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ライトノベルにおける「ぼっち」(with『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』感想)


1.10年代前半における「ぼっち系ラノベ」

今から10年前の2013年に出版された『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』は、ゼロ年代から10年代に一世を風靡したハルヒ以後の「(広義の)ぼっちモノ」ラノベについての考察を通して、(当時の)若者文化について理解を深めることを企図に書かれたものでした。

発売時(2013年)に購入

購入当時、僕は大学1年生でまだライトノベルを「現役で」読んでおり、特に高校や大学で友達がいなかったこともあって、「ぼっちモノ」のライトノベルをよく読んでいました。その文脈で購入したのだと思います。

2013年当時は、「ぼっちモノ」ラノベの覇権が、『僕は友達が少ない』(はがない)から『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』(俺ガイル)へと移りつつあり、よりリアルなぼっち描写が求められる時代の端緒だったと思います。「はがない」の二期アニメ、「俺ガイル」の一期アニメが放送され、「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」(ぼっちモノの漫画)もアニメ化されていました。

当時僕はそういったライトノベル作品やアニメを消費しながらも、一番のお気に入りの「ぼっち本」は入間人間の『ぼっちーズ』でした。大学を舞台にした本で、大学ぼっちたちが己の境遇を嘆きつつ、行動を起こしたり起こさなかったりしながら、自分の求めるものを手に入れようと藻掻く様が、当時の僕にはまぶしく、また心を震わせました。
入間人間が一人称視点で描く、「人生lifeに対する諦念を抱えながらも、それでも生活lifeを賛歌する」ぼっちたちの姿は今読んでも感動させられます(『660円の事情』とかもよかった。ぼっちものではないですが。)

名古屋の名城大学が舞台(入間人間の出身大学)
聖地巡礼で行ったこともあったが、大学に付属する「墓地」の広大さが印象的だった。

 俺たちは、常にメッセージを発信している。くだらない行動、奇をてらうような発言、自分だけの特別でしかない仕草。その中に真摯に、どうしても伝わって欲しいメッセージを込めている。それに気づいてくれなんて言われたって、他人は『無茶言うな』としか返せない。分かる、それは痛いほど分かる、けど。俺たちは、こういう伝え方しか選べない。
 そんなやり取りの中でもし親しい間柄の人間が生まれたなら。
 それこそ、奇跡のようなものなんだろう。

『ぼっちーズ』8776「朝と夜のオセロ」 pp.175-176
こういう文章は入間人間、うまい。


2.10年後の再読

僕自身ライトノベルを読まなくなって久しく時間が経ちましたし、おそらくライトノベルのトレンド自体も変化があったと思うので(「異世界転生系」の隆盛など)、「ぼっち系」ラノベに往時の勢いはないでしょう(多分)。そもそもyoutubeやtiktokなどの動画配信サービスが流行りの現代の若者は、「ラノベを知らない子供たち」なのかもしれないです。

『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』(瀬戸岡景太)の主な筋は、日本の戦後若者文化における「ポップなあり方」や、そうした主流的なポップに対する抵抗としての「オタクなあり方」とは区別される存在として、ライトノベルにおける「ぼっちなあり方」を捉えるということです。

いろいろ興味深い話がされていたので、列挙しておきます。

①ポップ→オタク→ぼっちという基本的な遷移をこの本は主張する。

ハルヒ以後に広まった、「オタクなぼっち女子(中二病:ベタ)に対して一定の距離をとりながら、ときにそれを羨望する元オタク現フツーな男子(高二病:メタ)」という構図(ハルヒに対するキョン)
→オタクに対する再帰的な(メタ的な)視点の誕生。オタクに(主流文化に対する抵抗という点で)共感しながら、オタクとは一線を画する「フツーな男の子」が主人公のラノベ

『涼宮ハルヒ』以後、多くのラノベは、「かつてのオタク/現在はフツー」という男子学生を語り手に起用すると同時に、「オタク嫌い」が「オタク好き」を憧れ半分自嘲半分に眺めやる、という一人称スタイルを採ることになる。

75項

②「オタクなぼっち女子とフツーな男子」な物語→むしろ「フツーな男子」こそがぼっちという物語へ

「二〇〇〇年代の後半からは、彼女たち〔オタクなぼっち女子〕を観察していた『フツーの男子』こそが『ぼっち』であり、彼らの奮闘を描くことを主眼においたラノベも多く書かれるようになった」
「彼らの存在が意味を持ち得るのは、唯一、彼らの「絶望」が、雪崎絵里や涼宮ハルヒらの見据えた『絶望』と質的に等しくなるか、あるいは、彼女たちの『絶望』を上回ったときでなければならない」

