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「勉強はできるけど仕事はできない人」にとっての仕事のポリシー


1.仕事のポリシー

僕は「仕事ができる側の人間か」と聞かれれば、「圧倒的にできない側の人間です」と答えざるを得ない人間です。

まず他の人間とコミュニケーションを取りながら仕事を進めるのが苦痛で仕方ありません(協調性の問題)。というのは他者の意志を汲み取ったり、自分の意志を適切な形で伝えるのも億劫だからです(コミュニケーションの問題)。チームで仕事をするのは僕にははっきり言って困難極まります。
では一人仕事が得意かといえばそんなことはなく、作業効率は悪く、「困難を乗り越えてやろう」というような根性は皆無です。

唯一人より秀でているのは、「知識を習得することが得意(資格を取ったりするのが得意)」というインプットの能力ですが、残念ながらそれを実際の仕事に活かせた試しがありません。

「知的なインプットだけが得意で、現実でのアウトプットが苦手」な僕のような人間は、「勉強はできるけど仕事はできない人」として冷笑・罵倒の対象としてニュースになることもありますから、程度はさておき一定数確実に現代日本に存在しているのでしょう。

そういったタイプの人間は出世の見込みがないのはもちろんのこと、転職で市場価値を上げるのも難しいので、おとなしく自分にできる仕事を粛々とこなす以外に術なしなのですが、勉強はできるのでプライドが無駄に高く、なかなか自分の現状を受け入れらません(僕の自己紹介ですが。。。)

この種のかわいそうな人間の一部は、会社でトリックスター的な役回りを目指し、「仕事のポリシー」として例えば(僕の場合は)、以下のような標語を掲げます。

ネタにより「内部のコード」を瓦解させ、集団を〈外部〉への束の間の逃走へと誘う

y.t.

2.「ネタにより『内部のコード』を瓦解させ、集団を〈外部〉への束の間の逃走へと誘う」とはどういうことか

意味が分からないと思うので説明します。

1.ベタ・メタ・ネタ

まず最初の「ネタにより」の部分は、社会学の「ベタ/メタ/ネタ」の区分を念頭に置いています。これは、「人間が行動を行う際の3つの態度」を説明する理論だと僕は理解しています。

ベタな行動は没入的に行われます。
例えば、「出世を目指して会社の方針を迷うことなく受け入れ仕事を行う」のはベタな行動だと言えるでしょう。また、それとは逆に「会社の方針に反旗を翻し文句を言い続ける」というのもベタな行動です。
どちらも(「受け入れる/受け入れない」は違えど)状況に対して内在的である点は同じだからです。

それに対して、メタな行動は状況俯瞰的に行われます。
例えば部署内で派閥争いが激化しているときに、「部署内に派閥が存在していると、会社に対する従業員の不満の矛先が敵対派閥に向かって、経営層への不満が隠蔽されるな。植民地支配の原則は分割統治だから、あえて派閥争いを放置しているんだろう」という風に、一歩引いて物事を見るのがメタな態度です。
これは「状況を冷静に見ることができる」とポジティブに捉えることもできますが、ちゃんとベタに仕事の成果を上げていない人がこれをやると失笑されて終わりです。

ベタに仕事が出来ず、それ故にメタが許されない人間にはそれではどのような行動が残されているのか。ネタな行動が残されています。主にこの種の人間(仕事ができない人間)のネタな行動は、あえて面白いことをしているというよりは、ベタに頑張った結果なぜかネタになってしまうというような、「ベタを突き詰めた末のネタ」な行動です。
しかし彼らのネタな行動は、そもそもの「会社=まじめに働く場」と前提を揺るがし、会社の非会社性を顕現させるのです。

2.〈外部〉へ、新たな生の次元を垣間見るために

ネタな行動は集団で生活していく上での潤滑油になります。「笑いの絶えない職場」、「おふざけが許される心理的安全性の高い職場」の方が生産性が高そうなのは直感的にも分かります。その意味で、ネタな行動の意義は理解されそうです。

しかし、私がここで意図しているのネタな行動の意義はそれではありません。
むしろ、会社の内部のコードをずらし、新たなものの見方を提案することを期待しているのです(「『内部のコード』を瓦解させ、集団を〈外部〉への束の間の逃走へと誘う」)。

どんな集団でも、「望ましい/望ましくない」「価値がある/価値がない」「美しい/醜い」といった内部のコードが存在します。そういったコードに基づいて、集団のメンバーの行動は規定されており、内部のコードは当然視されています。
仕事ができない人間の「ベタを突き詰めた末のネタな行動」は、こうしたコードにあくまで内在的にコミットしながら、しかし、うまくできず滑稽な結果になってしまうことによって、むしろ内部のコードそれ自体の滑稽さを顕わにし、笑いものにしてしまう結果になるのです。
それは、その集団にとっての〈外部〉との出会いになり、コードの侵犯です。

自分をネタ的な存在にすることで、集団に新たなものの見方を教える」こと、これこそが仕事ができない私の、仕事ができないからこその、仕事のポリシーなのです。

3.資本主義の〈外部〉を目指して

現代社会全体を一つの集団として考えた場合に、その最も強力なコードは何かといえば「有用性=生産性=善」というコードでしょう。いわゆる資本主義を駆動している第一原理です。

ネタ的な行動によって僕が究極的に目指しているのは、こうした「有用性=生産性=善」の原理を破裂させること(たとえそれが束の間だったとしても)ことです。

正直それ以外にこの資本主義リアリズムを脱却する術はないと思います。

資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい

『資本主義リアリズム』 マーク・フィッシャー

つまり、勉強はできるが仕事ができない人間、換言すれば「履歴書は綺麗で面接突破・内定・雇用はされるが実質的な生産性がない人間」こそが、資本主義リアリズムを打破するためのキーファクターなのです。

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。。。。こんな風に自分を鼓舞して、日々を送っています







#仕事のポリシー

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