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「光る君へ」第2回 「めぐりあい」 代筆仕事がまひろに見せる相手への思いやりの大切さ

はじめに

 まひろが子役から吉高由里子さんになり、いよいよ彼女自身が能動的に動き出しました。それが彼女の物書きの原点となる代筆業です。その一方で描かれたのは、まひろ&為時、九条流一門の親子関係、そして詮子&円融帝、麻彦&女房の恋愛関係です。第1回同様、対比関係で描かれることがまひろの物書きとしての本質とつながっていくという構成です。

 そこで今回は、親子関係と恋愛関係が、まひろの物書きとしての成長とどうつながっていくのか考えてみましょう。



1.理解し合えぬ親子関係~まひろと為時の場合~

 984年、母ちはや殺害から6年、成人の儀式「裳着の儀」を迎えたまひろですが、重たい衣装と格式ばった儀式に文句を言う様からは、彼女がまだ貴族の女性として生きることを受け入れていないことが窺えます。

 ですから、儀式に立ち会ってくれた宣孝の「これで婿を取れるし、子も生める」との言葉にも、あからさまに疑わしげで面白くなさげな表情をしています。母ちやはは、夫を真摯に支え、夫の出世を敬虔に祈り、まひろや太郎(惟規)に愛情を注ぐ良妻賢母の鏡のような人でした。しかし、その結末は、道兼による惨殺を夫によって隠蔽されるというもの。
 まひろの眼には何一つ報われない人生だったようににしか見えないのでしょう。6年経っても、その思いは昇華されないまま、彼女の中に父への不信という形でくすぶり続けています。


 婿を取り、子を産むという平安貴族の女性としての当たり前に意味を見出せません。宣孝の「突き詰めて考えすぎると幸せが逃げるぞ」との軽口の忠告にも「幸せとはなんでございますか?」と真面目に問い返す始末。ああ言えばこう言うにも見えますが、母の生涯を思うにつけ彼女の中ですっと思い詰めてきた問いかけなのでしょう。

 それを象徴するのが、宣孝との会話の中で、まひろが何度も繰り返す「わかりませぬ」という言葉です。最初の「わかりませぬ」は、父の気持ちのこと。そして、次は、母が言った「大人になれば両親それぞれの男女としての思いがわかる」という言葉に対してです。そして、三つめのそれは、道兼が右大臣の子だと分かったら「父上にどうせよと言うのだ?」という宣孝の問いに対してです。



 まひろにとってみれば、為時は家族よりも自身の出世や体面を大切にする身勝手な男です。そんな男の気持ちなどわかろうはずも…いや、わかりたくもないのでしょう。それは母への裏切りに思えるからです。しかし、為時を理解しようとしない以上、何故、ちやはが為時を愛しぬいたか、それもわかりません。もっとも知りたいのは敬愛する母の思いですが、自覚的に恋をしたことがない彼女には理解が追いつきません。

 また母を殺害した犯人を突き詰めて、どうするべきなのか、その答えも思いつきません。道兼が罰せられれる、また父が告発してくれたなら気は晴れるかもしれませんが、それは我が家の破滅であることは流石に今の彼女にもわかるでしょう。それは、母の望むことではありません。
 しかし、このままでは母の死はあまりにも救いがありません。答えを見いだせず、悶々と自問する彼女は、宣孝が去ったその後で一人、そのすべてについて改めて「わかりませぬ」とつぶやきます。



 まひろが幼き日から6年もの間、忘れることもなく母の死という闇を抱え続けているのは、彼女自身の問題ですが、彼女をそうさせた一端は為時にあります。二人は冒頭からまともには目を合わせません。逃げるように宣孝を誘い、縁側で酒を酌み交わします。そのとき漏らした言葉は「この家は居心地が悪すぎる」「(まひろと)目を合わせるのが怖い」というものです。

 ちやはの死の真相を隠蔽したことは、宣孝が「あれはいい了見であった」と慰めていることからも、家を守る対応としては無難な判断だったと思われます。とはいえ、為時なりに(当時の平均的なレベルで)ちやはを愛していたのでしょう。その隠蔽には後ろめたさがあるのです。


