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「光る君へ」第8回 「招かれざる者」 人々の心を操る兼家と晴明の謀略

はじめに
 政治の要となる人物とは、どんな人を指すのでしょうか。一般的には、その権力を行使する人と思いがちです。
  985年の「光る君へ」では、花山帝の寵愛を背景に権中納言へと出世した義懐がまさに権力の中心にいますね。しかし、その専横に対する反発は大きく、政治を動かしているとは言いかねるでしょう。彼は花山帝の政への不満の象徴というだけで、その器ではありません。

 真に政治の要となるのは、その存在感だけで政局を動かしてしまう人物です。それを端的に示したのが第8回の兼家です。兼家はその剥き出しの権勢欲と辣腕によって反感を持たれる反面、その政治手腕は評価されてきました。公明正大な実資の「好きではないが」「筋の通ったお方」という評価は、言い得て妙ですね。良くも悪くも、彼は政務を担い、実績を重ねてきた政治家です。
 第8回は、そんな兼家が倒れたことで、様々な人々が右往左往します。それは、兼家こそが政の要であったことを逆説的に表しています。そのため、今回は兼家が倒れたことに端を発する周りの反応、政局が今回の中心になっています。

 今回、兼家は序盤に台詞があるものの、大半は寝ているだけです。にもかかわらず、政治の要であり続けると同時に、物語の中心としても機能しているのですね。本noteでは、「光る君へ」については、兼家を中心とした政治劇の観点から、少し斜めに作品を考察してきましたが、やはり、その圧倒的な存在感は役者が違います(演じている段田安則さん本人は役以外では気配を消しているほど穏やかなお人柄(「50ボイス」参照)のようですが)。

 更に興味深いことは、兼家は自身の政治における立ち位置を十二分に理解して自覚的に振る舞っているであろうということです。今回の病はおそらくは仮病であり、それをもって周りの動向を見極め、花山帝のもとへ道兼を間者として送り込もうとしていると思われます。よしんば本当に病で倒れたとしても、それを権謀術策の一環に組み込もうとしていることになりますから、その飽くなき権勢欲は大したものです。
 どちらにせよ、彼は右大臣家が周りから嫌われていることを百も承知、その一方で自身がいなければ政治が立ち行かないことも分かった上で、策を講じていることは間違いありません。

 そして、その策略は、右大臣家の三男である道長は勿論、政争からは逃れたつもりになっている為時すらも巻き込んでいきます。そして、右大臣家の動揺の隙を突いて盗みに入った直秀も囚われましたから、政に関係のないまひろも巻き込まれざるを得ません。それは、本人の意思にかかわりなく兼家の動向が、まひろと道長だけでなく、多くの人々の今後の道の選択に大きく影響することを意味しています。
 そこで今回は、兼家の策略を明らかにしながら、それに対する人々の反応を横に置き、それぞれのキャラクターを考えてみましょう。


1.兼家の権謀術策はいつからか

(1)兼家と晴明の呼応する共犯関係

 第7回のnote記事でも触れたように、前回から兼家は折々、弱気な言動を見せて、周りがそのことを不思議に思うというシーンがいくつか挿入されました。関白や左大臣ら公卿は勿論、蔵人頭の実資すらも右大臣らしくないという反応を示しています。

 そうした兼家の言動の中でも、特に不可解なのは、花山帝の間者を辞退したいという為時の申し出をあっさり受け入れたことです。思わぬ労いの言葉までかけられた、学問バカの為時は単純に感動していましたが、本来なら兼家の戦略上欠かせない花山帝の情報を放棄するようなことをするはずがないのです。その不自然さを宣孝が「わからんの」と訝しむのは、むしろ当然なのです。

 ですから、前回note記事では、兼家の意図について、本当に弱気になったか、弱気のふりをしているブラフかの二つの可能性を上げたわけです。特に後者の可能性の高さについて言及しましたが、今回見る限りは、やはり後者のブラフだったように思われます。したがって、今回、兼家は義懐に激高するあまり突如倒れたかのように演出されていますが、実は前回から続く兼家の妙な言動の延長線上の出来事と見たほうが自然でしょう。


 となると、彼の権謀術策がどのあたりから始まっているのかという点が気になりますが、可能性として考えられるのは、前回、たった数分しかなかった兼家と晴明のあの腹芸会談です(笑)あの会談についての詳しい考察は前回note記事に譲りますが、あの中で二人が確認したことは、それぞれの目指す目的のためにはお互いが必要であるこということです。

 あのとき、晴明はこう言いました。「安倍晴明の仕事は政を成す人の命運をも操ります」と。この言葉で重要なことは、命運を操ることは「仕事」であると言ったことです。これは裏を返せば、兼家が国家の大計のために覚悟を決めるのならば、「この国の未来」のための「仕事」ゆえにその策略に乗ってやろうという意味にもなるのですね。対して、兼家は「褒美が足りないのであればそう申せ。勿体ぶりおって」と答えます。これは、「わかった。褒美は弾むゆえ、好きにやってみせよ」という返答の意味を含むことになるでしょうか。


 つまり、二人は前回、考察したような心情と矜持の応酬をしただけでなく、皇子と忯子が亡くなったため、次の策略の大まかな打ち合わせのようなものもしていたということになります。叱責も呼び出す口実の一つかもしれません。

 二人の腹芸は、緊張と馴れ合いの二律背反が含まれているのが特徴的なのですが、それは謀議だからなのでしょう。となると、そう考えると晴明が道長に言った「お父上とのこういうやり取りが、楽しくてならないのです」という言葉も腑に落ちます。人知れず謀を企み、人の心を操る謀略ほど楽しいことはありませんから。ある意味では、兼家と晴明は男女の睦言よりも楽しいプレイをしているのかもしれませんね(笑)というわけで、あの腹芸は前回、考察したことから更にもう一枚奥があったと考えられそうです。


