見出し画像

「光る君へ」第7回 「おかしきことこそ」 平安貴族の常識の「おかしきこと」ってなに?

はじめに
 そもそも、時代劇は、その時代っぽさがある現代語の世界です。現代語と古語的な表現が混ざり合っていることは不自然ではありません。特に「光る君へ」に登場する人々の心情は、現代人に近い心情です。寧ろ妥当な言葉遣いでしょう。ですから、サブタイトルを見て「おかしき」じゃなくて「をかしき」だろうと目くじらを立てるのは、言葉どおり滑稽です(笑)
 それでも、「おかしきことこそ」とは、何を指して「なんといってもおかしいこと」なのかということはとても、気になりますね。

 言うまでもなく、この言葉は、第6回の直秀の台詞「笑って辛さを忘れたくて辻に集まるんだ。下々の世界ではおかしきことこそめでたけれ」からでしょう。だとすれば、滑稽、変、そしてそれに連なる笑いに焦点が当たっています。実際、第7回では、まひろは、この言葉から初の散楽の話を作り上げ、好評を得ます。
 彼女は前回、「人々の喜ぶものを提供する」という創作の基本を知り、そして今回、それを生かした作品を作ることができたという成功体験を得ました。後に「源氏物語」を書き遺すことになるその原体験としては理解できる内容です。


 しかし、その一方で、このまひろの原体験が、第7回全体を動かすものとはなっていないのも事実です(重要な意味を持ってはいますが)。となると「おかしきこと」には、他の意味もあるように思われます。

 そこで、「おかしい」という言葉の源流にあたる古語の形容詞「をかし」について少し触れてみましょう。「をかし」には、様々な意味がありますが、ざっくり分類すると、①「趣がある、風情がある」、②「素晴らしい、優れている」、③「美しい、愛らしい」、④「滑稽だ、おかしい」の4つでしょうか。この中でよく知られるのは、多くの方が中高生の頃、清少納言「枕草子」の一節「春はあけぼの」の段で習った①「趣がある、風情がある」でしょう。

 「趣がある」の意味の「をかし」は、平安期の美的感覚を表します。風景や物事を機知に富んだ理性的な感覚でとらえることを指します。「まあ、素敵!まるで古典にあった〇×のようだわ」といった感じで、賢さと朗かさが感じられるポジティブな印象と言えばよいでしょうか。
 「枕草子」は「をかし」の文学であるという話を聞いたことがある人もいるでしょうが、たしかに「光る君へ」のききょうならば「をかし=機知に富んだ理性的な感覚」が好きそうですね(笑)実際、「あはれ」よりも「をかし」の使用頻度のほうが、高かったりします。

 ところで「趣がある」と訳される古語には「あわれ」もありますね。こちらは、しみじみとした情緒を表すものです。感動的な映画を見て、物語の余韻に浸るような情感が近いでしょうか。因みに紫式部の「源氏物語」は、「あはれの文学」と呼ばれるのは、本居宣長が「源氏物語」のテーマを「もののあわれ」としたことに端を発します。


 さて、②、③の意味は「趣がある」に準ずるところがありますから、ものすごく大雑把に言えば「をかし」の意味は大別すると「趣がある」の「滑稽である」の二つと考えてもよいでしょう。そう考えるとサブタイトルにある「おかしきこと」は、「をかし」の意味を踏まえたダブルミーニングだと言えそうです。

 つまり、「趣のある平安貴族たちの雅やかな「をかし」の世界こそが、とても滑稽でおかしい」…それが「おかしきことこそ」(なんといってもおかしいこと)というサブタイトルの意味なのではないかと邪推します。そこで今回は、貴族たちの当たり前と思っている世界の滑稽さはどこにあるのかを考えてみましょう。



1.兼家と晴明の駆け引きから見える政のおかしきこと

(1)「この国の未来」を見る安倍晴明の恐ろしさ

 妊娠中であった弘徽殿の女御(忯子)が、お腹の子どもごと身罷ったことで、にわかに政の潮目が変わってきました。この事態を心より悲しんだのは花山帝一人ですが、慌てたのは兼家です。兼家は、関白と左大臣らと謀って忯子の子を呪詛するよう安倍晴明に頼んでいた。つまり、この事態の主犯格です。
 とはいえ「腹の子を呪詛せよとは言うたが、女御さまのお命まで奪えとは言うておらん。やりすぎだ!」との言葉からすると、兼家らの望んだことは堕胎…いや、もしかすると胎児を女児にすることだったかもしれません(呪術的要素も強い古代中国の医術書「如意法」には堕胎、性別を変える術もあるそうですし)。ただでさえ失われた命は、胎児といえども高貴な血筋です。更に帝の寵姫の命も加わるとなれば、心中穏やかではないのでしょう。


 一見、落ち着いた様子での詰問ですが、兼家の心底はかなり動揺していると思われます。と言っても、命を二つ奪ったことに対する後悔といったものではありません。殺人は貴族が忌避すべき触穢ですが、兼家は、過去に道兼の従者を平然と始末させているような人間です。そもそも、殺人による罪の意識は薄い。ことに下賤な物の命が失われようと痛痒に感じません。
 しかし、今回は高貴な血筋二つです。藤原氏は、古くは長屋王の変(729)など多くの政敵を排除してきました。排斥された中には、早良親王や菅原道真のように怨霊と化して、藤原家に仇成した事例も度々あります。したがって、兼家には、高貴な血筋の二つの魂から祟りが、右大臣家に災いをもたさないかという気がかりがあると思われます。兼家が首尾一貫して、我が家の繁栄がを第一義にしていることからすれば自然だな反応でしょう。


 対する晴明は、そんな兼家の怯えを見透かしているのか、「やりすぎだ」との言葉にも「左様でございましょうか?」と不遜な態度で応じます。続けて彼は「腹の子が亡くなれば皇子の誕生は無くなり。女御さま諸共に死すれば、帝は失意のあまり、政を投げ出されるか、あるいは再び女に現を抜かされるか、どちらにしても右大臣さまには吉と出ましょう」と政局の展望まで見据えた論理的な理由を並べ立てます。

