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鳥の影

 子供の頃、爺様と山菜取りに山に入った。その年は、梅雨明けが早く暑い日が続いていた。山菜の収穫は芳しくなかった。
 奥へ奥へと分け入っていくことになった。
 爺様は、離れるなと何度も言った。もし迷子になったら動き回らずその場で大声を上げろ大抵近くにいる、樹の陰で見えないだけだと。
 しばらく歩き回った後、疲れて足がもつれ転んだ。帰りたいと何度も思った。そして爺様の姿を見失った。しまったと思った。言われていたように動き回らず、大声を出そうとしたとき「昼飯にしよう」とすぐ後ろで爺様が言った。
 私は、随分ひどい汗をかいていた。そこから少し見晴らしのいい場所に移動して腰を下ろし持参した弁当を広げた。
「しっかり食べろ」と爺様はいったが、爺様自身はおにぎりを一つ残し、お茶も余り口にしなかった。
 その場所は木陰で、その日は天気も良かった。それでも何だか気持ちがざわついた。
「ゆっくり休んだら今日は帰るぞ、山菜取りはまた出直しだ」と爺様はいった。
 爺様は余りしゃべらなかった、そういうときは私がひとりで喋り捲るのだが、その日はそんな元気もなかった。
 爺様と二人で並んで座り、天気の良い山の中でぼんやりとしていた。爺様も座って見晴らしの良い先の方を眺めていた。
 爺様の視線の先には、カラスがいた。カラスが何羽も飛び回っていた。黒い鳥は不吉だ。何となく胸がざわついたのはカラスを見るとるもなしに見ていたためかと思った。
 汗も引き、風が気持ちよく流れていた。
「気合いで、あのカラスを退治してみろ」爺様がぽつりと言った。
「了解しました」と、少しおどけて爺様に敬礼をしてから「やぁー」と大きな声を出してみた。
 カラスは素知らぬ顔で飛び回っていた。
 爺様は笑って、それは気合いじゃないなといった。爺様はゆっくりと立ち上り、すーと息を吸い込んだ後「はぁっ!」と聞いたこともない大きな声を出した。
 カラスはピタリと止まったような気がしたが、次の瞬間には相変わらず素知らぬ顔で飛び廻っているようだった。
 私は思わず笑顔になった。爺様も笑って「よし帰るぞ」と言って山を下りることになった。
 山でカラスを見たのはそれきりだった。二度目に見たのは十年以上も後の話だ。そのときは一人で山に入り道に迷った。
 足首までしっかり固定する登山靴を履き、ブッシュハットと片手のストックという形がお気に入りのスタイルだった。ストックは、蜘蛛の巣を払ったり歩くリズムをとるのに重宝した。
 茂みを抜けた所で、子熊二頭に出くわした。その距離5メートル。出会い頭で熊も完全にパニクっている様子ながらこちらも「おっ」と声が出た。すぐに手前の熊が後ろに逃げようとして、後ろの熊にぶつかり、あろうことか向きを変えこちらに突進してくること距離3メートル。手にしていたストックで鼻先の枝をパシッと叩くと向きを変えて逃走。ほんの五秒足らずの熊との遭遇になった。
 小さな子熊なので驚きはしたが恐怖感に繋がることはなかった。それでも子熊はフゴフゴと鼻息も荒くそれは野生の獣だった。近くに親熊がいる可能性も高く、ベアベルをつけ直した。用心に越したことはない。そう思って歩いていると道に迷っていた。いつもの山道のはずだった。
 装備も食料も持っていたので、慌てることはなかった。ただ、何となく嫌な雰囲気ではあった。天気も良かった。よく知った道のはずだった。
 前にも一度似たような経験があるような気がして記憶を探っていると、視線の先にカラスが見えた。爺様のことを思い出した。あのときに状況がよく似ていた。やはりカラスが飛び回っていた。
 あの下には、何か獣の死骸があるのだろうと思われた。匂いが届く距離ではない。
「はっ!」と一つ気合いを入れて、その場を離れることにした。

 更に十年が経った。結婚をして子供も生まれた。まだ幼い息子を連れて、山菜取りに入った。
 子供の前で、いいところを見せようと思っていた。山菜は豊作だった。得意になり、夢中になった。そして道に迷った。
 お弁当以外には、大した装備も持たずに来ていた。念のためポケットティシュほどの大きさのエマージェンシーブランケットだけは1枚持ってきていた。極薄でポリエステルのフィルムにアルミニウムを蒸着したもので防寒、防水効果があり広げるとシングルサイズの毛布ぐらいの大きさに広がる。いざという時はこれで子供をくるんで抱いていれば、一晩ぐらいはどうにでもなる。そうは思ってみたが、不安はあった。私に何かあれば、息子も助からないかもしれない。日も高くまだ切羽詰まった状況ではなかったが、最悪を考えるとそれは確かに死の影だった。
 子供は敏感だ、不安にさせてはいけない。努めて冷静に、少し早いが弁当を食べてから帰ろうと子供を座らせた。
 妻が用意してくれたお弁当を子供がほおばるのを見ていた。食料と水は残しておいた方が良いかと、自分の分は余り手を付けず用心することにした。
 息子は無邪気にしていた。並んで座り、気持ちの良い風に吹かれ、ぼんやりと、休んでいた。視線の先にカラスが飛んでいた。
 あのときの爺様を思い出した。あのとき爺様は何を考えていたのだろう。
 息子が、カラスに気が付いた。指をさして何かいい出した。
 カラスが舞う下には死が漂っている。
 気合いで吹き飛ばしてから、下山することにした。息子も真似をして「わぁー」と大きな声を出したが、気合いにはなっていなかった。可愛い声に思わず笑みが漏れた。
 直ぐに道は見つかったが、小さな子供を連れて山に入るには、不用心だったと反省した。何があるか分からない。何があっても対処できる装備は必要だった。

 それから、息子が小さい内は山へ連れて行くのを控えることにした。
 次の年はまた一人で山に入った。
 慎重に、道を確認しながら登りいつもの場所で腰を下ろして休憩をしていると、頭上でカラスが騒ぎ出した。
 数羽のカラスが尋常ではない声で鳴きながら飛び回っていた。よく見るとその中心に小鳥がいた。カラスにとっては獲物だった。
 ふと嫌なことに気が付いた。道に迷って黒い影を見たときはカラスの声は聞いていない。爺様のときも、一人のときも、そして息子を連れていたときも。
 カラスの獲物は獣とは限らないのではないか?
 黒い影は、本当にカラスだったのだろうか?
 何か薄ら寒い物に遭遇していたのではないかと悪寒が走った。

 爺様はなにか知っていたのだろうか?訊くすべはない。爺様はとうに鬼籍に入っていた。
 その後、山からは足が遠のいてしまった。

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