 となると、兼家が悪夢を見たのも、倒れる程度の病になったのも晴明の仕業かもしれませんね。彼の術がどの程度のものであるのかは、あえて曖昧にされていますから、そこは想像に委ねるしかありません。晴明の術は、あるいは手品の類のようなものかもしれませんしね。

 ともあれ、花山帝を退位させるにしても、野心を持つ者たちの騙し合いの内裏では容易ではありません。誰が味方になるのか、誰が風見鶏で使えないのか、そうしたことを正確にとらえてこそ策を成せます。いつもの政以上の下準備、根回しが必要になるのですね。朝議での胡乱な言動もこうした周りの出方を見るための方便とすれば納得がいきますね。そして、例えば、自分の不可解さに実資が腹を立てているという噂を聞けば、彼が筋を通った人間であると再確認したでしょう。


 また、一方で左大臣の源雅信には、両家のために道長と倫子との婚姻を考えてほしいことも抜け目なく伝えています。これは既に道長にも言っている話であり、当然、本気の話ではあるのですが、こうして釘を刺しておくことで、自分が倒れたときに彼が妙な動きをすることがないようにする目的もあったでしょう。雅信は、右大臣家のために味方にせねばならないからです。こうして、彼は様々な形で布石を打っていったと思われます。


当然、自分の予想どおりの反応を相手や周りがするとは限りません。相手の出方次第で策略を変えていく臨機応変さも大切なところでしょう。これはあくまで推定でしかありませんが、この臨機応変さが如実に出たのが、為時のお役目辞退ではないでしょうか。それまでは、おそらく花山帝退位の足がかりとして考えていたのは為時だったでしょう。
 しかし、彼からは間者の役目を辞退するという思わぬ申し出がありました。そのことが、道兼を間者として花山帝のもとへ送り込む策を思いつかせたのではないでしょうか。勿論、道兼が、花山帝即位当初から帝に取り入る努力をする旨を父に伝えていましたから、そのことも考慮に入っていたでしょう。
 様々なことを考慮に入れながら、起きた出来事に合わせ柔軟に謀を思いめぐらせ、実行に移していく。綿密な情報収集と根回し、そして時に見せる臨機応変で大胆な謀略を実行する行動力、これが政治家、兼家の他の追随を許さない能力ではないでしょうか。

 勿論、最初から為時が辞退してくることを読んでいた可能性もありますが、その場合は、信じられないほどの深謀遠慮と忍耐力が兼家の力ということになりますが、どちらにしても彼の能力は、他の貴族の及ぶところではありませんね。



(2)晴明の祈祷の真の目的

 その兼家の政治力を支えるのが、晴明です。今回の晴明の見せ場は祈祷(邪気解除の祓いか、泰山府君祭かわかりませんが)のシーンでしょうが、彼の一々芝居がかったインチキくささは東三条殿に呼ばれたときからです。彼は訪れた途端、顔をしかめると「瘴気が…瘴気が強すぎる!」と専門用語を発すると人払いを願い出ます。

道隆は「まずは父上のご回復だ」と、兼家が倒れたことに狼狽えて、晴明を呼んだだけです。しかし、晴明の「二人きりにしてください」という言葉からは、彼が道隆ではなく、兼家から謀のお呼びがかかったと見抜いていたことが窺えます。このことからも、前回の腹芸会談が「謀略を始めるから協力せよ」という大雑把な同意を求めるものであったと思われます。
 とはいえ、兼家の正確な目的や腹積づもり、自分が何をやるべきなのかは、腹芸ではなくきちんと話し合い、打ち合わせないことには流石にどうしようもありません。だから、まず皆を遠ざけ、二人だけで密談できる状況を作り出したのですね。瘴気だと言えば、迷信深い人々はこの場に近づきませんから、上手いですね。


 兼家と晴明がどんな密談をしたのかは、今回はあえて描かれていません。ただ、起きた事態を見れば、ある程度は察せられます。祓いの儀式の過程で、兼家に取り憑いた怨霊が巫女に降ろされます。その怨霊の正体は忯子のようです。そして、「命を返せ、子を返せ」恨み言を言うと兼家に襲い掛かります。

 …と、ここで勘の良い人なら不思議に思うでしょう。忯子は、兄に政治的な便宜を図ることすら遠慮するほど慎み深く、ただただ帝を愛していただけの人です。彼女に心残りがあるとすれば、花山帝への思いでしょう。これまで描かれた彼女の人間性からすれば、他人を恨むことはありません(演じているのも井上咲楽さんですしね)。
 もし彼女がわざわざ兼家を恨むとするならば、兼家たちが自分を呪詛していたことを知っていた場合だけです。したがって、このお祓い自体が、忯子の人柄を知らない人間が作った自作自演、兼家と晴明の権謀術策でしかありません。


 しかし、迷信深く、晴明の力を信じるその場の多くの人々は恐ろしい出来事のほうに気を奪われていますから恐慌状態です。道隆は呆然と立ち尽くし身動きができず、道兼は腰が抜けたようになっています。彼らは、皇子への呪詛の一切を知っていますから、その罪を目の当たりにして怯えているのです。根が繊細な道兼はともかく、嫡男、道隆が動けないことは彼の器の小ささを端的に見せています。父が助からないことには右大臣家が終わる、何としても助けなければならないと言いながらも、いざとなれば我が身かわいさに身がすくみ動けないのです。

 結局、忯子が呪詛されたことまでは知らず、後ろ暗いこところがなく、また迷信もどこまで信じているかもわからない道長だけが、父を助けようと憑かれてトランス状態の巫女を羽交い絞めにして食い止めようとします。道長の父へのそれなりの敬意と優しさと度胸がさせたことですね。つまり、この場面は、何気に三兄弟の人間としての器がそれとなく示されているのです。

