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相手の説明が理解できない

せっかく説明をしてもらっても
「どうしてその言い方になった?」
「回りくど過ぎる」
「自分ならもっと上手く伝えられるのに…」
「そもそも意味わかんない」
と思うことは、自分の人生で多々あった。恐らく多くの人が思うことと同じだと思う。

何故そんなふうに思ってしまうのか。
相手が悪いのか、自分が悪いのか。
どうすれば理解がスムーズになるのか。
それについて考えてみた記事。
なんかそれらしく纏めてますが出典があってきっちりした根拠のあるものではないのでご注意を。
あくまで経験とイメージから書いたものです。

理解力の2つのベクトル

人の持つ理解の能力には、A. 具体的な例を、出来れば複数必要とする感覚的な理解力(帰納法的なもの)のと、B. 抽象的かつ一般的な例を用いた数式的な理解力(演繹法的なもの)のベクトル(*1)がある。それぞれの能力が(A, B)=(1, 10)の人もいれば、(7, 7)の人もいて、残念ながら(1, 1)の人もいるだろうが、個々が持つ能力を使って私たちは世界を認識している。そしてそれらの能力が許す限り柔軟に頭を捻って、場合場合に応じて自分が使いやすい方だったり適切だったりする理解の仕方をしている。

それぞれについて解説していく。
因みに自分は多分感覚的な理解に寄ってる人なので、数式的な理解力は自分でできた範囲で書いてます。ご了承ください。

*1ベクトルについて
自分がイメージしていたものを伝えるためにちょっと面倒な言葉を使ってしまったことを反省しています。(
ベクトルとは「大きさと向きを持つ量」と言われる。「向き」を表す要素が(x, y)の値となり、原点からその座標に向かって伸びる矢印(→)をr =(x, y)のベクトル量のイメージとして書かれることが多い。因みにベクトルの大きさは三平方の定理を使って求める。(|r| = √x^2+y^2)(この式はxベクトルとyベクトルが直行しているとする場合。)
文字式でベクトル量であることを示すときその文字を太字にしたり、大きさを表すときにはベクトル量とわかる太字に絶対値を付けたりする。

感覚的な理解力

具体的な例を交えての説明に適応しているもの。
色々な具体例を挙げていき、「こういうことが起こりそうでしょ?」と理解を促す方法である。
「サッカーでゴール前での待ち伏せが流行ったら面白くないでしょ?実際ゴールにボールを入れるっていう観点からしたら強い作戦かもしれないけど。だからオフサイドってルールがあって…」「物体を自由落下させると落下するスピードがだんだん大きくなるでしょ?時間に対してスピードがだんだん大きくなるから落下距離は時間に対して急激に大きくなる。だから時間の2乗の項がでてくるんだよ。」みたいな感じだ。

上で少し書いたが帰納法的な方法で物事について納得して物事に対する理解を深めている、という言い方もできる。

多くの人はこっちの能力が優勢だと思う。

数式的な理解力

数式とは出来るだけ一般的に表記するために使われるものだが、そういった抽象的な道具を用いて証明された事実を理解する能力である。法則とかを新しく証明する際にはこれが必要。また、ややこしいデータを通して語られる結論が正しい物かを判断するのにも必要。一般的な言葉で書かれる法律や説明書、マニュアルなんかを実際に起こっている事と比べて使っていくのにも必要。
ある方程式があり、それを式変形して得られた結論を「なんでそんな法則になる?」とかの疑問を挟まずに「式が示している」として理解する力。

数学にて定義がいくつかあり、そこから定理を導いたりすることはよくあることだ。(*2)

*2定義と定理について
定義は「こういうことにしましょう」という、数学上のお約束。ここに文句をつけ始めると話が進まないので疑問を挟む余地はない。自明である、なんて言われたりする。
定理は定義をいくつか集めたり変形したり代入したりして作られる便利な公式。当然だが定義よりも圧倒的に数を作ることができる。
三角関数なんかでは覚えた方が便利な公式がずらずら出てくるが、元となっている定義は非常に少ないのが例。