 彼は物理的な障害だけでなく、兼家の政敵、花山帝の勢いと意思を挫いたのです。強引ですが、これによって、兼家の心配事は根こそぎ取り払われます。時流をつかみ、人の心を読む晴明だからできる根本治療、それが今回の呪詛なのです。これは言い換えると「私、安倍晴明が、右大臣の御代になるように取り計らった」ということです。だからこそ「お褒めいただくことはあると存じますが」と開き直るのですね。



 ここで、晴明が「この国にとっても吉兆でございます」と念押しするのが、興味深いですね。第5回のとき「我が命が終わればば、この国の未来も閉ざされましょう」と呪詛を渋った晴明に対して、兼家が投げつけたのは「この国の未来を担っておるのはお前ではない…私だ」という言葉でした。晴明の念押しは、兼家の言葉に対するアンサーなのです。つまり、右大臣兼家がこの国の未来を担う、この国のために働くというからこそ、その障害を取り除いたというのです。これは、兼家の理屈を逆手に取った、やりすぎ呪詛の正当化であり、責任は兼家に被けているのです。


 ただ、晴明のこの言葉は自己正当化ですが、晴明は暗にそんなことはわかった上で半ば吐き捨てるようなニュアンスが籠っていることは見逃せません。第5回note記事でも触れましたが、彼は陰陽道の本来の役割が国家を守る役割であることに自負を持っています。だから、兼家らの呪詛依頼に渋々乗ったのは、圧迫されただけではなく、陰陽寮を守り、国を護るためでもあります。ですから、前の念押しは、自分はあくまでこの国の未来のために共闘しただけである、という陰陽師としての矜持であり、また、兼家に対して「お前は本当にこの国の未来のために動いているのか」という揶揄と牽制が含まれています。



 晴明の揶揄と責任をなすりつける正当化を見抜いた兼家は「長い言い訳じゃのう…」と開き直る陰陽師を蔑むように言い返します。しかし、晴明は怯むどころか「いずれおわかりになると存じますが、私を侮れば、右大臣さま御一族とて危うくなります」と脅迫めいた言葉を口にします。「今すぐ」ではなく「いずれ」というのが意味深ですね。何故、「いずれ」わかるのか。先の女御まで呪詛した理由とも重なりますが、晴明が見ているのは「今」だけではありません。兼家が貴族たちの頂点に立った、権力者になって以降、後の未来について話しているのです。


 兼家は、今、頂点を目指すために花山帝の皇子を呪詛しました。これは裏を返せば、兼家が権力者になれば、今度は兼家たち右大臣家を呪詛する者が現れるということに他なりません。また、政は人の行うものである以上、天候や疫病といった予測不能の出来事に悩まされるものです。すなわち、権力者とは、不特定多数の者たちから恐れ、恨まれ、その地位を脅かされ、そして、政においては人の身に余る多くの出来事に対処しなければならない存在です。それは、誰が権力者になろうと同じことです。
 何故、帝が、古来より内裏の中心部に陰陽寮を置き、事あるごとに吉凶を占わせ、祓いをさせているのか。かけられた呪詛を解除、あるいは返し、日照りや疫病には祓いをさせなければ、地位の安定も国の安定も立ち行かない。それが権力者の本質であることを、晴明はよくわかっているのです。

 ある意味、彼は、兼家が今後、どうなっていくのかを彼以上に見えている。そして、それは「この国の未来」にも関わります。晴明は陰陽師という仕事ゆえに、ある面において誰よりも「この国の未来」が見えている人物だと言えるでしょう。


 晴明はさらに「政を成すは人。安倍晴明の仕事は政を成す人の命運をも操ります」と続けます。晴明は、今回の舞台となっている985年、実資の妻の出産が遅れていることから、彼女にかけられた呪詛を解除しています(出産は家の一大事のため、遅れることは呪いのせいとされました)。
 このことは、上流貴族たちにとって、陰陽師は日常的に頼らざるを得ない存在であることを示しており、特に晴明の実力は折り紙付きです。それは、兼家もよくわかっているはずです。したがって、その上で、晴明がわざわざこうした言葉を口にしたのは意味があるのです。

 一つは、皇子の呪詛の共犯である自分を切り捨てると今度は右大臣家そのものを呪う、あるいは呪詛を防がないという一蓮托生を意識させる「脅し」です。そして、もう一つは、この国の未来を担う権力者には晴明が必要不可欠であるという「売り込み」でもあります。言葉の裏にあるのは、陰陽師こそが「国の未来を担う」という職業に対する晴明の確信と自負です。


 政が円滑に進められるのは、晴明のような汚れ役を引き受ける現場の人間たちがいればこそなのです。これまでもそうであったし、それは今後も変わらない。誰が権力者になろうと晴明たちは必要です。裏を返せば、晴明ほどの陰陽師の替えは利かないが、権力者になりたがる人間はいくらでもいて替えは利くという揶揄が、晴明の言葉には込められているのです。

 自身の職業への誇りをこういう腹芸を通して、へりくだる形でしか言えないあたりには、晴明の忸怩たる思いがあるでしょう。ただ、その一方で、その誇りを「何を寝惚けたことを申しておる」と冷笑した兼家への意趣返しを毒のある言葉で吹き込むことが、彼なりの自虐的な楽しみであろうと思われます。


そもそも、兼家は晴明を呼び出してまで叱責しました。この言動の裏に、平安期の貴族らしい迷信深さから来る怯えがあることは、人の心を読むことに長けた晴明ならばお見通しでしょう。もしかすると呼び出されることを百も承知で、女御諸共皇子を呪詛したのかもしれません。彼の怯えを刺激する言葉をわざわざ選び、その反応を見、相手に切り捨てられないように持っていく。ある種の心理を操る術と言えるでしょう。
 占い師は、占いよりも相手の心理を操る巧みな言動こそが肝要ですからね。当代一の陰陽師ならばなおさらでしょう。晴明の相手を値踏みするような目つきと半ば吐き捨てるような物言いには、彼のアンビバレントな感情があるように思われます。