 そして、おそらく寝たふりしている兼家は、息子たちの心底というものを再確認したことでしょう。この祓いの目的の一つは、今後のために彼らの難事における心構えを見ておきたかったということがあると思われます。因みに『大鏡』には、三兄弟が花山帝の命で肝試しをして、その中で道長が最も豪胆であったという話があります。このシーンはそれが意識されているかもしれません。


 さて、怨霊は晴明の業によって鎮められますが、帝に問い質された晴明は、兼家に取り憑いた怨霊が忯子であったことをわざわざ報告します。身罷った忯子を思い続ける花山帝は、彼女が成仏することなく右大臣に憑いたと知り、右大臣が彼女と皇子を呪詛したのではないかと疑います。呪詛の実行犯である晴明は、「それはわかりませぬ」と答えを濁します。彼は、自ら政敵のもとを飛び込んで、祓いの顛末を正直に答えることで、帝からの信頼を損ねることなく、自分に疑惑がかからないよう注意深く振る舞っているのです。

 ここで注意したいのは、右大臣犯人説について「ありえませぬ」ときっぱり否定せず、明言を避けた曖昧な返答です。ここに、晴明がわざわざ花山帝に祓いの顛末について報告した意味があると思われます(当然、兼家も納得ずくと考えてよいでしょう)。端的に言えば、晴明の目的は、花山帝の心に疑惑の芽を埋め込むことで心をかき乱すことです。彼が精神的に不安定になればなるほど、判断を誤り、また貴族たち対する求心力も失われるでしょう。結果、更に孤立する彼とその側近たちはますます袋小路に陥ります。


 案の定、忯子を忘れられない花山帝は「可哀想な忯子…」と涙ぐみ、続いて「死ね!死ね!右大臣!」と激高し始めます。悲嘆と激高…この振り幅の落差は、彼が精神的なバランスを崩したことの表われです。すかさず、それでは忯子が成仏できないとやんわりとなだめる晴明が狡猾ですね。

 彼は帝に寄り添う素振りをしながら、最早、帝が彼の意のままに反応するであろうことを確認したのではないでしょうか。そして、これこそが、晴明が兼家との腹芸の中で言った「政を成す人の命運をも操る」ということでしょう。晴明は呪術にせよ、政治的な動向にせよ、人心を巧みに操ることを得意とする人です。政をなす貴族も人である以上、その心は晴明の手のうちにあるのです。そのことをもって、脅しと売り込みをしたのが、あの腹芸会談です(笑)

 ただし、彼は単なる私利私欲ではなく、あくまで「この国の未来」のためにそれを使います。それが陰陽師としての矜持であり、縛り…夢枕獏の言うところの呪(しゅ)なのでしょう。
 こうして、晴明は、兼家の企みの下準備を整えます。




2.兼家×晴明の権謀術策の影響

(1)花山帝と為時~情に流されやすいという欠点~

 兼家の企みの本丸は花山帝の退位であることは言うまでもありませんが、晴明を使っての帝の心を揺さぶる策における当面の狙いは、道兼を帝の傍へ送り込むことです。道兼は、帝の秘書的役割である蔵人ですから役職的には近いところにいます。しかし、右大臣家の人間ということで信用はされておらず、目的はままならないのが現状です。道兼が為時に言った右大臣家の人間だから「どこへいっても私は嫌われる」との言葉は嘘ではありません。こんな道兼を帝がいかにすれば寵愛し、傍に置くようにするかというのが、兼家の策略の要諦です。


 兼家ら公卿たちは、前々から帝への直言もかなわず、義懐を通してしか政務が行えないことに手を焼いていました。第8回では、帝の信任篤い義懐が権中納言になり、その専横は日増しにひどくなるばかりです。しかし、帝に直接会うこともできず、その権威を笠に着る輩を相手に、自分たちの意向を通すことは容易ではありません。堅牢な帝と義懐との関係を真正面から挑むのは無謀です。数に任せて力で押し切れば、時間がかかるだけではなく、その反動は大きいものです。下手をすれば帝の不興を被り、罷免される危険が伴います。百戦錬磨の政治家、兼家なれば、その愚は知っています。


 となれば、真っ向勝負を諦め、からめ手を使うほうが効果的です。具体的に言えば、晴明がその呪詛によってつくった、忯子を失った哀しみという心の隙を突くことです。幸い、為時の最後の報告によれば、花山帝が晴明の目論見通り、意気消沈し政に手がつかなくなるほど心を痛めているとのことです。寂しさと哀しみで心をすり減らし、政に異議を唱える右大臣家を憎む花山帝の心にあるのは孤独感です。この心の隙間を煽り立て、利用すれば、一見、堅牢に見える花山帝と寵臣による専横のシステムも内側から突き崩せるのです。
 『三國志』の馬謖の言葉「攻心為上 攻城為下」(戦の道は心を攻めるのが上策、城を攻めるのは下策)という言葉どおり、心理戦こそが政では大切ということですね。


 本来であれば、花山帝の心を揺さぶるのは、側近として潜り込んでいる為時に任せれば手っ取り早いのですが、為時はこれ以上の間者の役割を辞退してきました。困ったことのはずですが、兼家はあっさり手を引きました。これは、惚けた顔をしながらも無意識のうちにある程度の算段はしたからではないでしょうか。
 為時は花山帝を憐れむ気持ちから任務に耐えられない情に流されやすい性格で、そのためか報告にあまり来なくなっていました。実直ゆえに裏切る人間ではありませんが、逡巡する人間は大事なときに判断を誤ります(現に任務辞退が間違った判断です)。また、幾分マシになったとはいえ気の利くタイプではありませんからこの先の策略に必要な繊細さには欠けているでしょう。ですから、そもそも彼はこの役割に向いていません。


