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マンマのリチェッタのゆくえ


実家への里帰りよろしくヴェネツィアに通うこと25年あまり。
私にとって何より大事なのは、マンマ・ロージィと一緒に暮らすこと、
そして世にも幸せな味のマンマの料理を学ぶことでした。

マンマの料理には、生粋のヴェネツィア人としての心意気と家族のために
傾ける情熱のすべてが込められていました。年を経てマンマ自身も老境に
さしかかってくると、互いに一時でも長く一緒にいたいという思いは強くなっていき、ヴェネツィアにいる間はどんな約束よりマンマと過ごす時間が最優先でした。

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#家庭の味はマンマから娘へ

マンマ・ロージィの料理は私が初めて出会ったイタリアの家庭の味です。
最初そのあまりの旨さに驚き、さすがイタリアのマンマの底力は凄いものだと感激したものです。
が、それが類い稀なることだと知ったのはしばらく経ってからでした。
というのも、その後何年か通ううちに、当然ながら他の家庭に招かれる機会が増えると、「イタリアのマンマがみなマンマ・ロージィのようにうまい料理を作れるわけではない」という当たり前といえばそれまでのことがわかってきたのです。
もちろん、どの家の料理もそれぞれに工夫されており、その地方の伝統の味なので興味深くもあっておいしいのです。けれどもマンマの料理のように、一口食べて、思わずぴょんぴょん飛びはねたくなるくらい幸せになることはありませんでした。実はマンマ・ロージィは親類や友人、近隣の間でも特別な料理上手として一目置かれる存在だったのです。
つまりなんという幸運か、私たちは一番はじめから最高で最強のカードを
ひき当てていたのでした。

イタリアでは、(田舎の数世代同居の大家族などの例外はあるものの)その家庭のマンマの味、リチェッタ(レシピ)は、実の娘へと垂直に受け継がれていきます。嫁が姑から料理を習うことは滅多にありません。イタリア男がいつまでたってもマンマの味を恋しがる根拠もここにあります。
つまり、結婚すると男は(自分で料理しない限り)妻の実家から伝わる料理を食べ続けることになるわけで、できることなら週末くらいは実家に行き、
慣れ親しんだマンマの料理を味わいたいと思うようになるのです。
そして私たち日本人が想像する以上に、イタリアの男たちは料理や家事を
しない
のです。もちろん母親から料理を習うこともありません。
だから、子供が息子ばかりの家ではマンマのリチェッタはひき継がれず、
その味は行き止まりとなってしまいます。

子供は長男アドリアーノと次男のダニエレのふたり、我がマンマ・ロージィには娘がいませんでした。おそらくマンマ自身、料理を誰かに教えたのは私たち夫婦が初めてだったのではないかと思います。
いつだったか、ダニエレに「マンマから料理を習っているんだよ」と話すと、想定外のことを聞かされたというようにひどく驚かれてしまいました。それは、きっと家族の秘密を分け合うような意味合いに受け取られたの
かもしれません。



〈ヴェネツィアの家でのごくふつうの食卓〉
白アスパラガスと卵
バカラ・マンテカートとあさりのリゾット(私のメモがあるのがご愛敬)
シャコとスキエ(小海老)とロシア風サラダ
プロシュットとカストラウーレ(アーティチョークの若い蕾)

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マンマのリチェッタは家族の証し

「イタリアのマンマのリチェッタのゆくえ」について興味が湧き、ヴェネツィアでも実地で確認してみるようになりました。
マンマの長男の家に招かれて食事をした際、妻であるグラツィエッラが腕をふるってくれたのは、やはり実の母親から習った料理でした。
彼女はヴェネツィアにある漁師の島ブラーノ出身。手料理の数々は伝統的なリチェッタに、本やレストランの料理にヒントを得てひと工夫を加えた
見た目も美しい魚介料理でした。夫のアドリアーノも料理好きで、イタリア男にしては珍しくマメにキッチンに立つ方です。
手間のかかった凝った料理は初めて食べるものばかりで、どれも美味でしたが、いずれもマンマ・ロージィの味とは別のものでした。

アドリアーノ夫婦が(私たちが同居している)マンマの家へやってきて、
一緒に食事をすることもたびたびありました。
そんな時、マンマは前日あたりから細かく念入りに準備に取りかかるのが
常でした。バカラ・マンテカート(戻した干しタラのペースト)やカストラウーレ(アーティチョークの若い蕾)のオイル煮など、息子の好きな手間暇かかる伝統料理をこしらえ、食器やテーブルクロスも客用を用意します。
私たち3人の時より、数段フォーマルなテーブルセッティングであり、
もちろんテレビをつけっぱなしにすることなど絶対にありませんでした。
それは嫁であるグラツィエッラに気を遣い、また母親としての威厳を保つためだったのかもしれません。アドリアーノたちは私たちが慣れた様子で
マンマを手伝って立ちはたらくのを見て、いつも驚いていました。
日々の食卓を一緒に囲み、マンマからリチェッタを受け継ぐことは、家族の証しのようなものだったのです。

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〈マンマとアドリアーノ夫婦と一緒に:2013年撮影〉

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永遠なるマンマの味

まるで運命の糸に手繰り寄せられるように、大いなる料理人であるヴェネツィアのマンマに出会い、そのリチェッタを受け継ぐことになった幸運に
心から感謝しています。
マンマがこの世を去った今、そのパーソナルな味を再現できるのは、世界中でもう私しかいないという事実。ぽんと離れた飛び地のようなところに伝わることになるけれど、マンマのリチェッタはしっかり守らねばなりません。

イタリアにおいても、私と同じかそれ以降の世代では、家庭料理も効率的でより簡単なリチェッタに移り変わり、伝統的な料理はある種のノスタルジーとなりつつあります。
これはイタリアのみならずグローバルな傾向でしょう。日本の食の伝統も、同じく私の親の世代でひとつの終わりを迎えているようです。
いつも思うことですが、もし私が日本のどこかの郷土料理の達人と衝撃的な出会いをしていたら、同じように習おうとしたかもしれません。
ただ私の人生を変えたのは、ヴェネツィアのマンマ・ロージィだったということなのです。
遡ること約20年前の2000年、マンマの世代で何かが終わろうとしている、という危機感のような思いが私に本を書かせました。そして今、その思いはもう一度強く私を急き立てています。



デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。