 対して兼家は、笑みを崩すことなく、晴明の言葉にある「脅し」と「売り込み」だけは読み取り、「褒美が足りないのであればそう申せ。勿体ぶりおって」と蔑みます。兼家は、晴明を下賤と見下していますから、晴明の自尊心について歯牙にもかけないでしょうが、その言葉に含まれた毒は無視できません。逆に彼の痛いところを突いて返すのです。ただ、そこには晴明という得体の知れない術師に対する畏怖があったことは、この後の言動から見え隠れします。兼家は、晴明に皮肉をいうことしかできなかったのですね。

 無論、晴明にとっては陰陽寮を維持し、研究を進めるための資金は重要で、それもあって兼家に近づいているのですから、図星の指摘に返す言葉はありません。結局、二人の腹芸は、お互いの必要性を確認し合えたということを落としどころとして、表向きは収まりますが、この会話は政における上下関係が、実は転倒していることを仄めかしています。



(2)道長の人となりを見立てる晴明

 兼家と晴明の会話の終わりを見計らって、現れたのは道長です。耳の早い兼家は、道長が盗賊と渡り合ったことを既に知っており、それを「頼もしくなったものよ」と誉めそやしながらも、「されど人は殺めるなよ。人を操り、奪うは卑しき者のすることじゃ」と釘を刺します。直後に居住まいを正す晴明のカットが入りますから、兼家の言葉が晴明をあからさまに揶揄したものであることがわかります。

 兼家にしてみれば、晴明を呼び出し叱責するつもりが、脅しに近い言葉で開き直られ、切り捨てることもできませんでした。言うなれば、晴明にしてやられたというのが本音でしょう。息子の手前、嫌味の一言も言いたくなるのは仕方のないとことです。


 ただし、この言葉には道長を心配する親心も含まれているところが、兼家という人物の複雑さです。兼家は、道兼の一件を動じずに片付け、それを笑っていられることから察するに、これまで直接的ではないにせよ、多くの人間を死なせてきたのでしょう。今も帝の子を女御もろとも死なせたところです。兼家自身の手も穢れているのです

 無論、これは家の繁栄のためであり、後悔はありません。ただし、人殺しの業の深さは逃れることはできません。それゆえに、逆に自分と道兼が手を汚すことで右大臣家の御代を作り、その繁栄を盤石にした上で、道隆と道長が穢れることがないまま引き継がせていこうと考えているように思われます。ですから、つまらないことで穢れて、努力が水の泡とならないよう忠告するのです。
 道隆は嫡男ゆえに、道長は自分と同じ三男という立場ゆえに期待をかけている様は、愛情と呼んでよいものかもしれませんが、道兼はそこに入っていません。あくまで都合のいい道具と割りきられてしまっている道兼は哀れですし、また平安貴族の「家」を重視することの、人としての歪みが垣間見える場面とも言えるでしょう。


 父の言葉が晴明に対する揶揄であることがわかる道長は、父の言葉に曖昧に答えると、晴明に父の非礼を詫びます。しかし、晴明は、胡乱な顔つきで「道長さま、お父上とのこういうやり取りは楽しくてならないのです」と応じます。この言葉は嘘でもあり、本当でもあるのでしょう。圧迫面接で意に染まない呪詛を命じられ、蔑まれ、自尊心を傷つけられること自体は面白くないでしょう。しかし、相手のそういう言動を逆手に取りながら、自分にとって優位に事を運んでいく駆け引きや意趣返しについては、楽しめているのです。それは、兼家が晴明を操っているようで、実は晴明が兼家を操ることだからです。


 また晴明は、「この国の未来」というものを考えています。ですから、兼家らの上流貴族らの言動を見ながら、この後の行く末がどうなるのかも読んでいる。彼にしかわからない楽しみがあるかもしれません。その先読みがあればこそ、時流を読むことにも長け、常に権力の側にいられるのですね。こう考えていくと、兼家と晴明は、家格という身分差、政治家と官僚という絶対的な上下関係にありますが、その実は利害で結ばれた対等以上の関係であることが見えてきますね。
 そもそも、晴明は兼家がいなくなれば、別の為政者に従うだけですが、兼家は晴明に頼らざるを得ないのですから。にもかかわらず、晴明に対して尊大に振る舞う上流貴族たちは、滑稽という他ありません。


 このように晴明の「楽しくてならないのです」は、右大臣家でのうのうと暮らす三男坊への毒の含んだ言葉です。道長を兼家と同類と見ての嫌味です。しかし、お人好しで誰に対しても対等につきあう道長は、晴明の言葉の裏を読むこともせず、真に受けて「これからも父をよろしく頼みます」と礼を尽くします。あまりにも無防備で無垢な答えに、拍子抜けした晴明は道長の顔を不思議そうに観察します。晴明の妙な反応に、「あれ?間違ったこと言った?」というような困った顔してしまう道長は正直です。腹芸以前の問題です(笑)


 道長に右大臣家全員が持っている野心や下心がないことを見てとり、その純朴そうな人なりをつかんだ晴明は、ふっと微笑むと道長の見送りの申し出を辞して、去っていきます。晴明が何を思ったかは明かされません。しかし、「この国の未来」のために生きる晴明ならば、右大臣家にもまともな奴がいると興味を抱き、その可能性を見たのかもしれません。

 史実的は、老境にある兼家の先は長くなく、後を継ぐ道隆、道兼は早逝し、短命です。そういう中で道長は、詮子のつてで内覧(天皇がかかわる文書を全て先に見る役職)の地位につき、最終的に藤原氏長者(藤原一族のトップ)の座を手にします。彼に降りかかる呪詛の一切を晴明が、解除したり、返したりするのは、ここで人柄を見たことがきっかけになるかもしれませんね。



(3)右大臣家の本質を突くまひろ作の散楽

 ここまで主に兼家と晴明との会話から、その関係性について話してきましたが、第7回が興味深いのは、右大臣家と安倍晴明との関係性について、その関係からは全く無縁のところから、それを揶揄するものが登場し、劇中内でメタ的に批評されたことです。それが、まひろが初めて作った「狐に騙される猿たちの話」という散楽のシナリオ(あらすじ程度だと思いますが便宜上)です。