 さらに野心家の兼家に対して腹芸もせず、真心でわかってもらおうとする為時は、あまりに無防備すぎます。裏を返せば、その実直でお人好しな性格は、利用しやすいということです。となれば、役目から解き放ったことにして、遠慮なく帝のもとにいてもらい、その立場と心情をこちらの目的のために利用するほうが都合がよいのです。
 その性格ゆえに、彼は利用されていることにすら気づかないでしょうし、また裏表のない彼の言動は帝に信用されやすい。それだけに利用するのは、容易です。結局、為時は、人を疑わず情にほだされやすい性格ゆえに、兼家に虐待されているという道兼の話を信じてしまい、花山帝の懐に道兼を招き入れる片棒を担いでしまいます。


 為時は、その致命的な失敗に気づくことはありません。どうやら、彼は、兼家からお役御免を認められ、労われたことで、醜い政争から逃れ、学問に生きられると信じたようです。兼家倒れるの報せにも、それを出世に利用することなく真面目に「文蔵の整理をする」などと言っていることから、そのことが察せられます。
 しかし、実際は「右大臣さまが一度つかまえたものを簡単に手放すとは思えん」という言葉どおりでした。兼家は手放すふりをして、骨の髄までとことん為時を利用し尽くしたのです。彼はどこまでも兼家の謀の道具です。ただ、自覚的であるか、無自覚であるかの違いがあるだけです。前者は何らかの利益を得ることがありますが、後者はただただ使われて用済みになれば捨てられるだけです。
 実資のように政への信念と覚悟もなく、晴明のように秀でた芸もないのであれば、乳母が言ったとおり、間者のままでいたほうがマシだったのかもしれません。にもかかわらず、兼家に拾われたことを今なお感謝する為時は、バカ正直で、人の欲望に疎く、世間知らずという他ないですね。学問という理知を重んじる学者にとって必要な才能は、物事に懐疑的であることなのですが、情によって判断を誤るというのはどうにも情けない話です。


 因みに懐疑的という点では花山帝のほうが比較的まともでした。彼は道兼の左腕の虐待の痕を見た後、彼の右腕をまくり、そこに痕があるかどうか、本物かどうかを確認しています。花山帝は、道兼が取り入るために利き腕で左腕を打ち据えただけかも、と一応疑ってはみたのですね。

 しかし、忯子を失った哀しみと右大臣憎しによって、既に大きく心のバランスを崩している帝は、晴明によってその感情を煽られ、肥大化させており、冷静な判断をできる心情にはありません。心のバランスを崩し、感傷的になっている花山帝は、道兼が虐待されているということを確認すると「地獄に落ちるな、右大臣は」と心を痛め、あっさり道兼を自営に引き入れてしまいます…獅子身中の虫とも気づかずに。


 こうして兼家と晴明の巧みに人心を操る権謀術策の連係プレイは、花山帝に道兼を信用させるという重要な布石を打つことに成功します。兼家が、この謀略を思いついたきっかけが、為時の間者のお役目辞退の申し出だとするならば、皮肉にも、為時の花山帝への思いやりこそが、花山帝退位の始まりだったことになります。

 「光る君へ」という作品は、情に脆い、流される人ほど致命的な失敗をする傾向があります。円融帝への恋慕を募らせた詮子、花山帝は忯子への過剰な愛情と兼家への憎悪、そして、為時は過ぎたお人好しの性格…いずれも己の感情で冷静さを失い、現状を見失い、誤った行動に出てしまっていますね。為時の場合は、己の意思に反して、結果的には花山帝を裏切ってしまい、そして自らの職も失う危機に瀕しています。なんにせよ、地獄の窯が開かれてしまいました。



(2)道隆と詮子~主導権争いの前哨戦

 兼家の権謀術策が興味深いのは、父の危機という非常事態によって、兼家の子どもたちの性格や本音までが露わにされたことです。人は危機に陥ったときに本性を表すとはよく言われますが、まさにそういったところです。

 この中でわかりやすく政治的に動いたのが、道隆と詮子です。兼家が倒れたため道隆は、弟、妹を集めると、嫡男として自身が右大臣家を代理としてまとめることを宣言します。兼家が突然倒れたことは不測の事態ですが、いずれは起きることです。道隆はこうしたとき、嫡男としてどう振る舞うべきかを事前に教育されていることでしょう。ですから、己の役目を果たすため、堂々と振る舞い、皆を落ち着かせようとします。嫡男として当然のことをしているまでです。
 ただし、父とは違うやり方を妻の貴子と模索しており、何か含むところもあっての言葉であろうと思われます。勿論、そのようなことはおくびも出しませんし、道兼や道長は兄に秘められた政治家らしい冷淡さにはまだ気づいていません。


 こうした道隆の嫡男らしい態度を薄く笑って揶揄するのは詮子です。家長を気取っても道隆は未だ参議にもなれず、政の中枢に彼の席はありません。公卿でもない彼に力があるはずもなく、一致団結して「我が家」を守ろうとの言葉は、空々しいものでしかないからです。ですから、彼女は「今、父上が死なれたら困りますよね」と続けます。この言葉が辛辣なのは、兼家の操り人形でしかない道隆には、自力で出世し、貴族の頂点に立つだけの器量はないと言っているも同然だからです。

 しかし、自身の力不足を指摘する妹の言葉の真意に気づいたのか気づかないのか、道隆はそのことには触れず、兼家が倒れるという異常事態に対し今は四人で一致団結すべきだと諭しだします。おそらく道隆は、詮子の言葉を単なるヒステリーの一つと侮っているのでしょうね。だから、彼女の言葉に含まれた毒にも気を払わず、上から目線で諭そうとするのです。父が倒れたことによる動揺も少なからずあるでしょう。


 道隆は、今、兼家が死んだら困るのは、詮子も同じだと説きます。つまり、彼女の息子、懐仁親王が東宮でいられるのも、また花山帝退位後、無事、即位するためにも、右大臣家の後ろ盾と兼家の政治力が必要だろうと言うわけです。