 そんな為時の複雑な胸中を幼いまひろは慮ることはありません。おそらくいつも彼を責めるような眼差しを向けていたのではないでしょうか。後ろめたさを忘れさせてくれないこの家は居たたまれないものになっていったのです。因みに彼は、このころには側室との間にも子を設けていますから、嫡男太郎の養育のためにだけこの家を訪れ、それ以外では寄りつかなかったと察せられます。

 そして、その行為は、さらにまひろの不信を買ったことでしょう。まひろの哀しみに向き合わない父の態度が、彼女の悩みを深くしているのですが、彼にその自覚はありません。それは、不器用というよりも、自身を優先する彼の身勝手さかもしれません。ですから、彼の言葉には娘への愛情というよりも、娘を持て余す困惑だけが匂ってしまうのです。


 結局、彼の関心の一番は、「学問の才を生かして出世したい」…このことです。まひろの責めるような視線は、そのためには煩わしいものでしかないでしょう。まして、東宮に仕えるようになって以降も除目で役目が与えられていません。その焦りが、ますます彼の自尊心を苛んでいます。まあ、あんな自己推薦状(第1回)を書いているようでは、心証が悪く不採用は当たり前ですが(笑)しかも、どうも今回の円融帝は根に持つタイプに見えますし。

 ただ、学問による出世しか頭にないという為時のあり様の評価が難しいのは、そうした彼の出世をちやはも望み、そのために献身してきたという点です。決してそんな夫婦関係に満足してはいなかったにせよ、その結果が生活を楽にし、まひろたちを過ごしやすくするという彼女の幸せのきっかけになるとは信じていたでしょう。ですから、彼の出世はある意味では、ちやはの供養になるのです。


 もっとも、為時に自身の出世がちやはの供養にもなるという意識があるかどうかは、今のところしかと描かれていませんからわかりません。もし、わずかでもあるならば、まひろには犠牲にしか見えなかった彼らの夫婦関係も、大人になればわかる夫婦関係の機微があったということになりますが…

 ただ、現状では、学問による出世しかない為時は、どこまでも娘の気持ちには寄り添いません。物語の終盤、まひろの代筆を知った為時は「なたがわしと口を聞かぬならそれでもよい。されど学者である父の顔に泥を塗るようなことは許さん!」と叱りつけます。あくまで、自分の体面と出世が第一なのです。ですから「代筆仕事にうつつを抜かすなどあってはならん」と聞く耳を持ちません。

 ここに至って、まひろは「代筆仕事は私が私でいられる場所なのです。この家では死んでいるのに、あそこでは生きていられる。色んな人の気持ちになって歌を読んだりするときだけ6年前のことが忘れられるのです」と笑顔で楽しげだった裏にある胸中を吐き出します。
 第1回note記事で、まひろは「思いを昇華すること、悩みを慰めること、楽しませることといった架空の物語を想像し作り出す力というものを感じ取っている」ため、書かずにはいられなくなるということを書きましたが、まさにそのとおりだったようです。

 しかも「この家では死んでいる」の言葉が重いですね。彼女の心は、母の死んだ6年前に死んでいるのです。まひろの心の死は複雑です。ちやはの死は彼女の言動が道兼を怒らせた結果で、まひろに罪はありません。しかし、あの日、まひろが三郎に会おうと急がなければ、道兼との遭遇は避けられた。この点に罪の意識があるようです。だから、今回、道長に再会した折に、あの日のことを話せなかったのでしょう。

 そして、母の死のきっかけを作ったばかりか、仕方がないとはいえ、母の死の真相を隠蔽する父に結果的に加担することで、今なお生きながらえている。この二つの罪にずっと悩んできたのです。ですから、父をきっと鋭く見返し「母上と私を裏切った父上を忘れられるのです!」と正直に吐露したのです。
 しかし、為時は娘の正直な怒りと哀しみを、自分への脅しとしか受け取りません。娘の罵倒の裏にある自分を責める思いに気づくことはありません。出世のみ頭にある為時と、家族のことが頭を占めるまひろとの6年間のすれ違いは、親子を埋めがたい溝を生んでいますね。