 この話は「猿の顔をしているのは毎度お馴染み右大臣家の一族」「神のふりをする狐に福をくれとすり寄る」というものです。欲深い右大臣家を理性のない猿と見立て、化かすのが狐というのは妥当な線ですが、注目したいのは狐です。というのも、講談や浄瑠璃にもなった安倍晴明出生伝承では、晴明は葛の葉(信太妻)という狐から生まれたとされているからです。彼が並外れた法力を持つのも、狐の妖力を引き継いでいるからというわけです。
 勿論、室町期に広まった民間伝承が元ですから、この時代にそんな話はありませんし、まひろは晴明のことなど知るよしもありません。単に化かすと言えば狐というだけでしょう。

 しかし、「光る君へ」を作品として、俯瞰するとこの散楽の猿と狐の関係と兼家ら上流貴族と晴明の関係が相似をなしていることに気づかされます。胎児の呪詛は、一見、上流貴族たちが権力を笠に着て、晴明に無理やりやらされたという構図です。しかし、裏を返せば、晴明に頼みこまなければ、自身の権力を維持できないということです。

 このことは、政とは権力者が声高に主張するだけでは成立せず、現場で役人たちが実務をこなさなければ形にならない、政治の本質の比喩になっていますね。寧ろ、上に立つ者が誰であっても、実務をこなす者たちがそれを的確にこなすことができれば、世の中は動いていくのです。このことは、実は晴明が兼家に対して優位に会話を進めていたこととも響き合っていますね。
 第5回で、道長が、帝が誰であっても変わらない、支えるもの次第であると意見しましたが、それは上流貴族たちも同じことなのでしょう。日本で誰が政権を取っても変わらないと官僚がうそぶくという話とよく似ていますね(苦笑)

 結果的に、まひろの作った散楽シナリオは、下々に支えられていることにも気づかず、我が家の繁栄よと際限のない野心を膨らます貴族たちの愚かさを描いているのです。


 ところで、これを作ったまひろの思いについても確認しておきましょう。
 前回、彼女は、道長の真心のこもった和歌に心を揺さぶられました。完全にオチたかとも思われましたが、今のまひろには自分の「家」が右大臣家から自立するという目的があります。ですから、皮肉にも道長への恋心が高まれば高まるほど、その対極にある自分の目的を意識し、反発するように「私は遠ざからなければならない…そのために何かをしなければ!」と気持ちを新たにしてしまいます。
 結局、送られた和歌への返歌もしないままです。以前の直秀の「帰るのかよ」並みに、何やっているんだ…というツッコミを入れたくなりますね(笑)


 さて道長から離れるためにする「何か」をするとしても、彼女にできることは「書く」ことだけです。そこで思い浮かぶのが、代筆業の雇い主の絵師の「おかしきものにこそ魂は宿る」と「笑って辛さを忘れたくて辻に集まるんだ。下々の世界ではおかしきことこそめでたけれ」との言葉です。彼女は下々の民たちが笑いを求めていること、それは現実の辛さを忘れるためにあるのだということに気づきます。
 何故、「おかしきものにこそ魂は宿る」のか、それは笑いを求める人々の心、そして現実を笑い飛ばす以上、笑いの中に人々の現実があるからです。

 直秀たちから言われた人々が求める笑いの本質と右大臣家から離れるという目的の合流点に、まひろの散楽シナリオはあります。すなわち、笑い飛ばすべき現実の辛さを生み出す権力者である右大臣家を貶めることこそ、日々を地道に生きる民たちが望む笑いだということです。そして、「みんなに笑って欲しい」というただ純粋な思いで話を作るのです。

 まひろの純粋な思いは、まず、直秀たち散楽師たちの興味を引きます。そこから彼らが作り上げた芝居は、見りう人々を心からの笑いにします。まひろが、人々の反応に笑顔を輝かせていること、そして従者の乙彦すら感心するような顔つきをするところが良いですね。そして、日増しに見物客の数も増え、笑いの輪は広がっていきます。まひろは、自分の考えたこと、したことが人々のためになっていることを初めて実感します。創作者としての彼女の成功体験と言えるでしょう。

 ただ、それは評判になったがゆえに、「藤原への中傷が過ぎる散楽がある」ということで右大臣家の郎党たちに破壊されていまいますが、それは右大臣家からすれば図星の内容だったということです。人々の心と世の中のことをとらえた作品であったことに変わりはありません。

 ただ、右大臣家の郎党に破壊された一件で、道長に運命的に救われ、かの逢引場所まで二人きりで逃げた挙句、右大臣家を笑いものにする散楽を「おれも見たかった」とまで言われてしまいます。直秀と乙彦が駆けつけたことで決定的なことは避けられたものの、またもまひろはときめいてしまい、道長から離れるという目的は達せられませんでした。まあ、この場合、駆けつけなかったほうが二人のためだったかもしれませんが!…ってか、直秀「邪魔しちゃったか?」じゃないよ(爆笑)

 さて、まひろがいなくなった後、「あんたの家は下の下だな」という直秀に、道長はあっさり「全くだ」と応じるのですが、その直後のカットが兼家になります。この散楽が兼家にダイレクトにつながっていることを象徴する演出ですね。



2.兼家が見せる弱気っぽさのおかしきこと

(1)不穏な道隆

 晴明と呪詛絡みの話をした後、兼家は悪夢にうなされて、起きます。同衾していた道綱の母、寧子に「呪われておる。俺は院にも、帝にも、死んだ女房にも呪われておる…」と弱音を吐き、怯えています。自身で思っていた以上に彼は、これまで積み重ねてきたことの業の深さを感じていたのでしょう。先にも述べましたが、晴明を叱責したことも、道長に「人を殺めるな」と忠告したことも、全ては自身が手を穢してきたという自覚の裏返しです。生前、穏やかだった嫡室、時姫にすら呪われていると思い込んでいるのは、おそらく道兼を駒としていることへの後ろめたさでしょう。