定義は「自明である」なんて言われたりするのからもわかる通り、見た目的な意味合いから理解することもできるが、定理となるとそうもいかないものが多い。ただしそんな覚えにくい物でも態々「定理」として持ち上げられるのは、それを覚えておくと圧倒的に計算が早くなる場合が多くあるからである。つまり覚えられるならとても便利なわけだ。
数式的な理解力の高い人は、「三角関数の1 + tan^2θ = 1 / cos^2θ っていう式は、sin^2θ + cos^2θ = 1にtanθ = sinθ / cosθ っていう式を変形、代入して作られてるんだよね。」とか、「この辺の式を代入して整理していくと重さを表してたmが約分されて消えちゃうからこの現象は物体の重さに依存しないんだよね」くらいのふわふわとした根拠を元に理解を進めていく。

数式から物事を理解しようとすると中々具体的な例が出てこず、「式(データ)ではこう示されたよね」という結論しか言えない。感覚的な理解でここを埋めようとする場合、実際に数式に特殊な場合などを代入していくくらいしかないが、これが役に立たないことも多い。少なくともかなり運の良い閃きが必要だ。できる人はそんなことせずに「こういうもんでしょ」って理解しているように見えた。
つまり、その数式やデータで十分納得してそれを足掛かりにより深い内容を理解できるのが数式的な理解力のある人で、学問の深みにはまっていける人だ。

こちらの考えは演繹法的な理解をしている、ともいえる。論理の組み立てが非常に難しく、適当に作るとすぐ噓をついた式が完成してしまうが、この考えができる人が成功して発達させた分野があるというのも事実だ。特に数学を発達させたすごい人達(変態)は明らかにこっちだと思う。

それぞれの能力と人物像

感覚的な理解力と数式的な理解力で2軸とり、それぞれが高い、低いで人物像を場合分けしてみた図を以下に載せる。多分こんな感じ。
それぞれの人にとっての理解の方法は異なり、相手に合った方法で説明する必要があるし、自分に合った教え方を引きださなければ理解するのは難しい。


理解力のベクトルと人柄について

傾向が極端でなければ個人的な憧れや周りの人の影響に基づいて他のグループの限りなく近くに移動することもある。
以下は各グループの解説。

A.普通の人

所謂普通の人。感覚的な理解に寄ってる人が多い印象がある。たとえ話と一般的な話を行ったり来たりしながら、勉強を進められる。多数派だから多分過ごしやすい。何かに行き詰った時には自分が今どっちの考え方をしているのかを整理してみると、突破口になるかもしれない。感覚的な理解をしたいなら具体例を集め、数式的に理解するしかなさそうなら諦めてそちらに挑もう。じゃあ数式的理解はどうやってとなるかもしれないが、使い込んでいくうちに数式は「当たり前」になっていく。物が1個ずつあった場合の合計の数が、1+1=2を当たり前と思えるのがその証拠。(これも物体を数字という抽象的な概念に変換しているので、その変換で躓く場合もあるそう)

欠点
多数派ゆえに自分たちと違う人を排斥しがち。他のグループにいる変わったやつは有能なことも多いので自分が楽をしたいならかかわり方を工夫すると良い。
また趣味趣向や努力によっていろいろなグループに混ざることができ、他のグループの欠点のところに書いてある内容に陥る人もいる。

B.実力のある社会的成功者

両方を兼ね備えている場合、本物の偉人になる可能性がある。一代で会社をすごい大きくしたとか、大統領に上り詰めたとか、そういうやつ。全ての人がそうなるわけではないだろうが。
数式的な理解力は他の人が気づいていない事実に気づくため、感覚的な理解力は他の人にそれを気づかせるために非常に便利だ。
両方持ちとはいえ数式的な理解の方が強ければ「なんかよく分かんないことも言うけど、その人の言う事聞いてたら成功できる人」って扱いになるし、感覚的な理解力の方が高ければ「周りの意見も含めて優れた意見をピックアップし、それの周知を徹底できる人」になるだろう。

