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生まれて初めて似顔絵を描いてもらう、その葛藤と両親への随想

「形から入ってちっとも長続きせん」っていうのは、よく母が父に言っていた言葉だ。

父は例えば、料理を始めると言っては、調理器具やスパイスを買い揃えるものの、ちっとも料理を作らないのである。

また、例えば、弓道を始めるといって、いきなりウン十万する弓やら道着を揃えるものの、一ヶ月で辞めてしまうのである。

冒頭の言葉を聞くたびに、「形から入るって悪いことなんだ」と子どもながら認識していた。

お金を出すんなら、確実に何かを得られるものにするべき。
続くかも分からない趣味に、お金を出すのは馬鹿らしい。

子ども心に倹約を誓った在りし日の自分。

今の自分はnoteを始めて、まだ一月にも満たない。

ただ、書いている人の顔をアイコンにしたほうが、読む人にとってはイメージがしやすいということを他の記事で読んだ。

素顔を晒す度胸もないので、クラウドソーシングで自分の似顔絵を描いてもらい、アイコンにしようと思った。

そこで、浮かんだのが冒頭の母の言葉である。


発注すべきか、やめるべきか、それが問題だ


似顔絵の代金は2,000円にも満たない。
だが、問題は金額の多寡ではないのである。

「形から入ったらダメなんだろうか?」

「形から入るの反対は何だろう?」と思って、ネット検索してみると、知恵袋でそれは「理屈から知る」だと教えてくれる聡明な人がいた。

なるほど、確かに「理屈から知る」ほうが、堅実な感じがする。

しかし、「形から入る」ことも時には重要で、茶の湯は形を真似るうちに、ふと作法の意味に気づき、えもいわれぬ感動をするんだとか。

・noteの発信が継続できると確信がないまま、投資してもいいのか?
・そもそも、数多の情報の中から自分の発信が脚光を浴びる根拠は?
・優れた発信が既にたくさんあるのに、あえて自分がやる意味は?
・そもそも無駄な努力ではないか?

人の脳は挑戦をしない理由を考えるのがとても上手だ。

やめる理由を考えている自分に気づいたので、ここはあえてやってみることにした。

見知らぬ人に自分の写真を送り、似顔絵を描いてもらう。
それはそれで、期待と照れが入り混じった貴重な体験となった。

ふと母の顔を思い出しながら、完成した自分の似顔絵をアップロードした初夏の朝。

たかだか、似顔絵1つアップするのに、この騒ぎ?だが、noteデビュー1ヶ月未満のいま私にできる小さな一歩だ。

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