 勿論、談義で蔑んだ晴明からの呪詛という可能性も捨てきれませんが、彼はそうした術を操る以上に人の心を読み、その心を操るほうが長けています。彼は巧みに自分がいなければ、この先受ける多くの恨みをかわせないということを暗に吹き込んでいましたからね。彼の弱気をほんの少し、後押しするだけで、悪夢を見せることは簡単に思われます。


 「怖いよー」とすがる兼家を「大丈夫でございますよ。殿は何にも負けません、大丈夫大丈夫」となだめるのは寧子ですが、彼女は彼女で彼の弱気を逃さず、ついでに「道綱のことお願いしますよ」と肝心なことをここで焼きつけておこうとします。悪夢のせいで恐慌に陥りながらも、道綱に何の関係が…と返す兼家ですが、怯える気持ちには勝てません。そのうち、寧子は「道綱道綱大丈夫大丈夫」と、あからさまに混ぜこぜにしてなだめます…サブリミナル効果ですかね(笑?
 兼家に身勝手な面があることは重々わかっていますから、従順な女性であることを演じながらも、息子のため母としてなすべきことはきっちりやる寧子の逞しさは大したものです。


 ただ、半ば滑稽なこの場面、兼家の孤独さも垣間見えます。騙し合いの内裏では心許せる者はいません。傍にいるのは、晴明や為時などの手駒です。政治家として外でのことは仕方がないとはいえ、彼は「家」の中でも大差ありません。側妻の家へ行けば、寧子は道綱のことが第一、その道綱は「家」のために敬遠しているため心苦しい。
 では、嫡妻の子と上手くいっているかと言えば、道兼は息子としての情を捨て手駒にし、詮子からは敵視され、道長はまだ頼りないと来ています。唯一、頼りにできそうなのは、独立している嫡男道隆ですが、彼を穢さないため、後ろ暗い策謀は内密にしてきたぐらいですから、抱えたものを共有する相手とは言えません。


 また、道隆の動きは、少し怪しくなってきました。道隆は、道兼とサシで飲んだ際、「お前は気が回る。そのぶん父上にいいように扱われてしまう」と道兼の気質と才能を褒めながら、逆に父、兼家を悪役に仕立てる言い方で、自身が一番の理解者であるように振る舞い、彼を丸め込んでいます。「家」のため汚れ役を引き受けると覚悟を決めたことをうそぶく道兼の本心は、誰かから心から必要とされ愛されたいというものです。ですから、兄の言葉に顔をくしゃくしゃにして泣き出し、道隆に抱き寄せられると、あっという間に籠絡されます。

 しかし、膳を運んできた嫡妻の貴子と目を合わせた道隆の表情は冷たいものです。あくまで、個人的に道兼を手駒にするための懐柔策だとわかります。兼家は、心を折ることで手駒にしましたが、彼は懐柔策を使います。これは、漢詩の会で使った手と同じです。貴子という名参謀の策と、自らの雅やかな振る舞いと教養によって、一気に有力な若手を自分のシンパにしたあの一件は、彼にとっての自信となったのでしょう。今回の夫婦の目配せからしても、道兼を呼び寄せたこと籠絡の策自体を貴子は承知していて、目配せも上手くいったという合図に過ぎないと思われます。


 父の操り人形にしか過ぎなかった道隆は、貴子と二人三脚でその落ち着いた雰囲気に見合った方法を使い、独自の動きを見せ始めています。これが、兼家の意向に沿うものかどうかは、今のところはわかりません。少なくとも兄弟愛から、道兼への思いやりといったものから彼を慰めたわけではないことは確かでしょう。
 あくまで後に中関白家と呼ばれるようになる道隆の「家」のためです。真っ当な帝王学を叩きこまれた操り人形だっただけに、道隆の本質は、誰よりも酷薄で情の無い政治家として覚醒しつつあるかもしれません。


 話を兼家に戻しましょう。兼家の「家」に家族は、自分の野心を優先する人間か、彼を敵視するものか、彼の役に立たない者か、あるいは彼自身が遠ざけている者かしかいません。道隆は表向き従順ですし、道兼、道綱は彼を慕っていますし、道長も政に距離を置いているだけで兼家を嫌っているわけではありません。寧子にしても兼家を大切にしているでしょう。

 しかし、表向きはともかく、その実質はバラバラです。独自の道を行き始めた道隆は道兼を懐柔し、詮子は袂を分かっています。そして、道長と道兼の間は最悪です。兼家が、我が家の繁栄のためにやってきたことで、右大臣家の中の絆は形骸化していると言えるでしょう。家族の絆なき我が家の繁栄とは皮肉なことですね。この皮肉も「おかしきこと」かもしれませんね



(2)兼家の上辺の弱気が招くこと

 さて、悪夢を見て以降、兼家の様子はおかしくなります。あれほど精力的に敵対するものを排除し、政においては正しいと思ったことをねじ込む辣腕を見せた兼家が、何事にも消極的です。政敵である花山帝の腹心、義懐を参議へと昇進させました。
 また、忯子に「皇后の号を送りたい」という花山帝の意向についても、無礼な義懐に対する反発からか、公卿らが次々「わかりません」「ありえません」と否定する中、彼だけが「先例が見つかればよろしいかと」という中途半端な返答し、皆が訝るような表情をさせています。つまり、政敵に阿るような態度を取り始めているのです。

 特に義懐が公卿になった件については、実資が「帝はいよいよおかしくおわす」腹を立てていましたね。その苛立ちは、得意の蹴鞠すらままならないほどです。良識と典礼を重んじる実資からすれば、蔵人頭になったばかりで実績もなく、帝に追随するばかりの無能な義懐が、長年、蔵人頭を勤めてきた実資を差し置いて参議になることは、義懐の能力的にも朝廷の慣例的にも理解しがたいことです。

 そして何よりも実資が不可解なのは、兼家が除目に異議を唱えなかったことでした。「右大臣さまは、はっきり言って好きではないが、言うべきことはきっぱり仰せになる筋の通ったお方。そこは認めておったのに」という実資の人物評が効果的ですね。野心家ゆえに信用がおけずとも、政治家としては有能であるということです。そして、その有能さゆえに、誰もが一目置き、晴明もそれなりに協力していたのです。実資も筋が通れば協力していたことでしょう。実資のような公正な人から「此度はなんだ!」と言わせてしまうほどに兼家の様子は普通ではありません。