2.子どもたちの心を利用する兼家

 親子間の溝は、為時&まひろという下級貴族だけのことではありません。兼家たち九条流の上流貴族も同様です。ただ、兼家が、娘の態度に戸惑い、持て余していた為時と違うのは、子どもらの心情など百も承知で、それを利用できる狡猾さと厚顔の持ち主であるということでしょう。

 まず、詮子母子に対しての対応です。兼家の目論見どおり、彼女は皇子を生みました。その結果、円融帝は、兼家の専横を牽制するために遵子を中宮とし、詮子を遠ざけます。これを知った兼家は、詮子と皇子を兼家の邸宅に引かせようと画策します。彼は「私の手元に置けば、生かすも殺すも私次第」とうそぶき、皇子を利用して、円融帝に脅しをかけ退位を迫る提案をします。

 このくだりは、自身の栄華のためであれば、帝すら敵ではなく、また血を分けた孫の皇子すらも、権力闘争の駒に過ぎないという彼の身勝手と冷徹さを端的に示しています。そして、彼のあり方こそが、貴族社会の世界、男たちの世界です。実資が、兼家を「好きではないが」と三度も言いながら、彼の手腕を認めているのは、その冷徹さが政では必要だからです。


 結局、入内した詮子よりも身分が低い兼家は、娘の「負け犬のようで気が進みませぬ」という感情的な言葉に一端、引き下がりますが、彼自身は諦めてはいません。帝の寵愛を取り戻したい詮子の思いなどは、彼の栄華には利益をもたらすとは考えられないからです。円融帝を愛する彼女の思いを踏みにじることなど意に介しません。

 だからこそ、彼は息子、道兼を連れ、都を一望できる丘へ二人で馬掛けをします。常々、長男に言いようのないコンプレックスを抱く道兼は、父に自分一人が誘われたことを、そして、我が家が都を高いところから見下ろさなければならないというその野心を聞かされたことを、ことのほか喜び、そのために何でもすると誓います。


 息子からの決意と申し出を確かめた兼家は、彼に帝の食事に命を取らない程度の毒を盛るという後ろ暗い計画を託します。何故と問う息子に「そのようなことをなすのがそなたの役目だ」と諭します。なおも納得しかねる道兼に「6年前、お前は家の名を穢した。そのことをわしが知らぬと思っておったか」と、ちやは殺害の件を切り出します。貴族社会において蝕穢を避けることは重要です。血と死は穢れの最たるもの。だから「高貴な者は自らの手で人を殺めぬ。その掟をお前は破った」ことは、致命的な問題なのです。内々に済ませたつもりの道兼の上手をいく兼家の手配りは、周到ですね。


 兼家は追い打ちをかけるように「お前を守るため、わしはあのとき従者を始末した。お前のおかげでわしの手も穢れたのだぞ」と、道兼の罪の意識を刺激します。がっくりうなだれた彼は、暗闘に身を染めることになります。このとき、道兼は「お前を守るため」「わしの手も穢れた」と言っていますが、これは道兼の父への敬愛を利用した詭弁ですね。何故なら、第1回で兼家は時姫に、道兼について「嫡男道隆を汚れなき者にしておくために泥をかぶるものがおらねばならぬ」と汚れ役をやらせるつもりであると語っていましたから。


 6年前にこの事件を処理したときから、こういうときが来ることに備えて、彼の罪を隠しておいたに過ぎません。まして、彼は父に認められたくて仕方ない承認欲求の塊です。そこをくすぐれば、難なく駒となるでしょう。深謀遠慮と言えば聞こえは良いですが、息子の純粋な思いを利用し尽くす兼家の非情さと冷酷さが際立ちます。そうとも知らず、操られていく道兼は愚かですが、哀れでもありますね。