欠点
圧倒的なカリスマで率いるので、老いてきた頃が問題。研究室の教授から「死んだ鳥症候群(*3)」という話を聞いたことがあるが、これに誰も気づけないのだ。ご老体が率いて暴走する国や組織があるように、そうなった場合でも信者の熱が冷めるまでそれなりの期間を要するだろう。その間にその人が育て上げたものはガラガラと音を立てて崩れていく。

*3死んだ鳥症候群
出典を調べてみたところ、福島伸一著『生物と無生物のあいだ』が元となっているようだ。引用元の文学的な要素をカットしてしまうと、「時を長くして学問、政治、社会貢献などへ向けられていた崇高な情熱は冷めて目的は別のもの(自身の偉大さの証明)にすり替わっているにもかかわらず、周りはそれに気づけずに付き従い褒め称える」みたいな感じだったはずだ。大学教授が陥る病として紹介されているが、こんな光景は色々なところで見られるのではないだろうか。

C.本質を突いてくる不思議ちゃん

「そうとも言えるけど普通そういう言い方しない」みたいな発言をする人たち。
授業をする先生によって成績が極端に変わるタイプ。イメージを共有してくれれば多くの事を理解できる。具体例が大事。イメージが無いと全然ダメ。数々の具体例やその共通点を見つけることで理解を深め、理解したことに関しては根本的な理解を持っていたりして人類的に新しい視点となる。
アーティストでたまにいる、実力のある不思議ちゃんになる可能性も秘めている。
発達障害と括られている人でここに当てはまる人絶対いると思う。

欠点
上にも書いたように、教え方によって理解が全然変わる。はずれを引くと勉強ができないと思われる。(数少ない)同類以外には教えるのも下手。
具体例をいっぱい集めてそれっぽい話をされると信じてしまうため、理不尽な目にあったときに妙なものを信じてしまったり危険な思想に走ったりしがち。「自分に不幸が訪れた理由」を探してしまうと危険信号。宗教とか、特殊詐欺とか、陰謀論とか、最近はそれっぽく情報を発信する側の技術も上がってきているので、こっちに偏ってると思う人は気を付けてほしい。

D.冷たいように見える有能

本質的なことは理解しているが、それ故にか「たとえ話」を殆ど使わない。本人たちの中で「Aなら(BじゃなくCでこの場合は前提としてEもあるから)F」みたいな公式が出来上がってるからか説明が端的。意味の確認のためにたとえ話を振ったら微妙な反応をするタイプ。「なんでそんな当たり前で限定的で役に立たない事並べてるの?」って思ってる多分。感覚で理解していく人にたとえ話は必須の作業だが、それが彼らには不要ゆえにやられると戸惑う。「相手がそれを求めている」と気づかない限り自分からはやらない。
仕事ぶりは頼りになるが何を考えているかが分かりにくかったりする。とはいえ基本優秀なので見かけたら頼ろう。反応は微妙でもウザがらみしない限りは聞けば答えてくれるイメージ。一般的な法則とかは大好物。
ここの人も極端だと発達障害に割り振られてることはあると思う。大勢の人に理解できないこともあるだろうし。

欠点
多少グレーな行動でもルールに従っているなら問題ない、と考えがち。なぜみんな自分と同じ方法で楽をしないのかな?みんな物好きだね?と思っていると思う。
とはいえその考えも間違いではないので、正当な理由をもって責任者がルールとして決めてしまうか(ルールに従うか抜けていくかするはずだ)、そこまで非道徳的でないなら自分もそのルールに乗っかるかが解決法になると思われる。

