婦が住んでいる。代替わりの際に土地が小分けにされて、もともと一軒だった家が今は3軒ないし4軒になっているのでかつての趣きはないが、かつては「門から家の玄関が見えるのは(小さい家で)はしたない」といった感じの御屋敷が多い地域だった。門から勾配のある石畳などを通って、あるいは上った先に玄関があるというスタイルの丘陵地を利用した家が何軒もあってゆったりとしていたので、散歩をしていて楽しい場所だった。

祖父母の家は私が小学生の頃に建て替えられたが、その前、つまり母たちが育った家には五右衛門風呂があった。

弟と一緒に預けられたので、あれは私が小学校にあがる前、ただし札幌か福岡かどちらに住んでいた時の頃かはわからない。時代的には1970年代前半。

父の勤務先で社員旅行としてハワイ旅行の企画があった。
海外旅行がまだ一般化していない時代のことだ。

多少会社が補助するとはいえ旅行代金はそこそこ高額だっただろう。
また、金遣いが荒い父だったので、そのための蓄えみたいなものは無かっただろう。

そういう状況において、しかし参加することが一種のステータスであっただろうから、おそらく母はその母(祖母)に相談し、祖母は「仕事で出世することこそが男の人生」みたいな考えの持ち主だったので、参加することを勧めたのだろう。祖母は口はだすけれども金も出すという感じでそれ以降も母に援助をしていたので、そこから考えるとこの時も多少は援助をしただろう。そして海外旅行中の私たち子どもの世話を了承したのではないかと思っている。

両親とも子どもに対して言葉を尽くして説明するタイプではなかったので、子どもとしてはいきなり親の実家に連れてこられて、そして「しばらく」とは言うものの、もしかしたらこのままずっとここにいるのかもしれない。親に捨てられたのかもしれない、と思いつつ、母方実家での滞在が始まった。

その時の祖父母の家は立替前なので、なんだか古くて怖いイメージがあったような気がする。二段ベッドの下段を使わせてもらったが(その時弟がどこで寝ていたかは覚えていない。一人で寝ることができない年齢だったので世話焼きの伯母と一緒に寝ていたのだと思う。)、上段を使っていた従兄から、「壁にくっつかない方がいい」と注意を受けており、実際、ムカデが壁をゆっくり移動する様子を見てしまって、「壁際、危険!」の印象を強く持った。また、気管支が弱かったので夜にせき込むことがあったが、「せき、うるさい。」と従兄に言われて、うるさいと言われても自分で自由に止められるものではないし、ひどいことを言うなと思った記憶がある。

この他、当時は伯母にまだ娘さんが生まれていなかったので、女の子が好きな伯母は私を大歓迎してくれたが(もともと北海道に引っ越す前の私の実質的な育て親は伯母)、食事に対してお礼をいうと、「あんたはうちの子やからお礼はいわんでいい、〇〇君(弟)は△△(父)のところの子だからお礼はちゃんといわないとダメだよ」と、冗談とはわかっていながらも、姉弟を引き裂くようなことを言われて地味に傷ついたことも覚えている。

話が脱線したが、この時の祖父母の家には五右衛門風呂があった。

多分母屋とは別の建物だったような気がする。
祖母が私と弟をお風呂に入れてくれていたのだが、社宅は団地形式なので五右衛門風呂はまったく未知の存在であり、「どうやって入るんだ?そもそもこれってお風呂なのか?」とかなりカルチャーショックを受けた記憶がある。

五右衛門風呂は、蓋にしている丸い木を底に沈め、その上に足を置く感じで湯舟に入る。鉄鍋を大きくしたようなものなので、底に沈めた木に上手く足を乗せないと、つまりは風呂の地肌に触れてしまうと熱くて飛び上がることになる。祖母が先に木の上に乗って動かない様にしてくれているとはいえ、お風呂に入るのが躊躇われる程度に五右衛門風呂は子どもにとっては少々難易度が高いお風呂だった。

また、祖母は電話交換手として働いていた時分にバスから降りたそのバスに足を牽かれるという事故に遭っており、どちらの足かは忘れたが、片方の親指を切断していた。普段はまったく意識しないものの、お風呂だけあってその痛々しい体を目にすることも、五右衛門風呂に入る怖さを強めていたような気がする。

祖父母の家に預けられた、おそらくは1週間から10日程度の日々は、親に捨てられたかもしれないという不安、親に捨てられたので冗談とはいえ理不尽な扱いを受けている弟とどうにかここで生きていかなければならないのかもしれないという不安、古い木造建築なのでここそこで目にする虫や小動物(トカゲとか蛇とか)の恐怖、そして五右衛門風呂に入る不安が相まって、あまり良い思い出として記憶されていない。

日ごろ頻繁に行き来をしていない、しかも当時の感覚としては嫁として他家にやった娘の子ども(外孫?)なので、身内とは言えない子ども二人を世話してくれた祖母や伯母たちには申し訳ないとは思っているが、建て替え前の祖父母の家は五右衛門風呂の記憶と相まって、怖いところだったという印象が強い。

その後、ハワイ旅行から帰ってきた親に無事に引き取られたわけではあるが、それに付随する記憶として、海外旅行のお土産(多分免税品のウイスキーやマカデミアナッツの大味なチョコレート)を祖父母に渡して楽しそうに土産話をする父、そして疲れたーと伯母に甘える母を遠巻きに眺めていて、自分たちに声をかけてくれるのはいつなのか、祖父母の家に預けられていた日々について尋ねてくれるのはいつなのか、そのようなことを思っていた記憶がある。大人同士の話の邪魔をするとあとできつく叱られるのでこちらに目を転じてくれるまではただただ待つしかないので待っていたが、両親とも子どもに対するデリカシーがないというか、子どもへの配慮が欠けていることは、幼少期には既になんとなくわかっていた。

そういえば、その後もハワイのスーパーの大きかったこと、ムームーを買ってもらって写真を撮ってもらったことなどの話は何度も聞かされたが、私たちへのハワイ土産というのはあったのだろうか。何だったのだろうか。