 因みに実資、この件について「日記には書かん!」と絶叫していましたが、しっかり『小右記』に「義懐が参議とは何なんだ」と不満たらたらに書いています。まあ、奥様にあれほど「くどい」と繰り返されるほどでしたから、書かなければ消化できなかったのでしょうね(笑)

 そして、極めつけは、兼家のために帝を探る間者を務めていた為時が、帝を騙し続けることが辛くなり「このお役目は…お許しくださいませ」と辞去を申し出たときです。それまであまり報告に来ない為時を揶揄するように詰っていた兼家は、急に驚いたような顔をし「そうか、そんなに苦しいこととは知らなかった」と申し訳なさそうな表情をすると、あっさり「長い間、ご苦労であった。もうよい、これまでといたそう」と笑顔で労います。

 しかし、花山帝の動向は、彼を退位させたい兼家にとっては最も大切な情報の一つです。放棄するものではありません。いつもの兼家であれば、為時をなだめすかし、あるいは恫喝して、続けさせます。ですから、この話を聞いた宣孝は「わからんの。右大臣さまが一度つかまえたものを簡単に手放すとは思えんの」と訝しむのです。


 兼家は一体どうしたのでしょうか。実はその答えは、今回だけではよくわかりません。二つの可能性を考えてみましょう。

 一つは、心弱くなったという可能性です。晴明とのやり取りと悪夢という流れからすると、晴明の吹き込んだ「私を侮れば、右大臣さま御一族とて危うくなります」という毒が効いているかのようにも見えることが根拠です。その場合、花山帝の子とその母を呪詛したことが、右大臣家へと返ってくることを恐れていることになるでしょう。
 因果応報が信じられた時代、呪詛は悪因悪果、必ず自分にも返ってくるものでした。人呪わば穴二つとは、陰陽師が呪詛する場合は万が一に備え、自分と相手の墓を掘るという倣いからきたと言われます。ですから、それを兼家が恐れたというのは、あり得ない話ではありません。

 もしそうであるならば、花山帝に阿る裁可のいくつかは、罪滅ぼし的な行為によって祟りを避けようとしていることになりますが、その一方で晴明たちの言葉を軽んじ、顎で使ってきた彼が、悪夢によって急に迷信深くなったとしたら、それは老いの始まりでしょう。985年ですと、彼は57歳ですから、当時としては割と高齢です。ないとは言えません。


 もう一つの可能性は、心弱くなったふりをしているということです。というのも、兼家が花山帝に阿るような対応をするようになって、一番評判落としているのは、兼家ではなく花山帝とその腹心、義懐のほうだからです。忯子を失って以降の花山帝は、一日中臥せるなど、政に関しては義懐任せで無気力です。晴明の狙い通りと言えるでしょう。その義懐が帝の意向を盾にして、専横を振るおうとして、他の公卿から総スカンを食い、浮き上がっているのが現在の朝議の状況です。
 結果、若くして果断に飛んでいた花山帝の求心力も下がっていきます。あれほど忯子を利用して出世をしようと企んでいた斉信が、忯子を入内させたことが間違いだったと吐き捨てていることが、それを象徴していますね。

 つまり、兼家の不可解な言動は、実は政敵である花山帝を着実に追い込んでいると言えるでしょう。となると、兼家のこの行動は、晴明の目論見を受けての戦略的振る舞いであるかもしれません。一見、弱った振る舞いをしたとき、誰がどういう反応をするのかを見定め、自分の味方になる者、味方にすべき者は誰かをふるいにかけているのです。
 この場合、兼家は、いよいよ花山帝を退位させて、貴族たちの頂点に立つ政権を奪取するための準備を着々と進めていることになります。さらに言えば、息子たちの反応すら信用しきらずに窺っているかもしれません。その場合は、道隆が足をすくわれそうですね。そして、足固めが十二分に済んだところで、兼家は牙を剥くことになります。


 兼家の不可解の理由がどちらになるかわかりませんが、少なくとも史実的には、「筋の通ったお方」という実資評をかなぐり捨て、強引な形で花山帝を退位させ、息子たちを出世させ、自分の家を他の公家たちとは格の違うものにするために様々な手段を講じていくことになります。

 その強引さが、前者のような弱気から来る言動であれば、怯えと老いによる焦りと暴挙として描かれることになるでしょう。逆に後者のような弱気のふりをして虎視眈々と狙っていたのであれば、大胆な戦略をもった恐るべき政治家としての面が露わになることになります。晴明であれば、寧ろ、後者の兼家を期待しているかもしれません。腹立たしいけれども、駆け引きの「楽しめる」政治家は、有能ですからね。


 もっとも後者の場合、為時は実に不味い判断をしたことになります。宣孝の言ったように任官が解かれ、苦境に立たされるでしょう。情にほだされ時流が読めない為時、そんな父を支持するまひろと親子揃って、世間ずれしているとしか言えません。乳母の「どうか右大臣さまの間者でいてくださいませ」という泣きながらの懇願が痛々しいですね。

 ともかく、兼家の不可解な言動とそれに振り回される周りという構図は、政が民のためにあるのではなく、野心の道具としてのみ機能していることを表していますね。その歪もまた「おかしきこと」と言えるでしょう。



3.平安貴族の婚姻の「おかしきこと」

 ところで今回、多くの視聴者が心を痛めたのは、打毬終了後、倫子の猫、小麻呂を追っかけてきたため、公任たち平安男子たちの話を聞いてしまう場面ではないでしょうか。運動系男子の部活後のロッカーでのボーイズトークを、ヒロインがひょんなことから聞いていしまうという展開は、少女漫画あるあるな気がしなくもありません(笑)そして、口さがない同性同士の会話が聞くに耐えないものであることもままあることです。というか、教員としての経験から言えば、男子校の男子だけの会話も、女子大の女子だけの会話もえげつなかったです…(苦笑)