 しかし、道隆の理屈は正しいようで、実は事実の一面だけを見ている言葉です。たしかに懐仁親王が帝として即位し、その地位を安定させるには、後ろ盾は欠かせません。一方で、貴族の出世は婿入り先の身分によるものであり、家を繁栄させるのは入内させた娘が皇子を産めばこそです。それは、前回の公任の台詞「良いところの姫の婿に入って、おなごを作って入内させて、家の繁栄を守って次につなぐ」が象徴しています。つまり女性たちの後ろ盾こそが、男たちを出世させるのです。立場は転倒しているのです。

 したがって、東宮を抱える詮子こそが、右大臣家を支えるということなりますから、道隆の通り一辺倒の説得材料は、詮子にとっては痛くも痒くもない。彼女は、道隆を軽く一瞥すると、自分には左大臣家、源雅信が自身と東宮に忠誠を誓ったことを披露し、その後ろ盾があるから兼家が死のうと全く問題ないとうそぶきます。驚く道隆は、ようやく過日の詮子との会談にあった「裏の手があります」が意味することに思い当たったことでしょう。

 驚く兄を後目に詮子は、左大臣家との縁を深くするための具体策として、道長を倫子のもとに嫁がせる計画まで語り、追い打ちをかけます。慌てたのは「ね、道長」と同意を求められた道長です。内々に振られていただけで受け入れていない意に染まない縁談の話を既成事実のように話されてはたまったものではありませんし、父が倒れて大変なときに話すようなことでもありませんからね。困り果てる道長を面白がるように見ながら詮子は、左大臣家への正式な書状を自分が書くから彼がそれを持っていくことを申し添えます。


 さらに詮子は兄たちに「我が家」の繁栄を望むならば、左大臣家と共に自分に従うべきだと軽く脅しすらかけます。彼女が左大臣家の後ろ盾を持ち出したのは、このためですね。自分の優位を自覚する彼女は、兼家が倒れたことを機に右大臣家の主導権を握ろうとしているのです。いやはや、この強引さ、機会を逃さない大胆さ、流石は兼家の娘というべきです。父親似の政治力が開花し始めていると言えるでしょう。

 着々と力をつけていこうとする詮子の思わぬ反撃を受けた道隆は目を白黒させて狼狽するだけです。まともな返事もできず「まずは父上のご回復だ」と晴明を呼ぶ手配をして話をすり替えることしかできません。器の違いが如実になってしまいましたね。


 それにしても、漢詩の会での振る舞い、あるいは道兼を籠絡する手管はなかなか見事で、どうやら父にも含むところがある道隆なのですが、詮子と並ぶとどうにも格下になってしまいますね。その原因は、彼の嫡男としての生真面目さにあるでしょう。彼には政敵である左大臣家と婚姻関係を結ぶという大胆な発想もなければ、予想外の反撃や非常時に対応できる臨機応変さもありません。詮子との会話だけではなく、その後の晴明の祓いでの狼狽ぶりにも彼の非情時に対する脆さが出ていましたね。対して、詮子は冷ややかなものです。
 結局、彼が得意とするのは、計画したことを確実に実行するということです。そのことに関しては、優雅で美しく完璧にこなせます。言われたことはちゃんとやれる優等生といったところでしょうか。ですから、不測の事態に対する対応力は低くならざるを得ませんし、泥臭いことはできません。

 しかし、兼家の手練手管を見てのとおり、彼の能力は大胆な発想と行動力と臨機応変さであることは明らかです。良くも悪くも、道隆よりも詮子のほうが、兼家の才を受け継いでいるようですね。ただ、詮子もまだまだでしょう。彼女は、この一件自体が兼家の権謀術策の一環であることには、おそらく気づいていないでしょう。仮病の可能性も考えにないかもしれません。
 そう考えると、道隆を牽制するために自分の後ろ盾について話してしまったことはともかく、道長の婚姻についてまで明かしてしまったのは早計だったような気がします。手札を明かすのは、兼家の死を確認してからでも遅くなかったようにも思われます。

 ところで、道隆の中関白家と詮子の因縁は、この後もずっと続きます、最終的には、道隆の遺児たちと詮子が後ろ盾となる道長が藤原氏長者の座をかけて藤原家中の権力争いをすることになります。今回の道隆と詮子の家内での主導権争いは、その前哨戦とも言えるものかもしれませんね。



(3)散楽師:直秀~道長とまひろの逃避先~

 実は兼家が倒れたことについて、道長は比較的に冷静に見えるのは、生来ののんびりした性格もあるでしょうが、まだ政争にかかわることなく汚れていない点も大きいでしょう。彼個人には、後ろ暗いところはなく、寧ろ政治的なことからは距離を取ってきました。だから、取り憑いたという忯子の怨霊に対しても必要以上に恐れるところがありません。


 しかし、彼が的確に政治的なことを的確に避けてこられたのは、争いを好まない性質だけでなく、人をよく観察し、物事を察することができる頭の良さによるところがあります。だから、気づきたくなくても、様々なことに気づいてしまいます。例えば、忯子の怨霊らしきものが「子を返せ、命を返せ」と言ったことを耳ざとく聞きつけ、兄たちの狼狽から自分の知らない後ろ暗い陰謀があったことに気づいてしまいます。また、直秀が東三条殿を回ってみたいという直秀からは、矢傷を見つけたこともあって、盗賊としての彼の本性にもうすうす感づいてしまいます。


 そういう彼ですから、「父上は我々をどこに導こうとしているのか…」と病床で眠り続ける父、兼家を前に語る言葉には、その落ち着きとは裏腹な素直な不安が心を占めていると察せられます。多くの陰謀、父が倒れたことによりにわかに騒がしくなっていく世間、そして詮子が進めようとする自身と左大臣家との婚姻の件、そして打毬を観戦していたまひろのこと、そのどれもが今の道長には手に余る事案です。どうなっていくのか見当もつかないのでしょう。
 にもかかわらず、それらの出来事は、道長の意思にかかわりなく、彼を政争へと巻き込んでいくことが予見されますから、不安が膨らむのは止められません。「生き延びてその答えを教えてください」との語り掛けには、切実な気持ちが混じります。