E.いい人orやばい人

まずはいい人、要するに処世術が上手い場合。
「あんまり話を理解しているわけではなさそうだけど話はしっかり聞き、失敗した時のリカバリーが上手くて禍根を残さない、結果的にムードメーカーな人」みたいな人がいるのではないだろうか。基本にこにこやってる人が多く、抜群に有能ではなくても非常に関わっていきやすい。こういった人たちによって、勘違いによる分裂は防がれる。(多分解決されるまでぎすぎすして大変ではあるが)
小賢しい人で集まるよりもこういう人が混ざっていた方が話が早く進むことは多々ある。
とはいえ純粋な悪意と下に書くやばい人には勝てない。

次はやばい人、ない能力を振るおうとした場合。
理解できていないことをさも理解できているかのように振舞う。間違っていてもそれを認められないので結果的に嘘を量産するタイプ。
自分を普通(又は優れている)と思うためかいつの間にか自分の嘘を信じ、「誰もわかってくれない!」となる。周りが大人で(?)スルーされまくって一人ではしゃいでるパターンも見たことある。
運が悪いと同じような仲間と出会い、手が付けられない集団まで成長する。

SNSを覗けば信じられないような界隈があるじゃん?そういう場所からはそっと離れよう。少なくとも私はいい接し方を知らない。

じゃあどう接すればいい

話が通じそうなら

人は説明をする際、できるだけ(自分のタイプにとって)理解しやすいようには話すが、それが相手にとっても理解しやすいとは限らない。自分は捻くれたとことに、(自分が分かっていることは当たり前すぎるため)自分がわからない方を必死に説明しようとしていたりするので一概には言い難いのかもしれないが。

そういうこともひっくるめてかなり単純な話にすると、具体例をどれくらい使うのが適切かだけ見極めれば良い。

普通の人同士だと具体例数個、その後に一般法則(+例外)みたいに話すのが良いが、不思議ちゃんに理解してもらおうと思えば擬音語をたっぷり使ってひたすらイメージを送り続けるのが早かったりする。
具体例がウザがられてそうであれば端的に一般法則(+例外)だけ教えて、それで間違いが起きなければその人にはそれで十分だということである。(なので自分が一般法則を語れるように理解しないとさっさと教えられない)

説明が意味をなさない場合

面倒なのがやばい人に当たった場合で、お勧めする対抗法は2つである。
①相手に去ってもらう
②自分が逃げる

すぐ思いつくがあまりうまくいかない方法というのが「心を入れ替えてもらう」というものだ。そういう人は大体猜疑心が大きくて疑うことが多く、「陰口を言われている」など思いがちである。「それ自分がやってるからそうお思いになるのでは」と思わずにはいられないが、相手がそう考えてやまないのだから仕方ない。大体の言葉はそういった分厚い猜疑心に阻まれて届かない。頑張ってみてもいいが、諦めることをお勧めする。

①相手に去ってもらう
その人が具体的な害を及ぼす行動に出た場合、証拠を押さえて権限のある人に報告しよう。こういう場合の告発は組織と自分の利害の一致したとても当たり前の行動である。健全な組織なら改善策が打ち出されるはずである。害がないならそれは自分のわがままなので我慢、というよりも受け流そう。「またなんか言ってやがる」と思っておけばいい。
②自分が逃げる
報告しても改善されなかった場合、自分が逃げよう。
類は友を呼ぶというがそういう人がいるところにはそういう人が集まってくる。そういった人種を許容する場所にはこれからも同類が入ってくる。これは恐らく自然の摂理である。
その場所は自分にふさわしくなくなるので、早めに逃げるのがお互いのためだろう。

結論

説明に用いる具体例の量を調節せよ
普通の人→具体例数個+一般法則(+例外)
不思議ちゃん→ひたすら具体例、擬音語有効
具体例嫌そう→端的に一般法則(+例外)だけ

その他
相手の理解力不足を感じた→それを伝えることを諦め、もっと簡単なことを先に教える
面倒なこと言いだした→距離を取る努力をしよう

両方もってる有能な人はどうやって話しても理解してくれるので自分のしたいように話して大丈夫

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