 前々からそうですが、自信家の公任と斉信の話題は、出世と女性の品定めです。それを苦笑いしながら聞く行成と関心無さげに聞き流す道長というのが、4人の会話の特徴です。今回は腹痛の行成にかわって直秀がいますが、話題には加わりません。

 話題は、ききょうのことです。斉信によれば、あからさまな誘い方を避けるためにききょうついでにまひろも誘ったという話が出ます。道長が誘ったわけではなかったと知っただけでも、まひろにはショックです。彼女があれだけ自身の目的と恋心に葛藤しながらも、打毬観戦に来たのは、道長からのお誘いと信じた面もあったはずです。


 名前すら覚えてもらえず、為時の娘としか言われないまひろについては「あれは地味でつまらんな」(公任)「あれはないな」(斉信)というにべもない評価です。まひろは、五節の舞のとき、倫子に「自分を見初める殿方なんていません」と豪語しましたが、それは自己肯定感の低さからくる自虐ネタです。
 自虐というのは、先に自分で自分を貶めることで、他人から否定的に言われることを防ぐ自己防衛の一つです。他人から全否定されることについての耐性は全くありません。ですから、公任らの辛辣な言葉は、まひろの心に大きな亀裂を入れたことは想像に難くありません。


 土御門の姫にご執心ではなかったかと冷やかす公任に、斉信は「今日見たらもったりしていて好みではなかった」とルッキズム全開の一言を言い放ち、あまりの言葉に「ひどいな」と周りも呆れるほどです。というか、誰か斉信を殴れ、黙らせろ←
 倫子はまひろにとって「あのような方がいるとは…」と憧れる女性です。身分も品格申し分ない女性です(因みに本を読むのが苦手というのは、場を和ませる嘘ですが、まひろは気づいていないかもしれません)。そうした彼女すら、男性たちの笑いものとして蔑まされることが、また耐え難いものに聞こえたことでしょう。



 友人らの非難もどこ吹く風の斉信は「今はききょうだ。今はききょうに首ったけだ!」と激情を口にします。懲りない斉信に公任は「だけど女は本来、為時の娘のように邪魔にならないのが良いんだぞ。あれは身分が低いから駄目だけど」と、あまり夢中になるなと釘を刺します。既にここまででまひろのメンタルはボロボロなのですが、彼女を最も動揺させたのは「身分が低いから駄目だけど」との言葉でした。
 このときのまひろのぎょっとした表情は、表向きは我が家の自立のための「私は道長さまから離れなければならない」という言葉の裏にあるのが、私は彼に相応しい身分ではないというコンプレックスであることを示しています。内心を言い当てられたような衝撃があったことでしょう。


 そんなまひろの存在など気づかない公任は、「俺たちにとって大事なのは、恋とか愛とかじゃないんだ。良いところの姫の婿に入って、おなごを作って入内させて、家の繁栄を守って次につなぐ」と貴族の生きる正道を説きます。第4回のnoteでもテーマにしましたが、貴族にとって大切なことは「家格」です。自分の家の家格を上げ、繁栄させ、次に繋ぐのが個人の役割となります。個人は自己を滅し、「家」という社稷に仕えるのです。

 平安貴族にとっての当たり前を公任は述べているだけですが、道長への恋心を胸に秘めているまひろにとっては、残酷な仕打ちに他なりません。心はほぼ完全に砕けています。それでも、その場をまだ逃げ出さないのは、道長がそれをどう思っているのかを知りたい…正確には彼にそれを否定してほしいという少女らしい一縷の望みでしょう。


 さて、公任は「女こそ家柄が大事だ。そうでなければ意味がない」と続けます。家格を上げるには、家格の高い女性との婚姻が手っ取り早く、そしてそのことが出世の問題とも大きくかかわるからです。平安貴族らにとっては常識ですが、女性は彼らの格と出世のための道具だと明言する言葉です。今風に言えば、トロフィーワイフの一種となりますか。どちらにせよ、彼らは女性の人格を最初から無視、あるいは問題にしていません。

 そして、公任は「そうだろ道長」と呼びかけます。いよいよ、まひろの気になる返事ですが、道長はいつもの如くこうした話題には乗り気ではありませんから、半ば聞いていなかったような肯定とも否定とも取れない曖昧な返事しかしません。予想通りの言葉に公任らは、いつものように冷やかして笑いますが、一縷の望みをかけていたまひろにとっては、心を粉々に砕く返事でした。道長も公任たちと同じ種類の男たちでしかなかったと思い込んだ彼女は、ショックのあまり小麻呂を雨の中に置き去りにしたまま走り返ってしまいます…それにしても、小麻呂…←


 ただ、道長の曖昧な対応は責められません。ノリが重視されている雰囲気でありながら、それに自分が乗れないとき人がやる対応は、その場の空気を壊さないようにすることです。彼は、事を荒立て人と争うことを好みません。我の強い彼らと上手くつきあっていく処世術として、それをやっているに過ぎません。勿論、その場にまひろがいることを知っていれば、彼女の名誉を守るため、違う答えをしたでしょう。彼女は知りませんが、道長は彼女の母の死に憤り、兄道兼を殴りつける人ですからね。

 因みに道長は、皆で投壺(矢を壺に入れる遊び)をしている際に「入内はおなごを幸せにせぬと信じておる」と明言しており、家の繁栄のために女性を犠牲にすることを良しとしていません。したがって、「そうだろ道長」という呼びかけは、以前の彼の台詞を右大臣家の三男ならではの呑気な言葉と受け取った公任の意地の悪い呼びかけであったかもしれませんね。まあ、確かに後々、娘たちを入内させることになる道長ですから、一体どんな変化があったのか気になりますね。


 それにしても、まひろに人生経験がもう少しあれば、道長の対応が単なる処世術と見抜けたでしょうが、いかんせんサロンでようやくぎこちない愛想笑いができるようになった程度のコミュニケーション能力の低いまひろでは気づきようがありませんね。まさか、彼女のコミュ力の低さが、こういう場面で悪い形で生きてくるとは思いもよりませんでした。