 このような鬱屈の中、実は彼にとってほっと気が抜ける相手は直秀です。道長が、最近見つかった弟として、打毬へ直秀を呼んだのは呆気に取られた、あるいはご都合主義と取った視聴者もいるかもしれませんが、道長の心情としてはごく自然なことでした、

 彼は同世代の公任らとの会話ですら、彼らと揉め事になることは避け、惚けた能天気な三男坊として振る舞っています。身分や貴族の習わしに疑問を抱いていることは、口にすることは憚られるからです。しかし、散楽師の直秀は全く別です。彼は道長を貴族だと知った上で遠慮のない物言いをし、ときには背後からすっと彼の後ろについて馬にも乗ります。
 対する道長も自然とタメ口になり、公任らには決して言わない辛辣な言葉や軽口を飛ばします。また、直秀には、まひろとのことで絶妙な気遣いと橋渡しをしてもらっています。彼が気の利く心優しい男であることもよくわかっています。

 道長にとって、気兼ねすることなく、気軽に本音を話せる唯一の同性の友人にしたい男が、直秀なのです。突然の打毬代役の依頼の裏には、道長の直秀への信頼があるのですね。勿論、散楽師の彼ならば貴族に化けるのも朝飯前、身体能力が高さも依頼した理由になっているでしょう。


 それだけに直秀が、自分が射た盗賊であることに気づいてしまったことは、驚くと同時に悩んだことでしょう。権力者を嫌う彼が、義賊として宮中に盗みに入ることは不思議ではありません。仕事柄からすれば、道長は彼を捕まえなければなりません。しかし、彼は通報することもなく、公任ら共々自身の屋敷に招待しました。そこには、貴族だけがのうのうを暮らしていることへの疑問を道長自身が抱いていることも関係しているでしょう。しかし、何よりも道長は、無二の友ともなり得る直秀のことが好きなのでしょう。彼は、自身の心にしたがったのです。

 しかし、盗賊という危ない仕事については釘を刺す必要があります。ですから、屋敷を案内してほしいという直秀を連れ、二人きりになったとき、思い切って東三条殿についてあれこれ聞く理由、そして腕の傷について問いかけます。これは道長にとっては一種の駆けです。これらの質問は、要は直秀に「お前が盗賊であることは知っておる」と暗に示す警告だからです。一触即発になりかねない言葉ですが、これが友人として彼が直秀にしてやれる誠意なのです。

 果たして直秀は、あくまで散楽の材料にするためと答えます。誰にでも化けられるとも、(東宮について)「よく知ればより嘲笑える」ともうそぶき、権力者を笑う散楽師としての誇りを口にします。直秀は、道長の警告に対して「俺の本性は、どこまでも散楽師だよ」と応えたということです。言い換えるなら、直秀は正しく道長の身分を超えた友でありたいとの思いに自分も同じ思いであると伝えたということになるでしょう。
 ですから、直秀の相変わらずの遠慮のない物言いに、道長はニヤリとするのです。きっとこれで盗賊稼業を辞めてくれるだろうと一寸、期待する安堵があったのではないでしょうか。


 因みに直秀が、道長の警告をきちんと受け止めていたことは、次の場面でのまひろとの会話の中で都を去るという話をしていることからもわかります。流石にここらが潮時であることを見極め、ほとぼりが冷めるまで都を離れようというわけですね。ただ、その前に下見を済ませた東三条殿に盗みに入ろうとしていたことが、終盤明らかになります。それだけ貧富の差が激しい貴族中心の社会への憎悪が強かったのか、一旦、都を離れるにあたり当座のまとまった金が必要だったのか。その意図は、今回だけでははっきりしません。


 結局、彼らは最後の仕事として東三条殿に盗みに入ります。そして、ししくじった仲間を救うお人好しのため、直秀は結局、東三条殿の盗みに失敗し、捕縛された挙句、その盗賊としての素顔を道長の前にさらしてしまいます。直秀の顔を見た道長の怒りと哀しみの入り混じった壮絶な表情が印象的ですね。

 まず、せっかくの警告を無視して何故、再び盗みに入ったのか、道長の友人の散楽師だと言ったのは嘘だったのか、といった自分の好意が裏切られたことへの失望があるでしょう。
 次に、この決定的な事態によって直秀との友情が完全に終わるという哀しみ。そして、この決定的な事態を食い止めることができなかった自身の不甲斐なさを責めるような怒り…これらがないまぜになった絶望感を、柄本佑が好演してくれたのではないでしょうか。
 何はともあれ、道長は貴族社会の閉塞感のガス抜きにもなる友人という逃避先を失いそうです。


 ところで、直秀の存在が現実逃避にもなっているのは、道長だけでなくまひろも同じです。彼女は、第8回冒頭で月を見上げながら「もうあの人への思いは断ち切れたのだから」と独白します。しかし、これは明らかに自分に言い聞かせているだけです。道長と同じ月を見上げているという連動も然ることながら、前回、彼女は水に映る月に道長を重ねていましたからね。言葉とは裏腹に道長への思いを引きずりまくっていると言えるでしょう。一方で、公任らの女性を道具としか思わない貴族たちの言葉に深く傷ついてもいます。彼女はどうしてよいのかわからないというのが本音だろうと思われます。