92項

『僕は友達が少ない』のラノベ史的意義
(小鷹の「えっ、なんだって」のヘタレさは、主人公としての「選択する=切り捨てる」役割を担うことがことが出来ないということ。その「絶望」

③「オタク」と「ぼっち」の違い

オタクとは本来「排他性」と「自己卑下」故の大衆蔑視(アンチポップ)によって特徴づけられるが、そのオタクが大衆化した際に、「ぼっち(個)」という存在にスポットライトが当たった。
→オタクとは違いぼっちは「欲望を同じくする同志を求めない」(p.36)。ただ『ぼっちであるということ』、その一点の事実のみを通じて友情を育む

④冷戦とラノベの関わり(p.105)

・オタク的な日本
「戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位〔影響依存〕を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望」(所有の〔自由の〕欲望、「好きなものは自分が決める」)

・ポストオタクのラノベ
アメリカの圧倒的優位を信じられない「現代」は、むしろパワーゲームがすべてであった冷戦期の世界へと、そのイメージが変容されている
(主人公たりえない男子の「分割統治」)

「冷戦当時のアメリカとソ連だって…相手が折れて諦めて、自分たちと同じ考えを持つ仲間になってくれたらそれに越したことはないと望んでいた。…『戦争と恋愛は何でもアリ。どんな手段でも正当化される』と。確かに戦争と恋愛は似ている」

pp.106-107、『しゅらばら!』からの引用

⇒ということは、オタクとは冷戦終結~9.11までの束の間の「歴史の終わり」によって登場が準備された過渡的存在ということなのかもしれない。オタクがオタクたりえることが出来た期間は存外短かったのかも。

⑤物書き(小説/ラノベを書くこと)の意味:「労働か趣味か」(p.114-)

ラノベ作家の書くことに関する自己言及(「書くことについて書くこと」)、ノスタルジアとの関係

・村上春樹(ポップ文化の「生産」についての言及)
→高度資本主義社会における「雪かき」としての物書き(労働としての物書き)。ポップなものが「ポップそのもの」として消費される。

「『書くというほどのことじゃないですね』と僕は言った。『穴を埋めるための文章を提供しているだけのことです。何でもいいんです。字が書いてあればいいんです。でも誰かが書かなくてはならない。で、僕が書いているんです。雪かきと同じです。文化的雪かき』」

p.120 『ダンス・ダンス・ダンス』(村上春樹)からの引用

→ただ目の前のことをこなしているだけ。そこに大義も欲望もない。
→「作家とは『職業』であり、物語を紡ぎ出す生産者であり、ポップな感覚を提供するサービス業者であり、『物書き』という労働者である」という自負(p.125)



・ラノベ作家(ポップの力が弱体化した時代の作家。バブル崩壊以後、労働は「ポップであれ」という呪縛から解き放たれている)
→労働から切り離された「学生」という存在に自らの創作姿勢を仮託する(作家の労働性を否定するパフォーマンス)
→オタクやニート、引きこもりといった「完全な逃避(ドロップアウト)」との親和性を感じながらも、そうではない「日常」を生きようとする
(例)
・西尾維新の『100パーセント趣味で書かれた小説です』「労働だったらこんなに働かない」(p.127)

・『はがない』(平坂読)「そんな趣味全開の小説ですが、できれば自分以外の人にも面白がって貰えれば幸いです。」(p.129)

・『俺ガイル』(渡航)
「俺はなんで/どうして/何故働いているんだろう」(p.132)
→「学生時代(労働のない世界)」を描くことの意味。「働く作家自身のノスタルジア/ノストフォビア」
→ラノベの主人公(高二病的ぼっち)にとっての黒歴史(中二病的オタクとしての)は、ノストフォビアの対象であり忘れたい過去であると同時に、ノスタルジアとして慈しむことが出来るもの
→労働者になること(変化)が不可避であることを受け入れつつ、「過去としての現在(変化するであろう現在)」に対する郷愁を有し、揺らぎにとどまろうとする。

3.学生時代というノスタルジア/ノストフォビア

読んでいて本当に懐かしい気持ちになりました。僕の今の思考にもラノベが結構な影響を与えていることが分かりましたし。

やはりティーンエイジャーの頃に読んだ本は、その後の人生に影響を与えるようですね。



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