個性と常識

常識にとらわれると、個性を失う。SNS隆盛のこの時代、人目を気にせずに生きるということが非常に難しくなっている。少しでも変なことを発信すると他人からコメントがつき、「正常性」を取り戻させられる。他人との繋がりが多すぎ、近すぎる。個性を育むには、ときには1人でああでもないこうでもないと考え込んで、四苦八苦しながら自分なりの考えを立てて形にする必要がある。今は他人と近すぎるので、フィードバックが得やすすぎる。すぐに「正解」を求め、「間違えた」ことを述べるのを恐る時代。それは短期的に見れば世間にウケるものが生みやすい環境とも言えるけれども、そこには哲学がない。思慮深さがない。物語がない。他人の受け売りの言葉が並んでいては、面白みがない。本来的に、表現にはそもそも正解などない。強烈な個性は孤独や葛藤から生まれる。同じ人間はどこにも居ない。個性は一人一人が持っている。他人と比べることは個性を潰す。何かを作りたいとき、何かを生み出したいとき、何かを書きたいとき、何かを考えたいとき、SNSは毒でしかない。

皆、人生を走っているつもりだけど、「正解」を求めて皆と同じことをしている限りは、ルームランナーで走っているだけなのではないか。自分なりの正解を見つけて彷徨うことこそが人生で、それは孤独で苦しいものでありながら、発見と驚きと楽しみに満ちたものなのではないか。そう思う。

SNSが普及しておらず、まだ携帯電話すら多くの人は持っていなかった平成初期までの時代、今から思えば不便な時代だったのだろうと推測するが、その分、誰もが孤独で個性があり考えがあったのではないか。コメントに同調する必要もコメントに反感を覚える必要もなかった時代。人生を電車に例えるなら、そのレールの数は今よりもっと多かったんじゃないか。レールは自分で見つけるしかないし、それは地面にあるとも限らない。夕焼け空にかかる虹のように、宙に浮いているかもしれない。なんでもない台所を横切っているかもしれない。レールは縦横無尽に空間を埋め尽くしていたのではないか。

物理の成績が悪ければ常識に囚われず空を飛べるかもしれないし、算数が分からなければ型にはまらず耳から綺麗な砂をこぼすかもしれない。2001年に発表された、たまというバンドの「電車かもしれない」という曲を聞いて、現代の生きづらさに思いを馳せたのでした。昔イカ天という音楽番組で5回連続勝ち抜いてグランドチャンピオンになったバンドで、当時は社会現象にまでなったそうな。つい最近知り、関連する動画をたくさん見てすっかりハマっちゃいました。

たま「電車かもしれない」
https://youtu.be/rpzHb5clWkE?si=L2yqmspm5fDRwGUv

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