 こうした思いのまま、土御門サロンを訪れると女子陣は早速、打毬における男性陣の品定めに沸いています。赤染衛門まで前のめりで加わるのがよいですね。乙女心は年齢も既婚も関係ないものですから。
 そんな衛門の「人妻でもあろうとも心の中は己だけのものにございますから」という大人な台詞に、若い姫君がキャー!となっていますが、これは貴族社会の婚姻が政略結婚の要素をたぶんに含むことが大前提にあります。女性たちは婚姻というシステムにおいて自由がありませんが、それは単に虐げられていることを意味しない。彼女たちは彼女たちなりに、したたかに恋愛をしていたのだろうと思われます。
 ですから、この台詞にはっとするまひろの表情のカットが挿入されるのです。まさに身分差のある恋をしているまひろの心に深く突き刺さるものであり、断ち切ったはずの道長への思いが頭をもたげるものになるからです。
 それにしても衛門、ここで有害な男らしさ全開な公任らではなく、一番、フェミニンな直秀を見初めるとはお目が高いですね(笑)


 ただ、まひろにとってもう一つショックだったのは、倫子が道長を見初めたということです。そつのない彼女は、あくまで女子トークの中の戯言の一環として道長にキャーとやっていますが、扇で隠したその表情、一瞬だけ本気が見えるんですよね。それは、後に雅信に道長との縁談を振られたときのまんざらでもない表情とよく似ているのですが、そんな倫子の本気をまひろは、同じ男に恋するがゆえにわかってしまいます。絶対勝てない相手が道長に恋をしている…まひろの心は切ないではなく、おそらく処理できなくてぐちゃぐちゃでしょう。


 だからこそ、この後、すぐに直秀たち散楽師の元を訪れる場面になるのです。おそらく、サロンの帰りにここへ寄ることはルーチンになっていることは、そのくつろぎ方からも窺えます。彼女にとって、ここは自分の知らない新しい世界を知る場所であり、また息抜きの場でもあるのでしょう。
 しかし、彼女が物思いを抱えていることに直秀は気づいています。まあ、少女漫画におけるライバルキャラは哀しいくらい気が利きますから当然とも言えます。そして、観察眼が鋭い彼は、それが公任らのクズ会話が発端であることにも気づいています。


 だから都を去る話の流れで、都の外の広い世界について話すのです。都の世界の狭さ、広いがゆえの面白さ…そこへの好奇心がまひろの悩みを癒せるのでしょう。そして、思わず直秀は「一緒に行くか?」と聞いてしまいます。彼の言葉はまひろを慰める要素が主だったでしょうが、一方で幾分か本気が混ざっていたことでしょう。彼が、一風変わっているが貴族にしては開けているまひろに惹かれるものがあることは、これまでの態度の節々に表れています。

 直秀は、自分の誘いに対するまひろの「行っちゃおうかな」という返事に戸惑います。彼自身がまひろを憎からず思うからこそ、その返事の中に純粋な好奇心以外の思い…つまり迷いはあるものの、今の現実から逃げ出したい、飛び出したいという真剣な思いが強く含まれていることに気づいてしまうのでしょうね。
 しかし、まひろを喜ばせるため、外の世界の楽しさを説いた直秀ですが、それ以上に過酷な現実があることを知っているはずです。そうでなければ、彼は都で盗賊をしているはずがありません。ですから、過酷な外の世界にまひろを巻き込めない直秀は、「行かねぇよなぁ」と笑い、話をうやむやにしてしまいます。


 道長にせよ、まひろにせよ、貴族社会の人間であり、自分の場所の中での解決できないもやもやを抱えて悩んでいます。彼らにとって、直秀との付き合いが救いになるのは、彼が外の世界の人間であるからです。自分たちの知らない世界を感じさせてくれ、自由気ままなとらわれない人柄に心惹かれるからです。
 しかし、彼の持つ自由の裏側には、下々の者たちの現実の過酷さがあります。まひろや道長は、そのことを他の貴族よりはわかっていますが、十分には理解できてはいません。日々の生活に苦しむ下々にとって、まひろや道長の悩みは贅沢なものでしょう。結局のところ、彼らは自分の生きる社会から逃げ続けることはできません。直秀捕縛は、現実へ向き合うきっかけになるのかもしれません。



(4)道兼とまひろ~仇敵と響き合う哀しみ~

 さて、最後は道兼です。兼家と晴明の権謀術策の要は道兼です。道兼が看病をし二人きりのとき、兼家はかっと目を見開きます。その後の詳細は語られませんが、彼にだけはこの策略の要諦が離され、彼自身のやるべきことが伝えられたのだと思われます。

 彼がすべきは、帝の側近である為時に近づき、その情深さを利用して、花山帝の信頼を得ることです。そのためには入念な準備をし、相手の出方を窺いながら即興的に不自然にならない芝居をしなければなりません。四角四面で臨機応変さのない道隆では到底できません。道兼のように気の回る繊細な人間だからこそ任されたのです。
 かなり大変な仕事ですが、父を敬愛する道兼は、兼家が無事であったことに心から安堵したでしょうし、また自分だけが、この重要な計画に一枚噛み、父の役に立てることに無情の喜びを感じたと思われます。そうでなければ、虐待の痕として、自身で両腕を痛めつけるということはできるものではありません。日々の生活に支障が出るほどの痛みに、ずっと苦しみながらの芝居なのですから。


 裏を返せば、父の愛を受けたいという道兼の承認欲求がそれだけ凄まじいということです。彼の本当の願いは、父からの無償の愛でしょう。汚れ役として役に立ち、父に必要とされるというのは、実は代償行為でしかありません。したがって、そうした陰謀の片棒を担ぐことで得られる喜びが、彼の心を満たすことはありません。

 道長に高圧的に接するのも、無条件で愛されている道長への複雑な思いが晴れないからですが、それは彼の飢えと渇きが、どこまでも癒されないという哀しみそのものでもあるわけです。それでも彼は、自らを物理的に痛めつけてまで花山帝側の間者になり、自分の価値を示す以外に父の関心を買う方法がありません。