 それもこれも、全ては政において権勢を握る、それこそが貴族社会における栄華であり、自身の家の繁栄につながるからです。家を栄えさせる、そのために婚姻はあり、子どもはあります。家の繁栄を目指す兼家には、子どもらの気持ちを踏みにじることに対する罪障感は全くありません。

 そして、これが大なり小なりの違いはあれど、根本的には下級貴族である為時の理屈と同じであることも見逃せませんね。



3.生きる世界の違う男女のすれ違い

 為時と兼家のあり方は、権勢欲や出世欲といった貴族社会の男たちの論理が、いかに社会を貫いているかを端的に表しています。家の繁栄を理由に、彼らの欲望で政は行われ、個人の気持ちというものは、その元に組み敷かれていかざるを得ないのです。貴族社会の男たちは、それを是とし、何の疑問もなく、その理屈で生き、世を支配しています。その強固さは、今の世にも少なからず生きていますから、この時代で覆すことはできません。


 そうした理屈にあることを宮中に入内した詮子は、多少なりとも知るからこそ「この世の中に心から幸せな女なんているのかしら。みーんな、男の心に翻弄されて泣いている」と断言するのでしょう。それは、男たちに泣かされているというだけではなく、宮中の女性たちにも泣かされているという意味が含まれているよう思われます。

 というのも、男たちの関心を買うために生きている以上、宮中の女性たちはライバルでこそあれ、心からの友は得にくいからです。また、そういう女たちの噂話に苦しめられたことも多々あったことでしょう。

 その窮屈さと生きづらさが、詮子に「ただ一人の殿御」である「帝のお心をもう一度取り戻したい」「まだ諦めたくない」と言わしめているのです。彼女は、それにしかすがるものがないからです。まして14歳で入内し、彼女はまだ21歳。女として終わったと思うことは辛いはずです。
 道長の恋バナに盛り上がる詮子は、確かに恋愛脳ですが、実はその恋愛脳の裏にある心中はかなり切ないものであることは押さえておきたいところですね。 
 それだけに、和歌で必死にその思いを円融帝に伝えた結果、彼にすげなくされるという結末は哀れです。


 ただ、円融帝に言い分はあります。立場こそ最高権力者であり、新政を行おうとしていますが、それは盤石なものではありません。兼家を見てもわかるとおり、心から敬われているわけではありません。権勢欲と出世欲だけの貴族らの欲望の中を上手く立ち回らなければ、生き残れません。つまり、彼からすれば、詮子を遠ざけたことは死活問題として行ったことだったと言えるでしょう。

 そんな彼からすれば、自身の恋心のみに突き進む詮子は、立場をわきまえない愚かな行為でしかありません。彼が求めているのは、自身を慈しみながらもそれに溺れることなく、帝という立場のパートナーとして振る舞える女性です。だから、国母の名を持ち出して叱責し、それでもわからない詮子を見捨てる発言をしたのでしょう。

 もちろん、こうした彼のバランス感覚は、政治的には優れていても、一人の女が一人の男を慕う気持ちを救うものではないのも事実。円融帝の言葉は、詮子にとっては思いやりの全くない、傷つける言葉だったでしょう。権力闘争の最前線にいる円融帝と詮子、彼らはお互いの立場、求めていること、それぞれの辛さを共有できず、自己だけを主張してしまい、すれ違ってしまいます。
 恋愛とは、相手がいて成り立つ…そんな簡単なことにもなかなか気づけないものですね。

 また、二人は、こういう世の中でなければ出会わなかったでしょうが、一方でその立場ゆえに、思いを伝え合うこともままなりません。これも男たちの論理の犠牲の側面がありますね。



