見出し画像

サインの価値はどこに宿る?

我が家のリビングには、一枚のサインが飾られている。
昨年末だったか、同居人がファンイベントで手に入れたプロバスケット選手のサインだ。棚の上に堂々と飾られており、同居人は毎日嬉しそうに眺めている。

そのサインを眺めるたびに、一つの疑問が頭に浮かぶ。
サインって、一体どこに価値があるのだろうか。
物体として見れば、やたらぐにゃぐにゃした文字が描かれている一枚の色紙にすぎない。物体的な価値は皆無だ。それなのに、有名人のサインであれば何万円の値がつくこともある。世界的スターのサインなら、何千万、何億円もの値がつくこともあるだろう。
現代社会ではVRやARなど、やたらデジタルの世界で生きていこうとする流れが確立しつつあるというのに、サインというザ・アナログな物を求める風潮は数十年前から一切変わっていない。そこに異常性と面白さを感じている。

決して私は、サインに価値を感じるのがおかしいと言いたいわけではない。
私だって応援しているアーティストやスポーツ選手のサインが貰えたら、めちゃくちゃ喜ぶ。ただ、サインのどこに価値を感じているのか自分でもよく分かっていない。この記事では「サインの価値はどこに宿るのか?」について考えていきたいと思う。

まず一つ目は、「サインという物体そのものに価値を感じている」説。
例えば、アーティストがライブで着用した衣装や、プロ野球選手が着用していたユニフォームなどは、何度もその有名人が接触していることから、物体としての価値は高いと言える。たとえサインが書いていなくても、それらの価値が高いのは直感的に理解できる。
ただサイン色紙の場合、有名人との接触率はそれほどでもない。サインを書くときに左手で押さえておくぐらいだろうか。接触率で言ったら、色紙よりもサインペンの方が高そうだ。接触率の高さで価値が決まるのであれば、サイン色紙よりもサインペンを飾っておくべきだろう。

二つ目は、「サインに付随した経験に価値を感じている」説。
サイン色紙そのものではなく、サインを貰う過程で生じたコミュニケーションに価値を感じている、という説だ。サイン自体はその経験を思い出すためのきっかけに過ぎず、物体的な価値は無いのではないか。

例えばあなたの目の前に、あなたが愛してやまないアーティストのサインが2枚あったとする。それぞれをサインA、サインBとしよう。
サインAは、ネットオークションで落札して手に入れたものだ。そのサインが本物である確証はあるが、どこの誰がどうやって手に入れたのかは一切わからない。
サインBは、あなたがアーティストと実際に対面し、目の前で書いてもらったものだ。その際にアーティストとはいくつか会話を交わし、あなたを認識してもらった上で書いてもらっている。
この場合だと、サインBの方があなたのとっての価値は高いのではないだろうか。サインBには実際にアーティストと会話できた、という価値が付随しているが、サインAには物体的な価値しか存在しない。

もちろん人によって考え方は違うと思うのだけれど、私はサイン自体に価値があるのではなく、サインを手にいれる過程で生じたコミュニケーションに価値がある、と考えている。
例えば私はポルノグラフィティというアーティストが好きなのだが、たとえ彼らのサインをネットで落札して手に入れたとしても、大して嬉しくはないだろう。一応飾ってはおくが、「なんか書かれてるな」ぐらいにしか思わない。

でもどこに価値を感じるかなんて、人によって全然違うと思う。サインそのものが好きな人もいるだろうし。ここからコト主義とモノ主義の話に繋がるかもしれない。ここら辺の考え方の違いは面白いし、色々な人の意見を聞いてみたい。



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?