 為時の同情を買うための虚言としての父の虐待について話す際に切々と語られる「誰からも愛されない自分」という言葉とにじみ出る孤独感は真実です。心なしか悲しく涙ぐんだような表情であるのも、それが本音だからでしょう。
 彼は今回の汚れ役では、迫真の芝居で演じれば演じるほど、自分自身の心をズタズタにしていくことになっているでしょう。自分の心と向き合い、それを吐き出すことで、間者になる。その痛みは想像を絶するものと察しますが、彼は役目柄、それを誰かに漏らすことはできません。ますます、彼は孤独になっていきます。


 皮肉にも、愛されない絶望感が本物であるからこそ、為時も花山帝も騙されるのです。彼らが道兼を信用するのは、何も痛々しい傷を見たからではありません。それはきっかえに過ぎないのです。人は100%の嘘は見抜けるそうです。嘘に真実をたぶんに混ぜてこそ、嘘は真実の衣をまとえるのです。
 そう考えると、今回の謀略において、道兼という人選は最適ですが、兼家は道兼の抱えた葛藤を承知しています。その上で、彼の心を操り、徹底的に利用するのですから、親としては非情という他ありません。


 さて、為時の同情をより買わなければならないということで、道兼は酒をもって為時のもとを訪れます。こんなことでもなければ、来る気もないような陰気で真面目なところです。勿論、彼は自身が7年前に殺した女性が為時の妻であることを知りません。

 とはいえ、為時やまひろの心情はそうは行きません。為時の気がそぞろであったのは、自身よりも娘の心を思うからでしょう。緊張しつつ、失礼がないように当たり障りのない話をしながら、最低限の振る舞いでもてなそうとします。呑みすぎることもなく、面白みのない話しかしない為時に、流石の道兼も興が覚め、持て余し気味になったところへ、まひろが琵琶を携えて参上します。


 後にまひろは「あの男に自分の気持ちを振り回されるのは嫌なのです」と琵琶を爪弾いた理由を述べています。彼女は今抱える様々な葛藤や苦悩の現況がかの事件にあることを承知し、恨みを忘れられないことも自覚したうえで、前に進もうと考えたのでしょう。特に父が右大臣家から離れ、まひろをわかってくれた今、なおさらその必要性を感じたのかもしれません。

 しかし、そのためには、彼を糾弾できなくとも、自身の今の恨み、無念、哀しみを吐き出さなければなりません。そして、志半ばで死んでいった哀れな母の思いも同時に、彼にぶつけなければ、母も成仏できない。だからこそ、彼女は、母愛用の形見の琵琶を選んだのでしょう。ちやはならば琵琶に己の気持ちを託したでしょうから。母に代わって弾いたのです。つまり、まひろの琵琶に込められたのは、悲運に引き裂かれた、切なくも哀しい親子の情愛です。


 さて、先にも述べた通り、道兼は自身の抱えた飢餓感を策略に使いながら、為時に近づいていますが、その行為は自傷行為に近いものです。彼はこの策略を進めれば進めるほど、自身の心が傷ついていく状況にあります。彼はある意味、自分の心を剥きだしにしながら、腹芸をして、策を進めているのです。そんな彼の根底にあるのも、報われない親への気持ちと得たくても得られない親からの愛情です。それは、形も状況も違いますが、間違いなく哀しい親子の情愛の問題です。

 そのため、まひろの琵琶の哀しい響きは、兼家の哀しい心を捉え、自然と落涙してしまうのです。おそらく彼はこのときばかりは、本心を隠すことを忘れしまったのでしょう。この涙は本物ではないでしょうか。ですから、真実を知らぬとはいえ、彼は素直にまひろの母の死にお悔やみを言います。彼の人を人と思わぬ苛烈な性情としでかしたことは、許されるものではありません。ただ、その裏には繊細な、壊れやすい、怯えた心があります。彼の背負った宿命の重さは、自業自得ですが、それ以上の哀しさも秘めています。


 まひろのストレートな想いが、道兼の抱えた哀しみと響き合い、彼の心をわずかばかり救ったことは、運命の皮肉ですが、彼の心底を汲み上げる秀逸な演出です。そして、まひろがこの演奏に耐えられたのは、道長がまひろを心から信じ、詫びてくれたその真心でした。道兼は、間接的に憎む弟から一時だけでも救われたのです。

 このまひろと道兼が響き合う邂逅は今後のドラマにどう響くのかは今のところはわかりません。もしかすると、早逝する道兼は今わの際にまひろの琵琶を所望するかもしれませんね。というのも、紫式部の娘、大弐三位は、道兼の次男にして跡取りとなった兼隆だからです。そして、この兼隆は道長の側近として従順に働いています。
 となると、まひろとのこの邂逅は、道長とまひろと道兼という運命で結ばれた三人に何らかの影響を与える可能性がありますね。


おわりに

 兼家と晴明の権謀術策は、人の心を操ることにその要諦があります。その巧みさは、兼家という人物の政治家としての能力の高さ、晴明の術の恐ろしさに支えられていることが見えてきました。
 人の心を操って行われる謀略だからこそ、周りの人々は知らず知らずのうちに、動かされ、そして自身の性情や本音を暴かれてしまいます。それは、政敵だけではなく、家族も、政局には直接、かかわりのない者たちの命運さえも変えてしまいます。
 現代は政治に無関心な人たちが多いですが、実は政治は自分事であるということを、今回の話は端的に示しているかもしれませんね。しかも、政治家の個人的な動機によってです。


 第8回で描かれた兼家の恐ろしさによって、政局の潮目は変わり、いよいよ花山帝退位の流れが始まります。その濁流のような流れに、多くの者が巻き込まれ、その先の運命が変わっていくことになります。その変化のなかで、若い道長も、まひろも貴族社会で生きていくための選択を迫られます。
 まずは差し迫っているのは、直秀との関係でしょう。咎人となった彼がどうなってしまうのか、それによってまひろと道長の覚悟が決まるでしょう。願わくば直秀が逃亡し、彼らの友情が細々と続く可能性を残してほしいものですが…単なる彼らの過酷な現実の逃避先で終わってしまうには勿体ないですからね。

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