4.代筆仕事から見える恋愛で大切なこと

 詮子が円融帝との思いが、ままならない状況とは裏腹に、まひろのアドバイスもあって身分違いの恋を成就させたのが、文盲の麻彦です。彼は学の深い女房のために、自身の文盲を隠して、和歌の代筆をまひろに頼むのですが、梅の歌は一緒見た覚えがないと怒られ、そのとき咲いていた夕顔の花の歌も突き返されます。
 因みにこのとき、まひろが書いた夕顔の和歌「よりてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる花の夕顔」は、「源氏物語」で光源氏が夕顔に「逢いたい」と詠んだ歌です。このときの経験まで、材料としてストックしていたということになるんですね(笑)


 さて、ここまでされたこの麻彦が何故、この女房と結ばれたのか。それには二つあります。まず、一つは、彼が二度突き返されても諦めなかったことです。男女の和歌の贈答は、姿の見えない相手との恋愛の真剣勝負ですから、当然、駆け引きがあります。送られた女性がつれない返事をすることで、相手の真意を確かめることもあります。ですから、割と草食系…というか、絶食系も多い昨今だと信じられないでしょうが、ここで心折れてはいけないのですね。
 私の友人にも何度も何度もアタックし成就、結婚して今も幸せにやっている人がいて、麻彦を見ていたら急に思い出しました(笑)


 そして、もう一つが、まひろの、自分を偽らず、文盲であることを正直に告白するというアドバイスです。ここで重要なのは、まひろのアドバイス内容だけではありません。まひろが、このアドバイスに至るまでの経緯も大切です。彼女は最初、上手い和歌だけを詠んで麻彦に渡し、失敗しました。その際、今度は彼女と会ったシチュエーションを聞き夕顔の歌を仕上げます。
 そして、それも失敗に終わったとき、ようやくまひろは「彼女のことをもっと詳しく教えよ」と相手のことを知り、和歌を渡す相手の気持ちを慮ろうとしたのです。その結果、彼女は麻彦が文盲であることを知った上で、それを隠さず真心を向けてくれることを求めているということに気づいたのです。

 ここで、名前しか書けない(とまひろが思っている)道長の「歌は要らん」の言葉が、彼女の思考に効いているのが巧いですね。まひろは教養を介さなくても、真心で付き合えるだけでよい相手がいることを体験的に思い出せたのです。そして、その言葉を言った彼の気持ちを想像したとき、答えが出たのです。

 これは二つのことを意味しています。一つは、恋愛は相手がいて成り立つということ。だから、相手の気持ちや立場を慮ることなしに、自分の気持ちだけで走ってはいけないのです。そして、もう一つは、真心が大切ということ。和歌でも物語でもそこに人の真実がなければ、人の心を動かすことができないということです。

 まひろはお礼に来た麻彦たちに、人の心に通じていると誉めそやされ、「通じてないし」と自虐的につぶやいていますが、これは今回、自身の和歌で心を動かせなかったことも含め、自分の未熟も痛感したからでしょうね。


おわりに

 第1回、第2回と続けて入念に描かれたのは、権勢欲と出世欲に支配された貴族社会と男たちのあり様とそれに組み敷かれる女性たちの思いでした、しかし、そんな中でも人は真心を通わせようとします。それは、困難であってもいつか通じるのかもしれない。それをまひろは体感します。

 ここで思い出したいのは、冒頭で、まひろが書きつけた「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(訳:人間の親心というのは闇ではないのだが、我が子を思う中では困惑し、迷ってしまったのだなぁ)」という藤原兼輔の和歌です。まひろの曾爺さんが書いたこの歌は、「源氏物語」でもたびたび引用されるもので、「源氏物語」のテーマとも深く結びつくものです。

 敬愛する母も、反発する父も、まひろにとってはその人格の核を成す人々です。母の言葉どおり、大人になって彼ら二人の思いがわかるとき、彼女は親の愛とは何かを知るときなのかもしれません。つまり、親のことを理解するには、親たちを結び付けた男女の恋愛についてもまた知らなければなりません。つまり、今回描かれた親子関係と恋愛関係の話は、どこかで密接につながるのでしょう。

 それが実感としてわかるのは、結婚して子を成すまでかかるかもしれませんが、まずは相手のことを慮る、真心の大切さだけは、わかったようですね。

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