見出し画像

【遺す物語】第一話:談志さんの「痔」ならぬ「字」

 つい先日、noteの親切機能により、noteを始めてから1年が経過した事を知りました。しかし、そのこと自体に特別な感慨をもつことはありません。
 さわさりながら、僕を「noteに文章を遺す」という行動に至らしめる動機時間の経過と共に少しづつ変化してきたことだけは確かなようです。ついては、本稿もまた僕の心の中で起きた変化のひとつであると言えましょう。
 それでは、お時間の許す時にでもお付き合い賜れれば幸いです。


序:「遺す物語」について

 「遺す物語」の意味は、読んで字の如し「遺す物を語る」です。
 さしたる財産を持ち合わせているわけもない僕ですが、死ぬまで自分の傍に置いておこう、若しくは、息子たちに託そうと考えている物と、その後ろ側にある物語を、この「遺す物語」の中に刻んでいこうと思います。


第一話:談志の「痔」ならぬ「字」

 尾篭びろうな話が続くけれど、お許しを賜りたし。
 
 時は2016年12月。
 僕は、痔瘻じろうで入院した。
 もう早、冒頭から羞恥に身悶えしているのだけれど、この事実に触れない限りは、話が進まないのだから観念して書き記すことにする。
 
 僕と痔の付き合いは長い。
 故に、その時々に対処しながら上手に付き合ってきたのだが、いよいよもって臨界点を迎えたのである。それ即ち、若い時分の無茶と、中年になって以降の無理(震災と高齢者介護のWパンチ)が蓄積した結果でもあった。

額装のまま頂戴した。

 故郷の仙台に帰ってから、痔を患うと通っていた病院があった。
 今となっては差し障りもないだろうから名前を書くけれど、その病院の名は「菊田医院」といった。院長の菊田先生は、痔の名医として知られていたから、待合室は常に通勤列車の如き状態だった。だから、菊田先生にお世話になる時は、日長一日を費やす覚悟を要した。

 菊田先生が支持される理由は幾つかあるのだろうが、先生の治療や手術を受けてきた人間として明言できることは唯一つ。
 それは「患部へのタッチが優しい」ことである。
 (優しい人柄は勿論のこと、先生のインフォームドコンセントは素晴らしかった。そのお陰もあって、安心して根本治療をお任せできたのである。)

談志曰く「いいウンコを しようネ」「ケツの穴 大事だゾォー」

 現在、菊田医院が閉院したことから、別の専門医(痔だけではなく腸の診療も受けれる大きな専門医院)を頼り、予防を兼ねて定期的に診てもらっているのだけれど、菊田先生の「患部を労わるようなソフトタッチ」は未だに経験したことはない。
 特に、若い女性医師の乱暴なこと、乱暴なこと … 。
 初めて診てもらった時には、思わず「うぉ!」と声を上げてしまったくらいだ。恐らく彼女は、診療の回転を優先するあまり、肛門という出力部位を診療しているという認識が希薄になってしまったのだろう。
 まぁ、それは良しとしよう。小父さんの方で我慢すれば済む話だから。

好き嫌いによらず立川一門の本は読んだが、何処に紛れこんだことやら…

 余談が過ぎた。
 とにもかくにも、菊田先生の的確な手術と治療を受けた僕は、それから1年余り、経過観察を兼ねて同院へ足繁く通うことになった。

 その後、程なくして、菊田医院が別の医療法人に参画することになり、それと合わせて引っ越しをするという事実が告知された。
 少し前から、菊田先生のご様子に変化(疲労過多)を感じていた僕は、病院が閉鎖するわけではないことを知って安堵した。

 しかし、診療後に交わした世間話の中で、ご高齢の先生は「今後は手術をやらないことにしたんですよ。」と静かに語った。それを聞いた僕は、「それでは、痔の予備軍にとっては甚大な損失になりますね。」と答えるに止めたどどめた。それは、プロフェッショナルが自ら下した決断に対して、何ら影響を持たない空虚で無責任な励ましは無用であると感じたからだ。

裏板を外してびっくり!

 そして時は、菊田医院が引っ越しする直前に飛ぶ。
 経過観察のために病院を訪れた僕は、立川談志さんの手による色紙が入った額装二面を、菊田先生から頂戴した。
 それら二面の額は、長きに渡って待合室の一隅を彩ってきた談志さんと菊田先生の交流を表す素敵なメッセージでもあった。

 だから、身に余る光栄に思われたのだが、その一方で「僕が持っていて大丈夫なのか?」という不安が湧いてきた。しかし、「どうぞ持って行って下さいよ。」と目を細めながら話す先生の顔を見ていたら、持って帰るのが自然なことの様に思われ、素直な気持ちで受け取ることができた。

立川文志さんの寄席文字 絶妙な組み合わせ

 帰宅して直ぐに、額の内部を掃除をしようと裏板を外してみたら、なんと寄席文字が書かれた色紙が出てきた。落款の字面から、立川文志さん(2022年3月永眠)であることが分かった。 

 それと同時に、談志さんの筆による文字が半紙に書かれていることも判明した。文志さんの色紙と重なって見えたので勘違いしていたのだ。
 そこでふと思った。
 談志さんは「小屏風や掛軸といった表具に仕立てることも想定したからこそ、半紙に書いたのではあるまいか?」と。

字は表には出てこない人柄を映す。

 そんなことを想像しながら、僕は今の今までこの額装のまま飾ってきた。それは、菊田先生との邂逅の記憶をそのままにしておきたいという僕の情緒が大きく作用していたように思う。

 そして、自分の身の回りの整理をしていく時合じあいを迎えた今、この額装を息子たちに手渡す時が訪れたことを感じている。
 落語好きとして成長した息子たちなれば、親父の意をくんで掛軸にでも仕立ててくれるやもしれない。甘い期待は禁物なれど、ささやかな願いを込めて彼らに託すつもりだ。

追記

 幸いなことに、術後に痔を再発することはありませんでした。
 再発が多いとされる痔にあっては、稀有なことだと思います。
 それは、菊田先生の手術と治療の賜物であり、且つ僕自身がこの治療を通して自愛と養生を意識するようになったからだと捉えています。
 一方、菊田先生は仙台での医療活動に終止符を打ち、関東某県にある総合病院に請われ、肛門科で診療にあたっていると風の便りで聞きました。
 どうか菊田先生が健やかでありますように … 。
 今はそればかりを願っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?