 ところで、男どものルッキズム、女性を道具としか思わない発言は、典型的なトキシックマスキュリニティ(有害な男らしさ)で、腹立たしいものがあります。また、貴族間の婚姻が、個人の感情よりも「家」が優先されてしまうことは、現代人から見て不幸かもしれません。

 ただ、公任らは婚姻と家の繁栄を一面的にしか見ていないという点では愚かで傲慢であると言わざるを得ません。そもそも、女性によって「家」の家格が上がり、繁栄するというのであれば、男たちはその点において全く無能ということに他なりません。単なる種馬です。家格の高い女性たちに婿として選ばれなければならないのは男たちのほうです。男性は偉そうにしていながら、女性がいなければ何もできないのが、平安貴族の婚姻システムとも言えるでしょう。

 また、これまでの「光る君へ」を見る限り、女性たちは非常に政治的に動くなり、したたかに振る舞うなりしています。生活にあくせくするしかない下級貴族はそうもいかないでしょうが、上流貴族の女性たちは、かなりしたたかですよね。彼女らが、単に不幸な人ではないということは注意しておきたいところです。


 そして、今回の打毬です。男性陣たちは自分が女性たちを品定めしているつもりで騒いでいましたが、あの試合のカメラワークを覚えているでしょうか。あの場面でカメラが抜くのは、道長たちのプレイを追うか、道長たちの全身か、打つ瞬間のバストショットかをクローズアップするものばかりです。結局、試合の全容、どちらが勝ったのかも全くわからないというものでした。

 こうしたカメラワークは、ファンサービスというよりも、あの場で彼らを見る女性陣たちの眼差しを表現しています(彼女らの目線と同化した視聴者もいたでしょうけど)。
 道長がやたら多いのは、そのカットの多くがまひろが道長を目で追ってしまうものだからですが、ところどころに倫子やききょうたちの表情が挿入されています。赤染衛門までまんざらでもなく盛り上がっていましたが、特に印象的なのは、道長を見つめてしまった倫子のカットでしょう。あれは、恋に落ちた瞬間そのものになっていましたね。

 つまり、姫様方の関心が打毬そのものよりも、男子勢の鑑賞にあるということです。品定めをされているのは、彼らのほうなのでもあるということです。


 こうなると「ききょうも遊び相手としか見ていないけどな」などとほざいていた斉信もどうなることやら。何せ彼は、彼女が人妻であることすら知らない有様。しかも、ききょうの最初の夫は、斉信に仕える家司的存在ですから、知らないというのは迂闊、間抜けというものです。
 因みに彼女は漢詩の会の時点で、最初の夫との間に一子をもうけてもいます。彼女が、まひろに対して優し気なお姉さん目線であるのは、元々の性格だけではなく、人生経験があればこそでしょう。

 『枕草子』では、里に下がっていた清少納言について、斉信が「どこへった」と夫に詰め寄る場面はありますが、このききょうなら、斉信の下心など承知の上で手玉に取ってしまう話になるかもしれませんね。




おわりに

 今回は、貴族社会おける常識の数々のおかしな点、滑稽さが様々な形で見られたように思われます。ただ、哀しいことは、この「おかしきこと」が、道長とまひろの仲を裂いていくことが予見される点です。今回、公任らの会話を聞いてしまう場面のせいで、まひろのようがかなり苦しんだ印象がありますが、実際は道長のほうがより苦しむことになりそうにい思われます。


 「光る君へ」の藤原道長の美徳は、身分の貴賤、男女の違いを問わず、人を人として見られることです。だからこそ、まひろに嘘をつくこともなく惹かれ、また直秀に対しても敬意を払い、困ったときにも素直に彼に頼ります。盗賊稼業が裏の顔である直秀が、危険を冒して道長の要求に応えて打毬に付き合ってしまったのは、道長の人徳の成せる業でしょう。劇中では描かれませんでしたが、「なんで俺が…」としぶしぶ引き受ける直秀のお人好しが目に浮かびませんか(笑?
 また、博愛的で人を傷つけることも好まない気質も道長の美点でしょう。彼の優しく、呑気で穏やかな振る舞いは象徴的です。道長のこうした人間性は、人を見る確かな眼差しと強く熱い信念に支えられているようです。それは、時折、見せる物事の本質を突いた言動、まひろの母の死や直秀のピンチに激高するところから窺えます。


 ただ現代人の私たちには好ましく映る彼の美徳は、家格という身分を内面化している一般的な平安貴族たちの常識からは外れています。加えて、基本的に争いごとが嫌いな道長は、誰に対しても正直な気持ちを表す反面、抑制的で我を通すことはしませんし、現実的に彼には物事や社会を変えていく力も知恵も持ち合わせてはいません。
 頭の良い彼は、可能な限り周りと合わせながら、右大臣家の三男として無難に過ごすことを心得ています。平安貴族の常識から、彼自身の心根を守るためにも最適な処世術でもあることは、これまでのnote記事でも触れたとおりです。ただ、これは現実からの逃避でもあります。


 だからこそ、現実は穏やかで少年のような心を持つ道長に、現実は否応なしに選択を迫ってきています。例えば、彼の気づかないところで、まひろはその身分の格差と男たちの酷薄さに絶望し、彼の和歌を燃やしてしまいました。今まさに彼はまひろとどうすべきかを問われています。

 また、道長は、身分を超えた友人になれると思っていた直秀が、自分が射た盗賊であることにも気づいてしまいました。道長は彼が盗賊であることにも衝撃を受けたでしょうが、それ以上に自分が彼を射てしまったという現実に震えているような気がします。
 第7回の冒頭、道長は「弓矢、人を射たことは初めてゆえ」と浮かない表情をし、「ブスッと刺さった感じがした」とその感触の気持ち悪さに嫌悪を抱いていますから。因みにこの事態を招いたのは、民を向いていない平安貴族の政の歪みです。

 彼は平安貴族の常識の「おかしきこと」から逃げる中で、結局は好いた女性も無二の友も失ってしまうのかもしれませんね。

 

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?