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【短編小説】「人生劇場」最終話

 タクシー運転手の小門政明こかどまさあきは、「とりあえず出してください」と男に言われた通り、交差点を右折し、O竹橋通りをN暮里駅方面に走り出した。小門は運転手歴13年目になるが、経験を重ねるにつれて、自然と身に着いた乗客に対する目配り気配りに加え、よこしまな関心だと自覚しつつも、一人一人の素性を観察するのが習慣になっていた。
 小門は客を乗せてまず、後ろを振り向いて行き先を聞く際に、客が素面なのか酒が入っているのかを確認する。素面であれば、ほとんどの場合は、自らを偽ったり、言動に支離滅裂なものが混じったりすることはないため、その見た目や言葉通りの人物であることが多かった。ただ、酒が入れば話は変わってくる。酔い具合はもちろん、その客が酒に強いのか弱いのか、笑い上戸なのか泣き上戸なのか、口が汚くなるのか、まったく黙り込むのか。はたまた、乗車して数分で眠りに落ちてしまうのか。酒の種類や酒との相性によっても、客の性格や表情は百面相のように変わるため、「何者か」を見定めるのは決して容易ではなかった。
 
 たった今乗せた、ルームミラー越しに映るグレーのスーツを着た男は、まず素面であることは間違いなかった。年齢は30代前半から半ば。顔にやや疲れが見えたが、おそらく仕事が忙しいのだろう。問題は、はっきりと行き先を告げなかったこと。これまでに乗せた客の中にも、確かに男のような客がいたことはあった。一人は20代前半の女性で、明らかに酒が入っていたが、その時はいわゆるはしご酒で、単に次の店を捜していただけだった。また一人は60代を過ぎた男で、こちらの場合は小門が運転をしながら、それとなく身の上について尋ねてみると、妻と別れたばかりで、会社も間もなく定年、この先、何を頼りに生きていけばいいのか分からず、旅にでも出ようと思っていたと話した。小門もまた、30代の頃に乳がんで妻を亡くし、以来、ひとりやもめだった。事情は異なるが同じ独り身として、男性客の気持ちが分からないでもなかった。
 対して、グレーのスーツの男はどうだろうか。左手に指輪がないところを見ると、独身か。やけによれよれのスーツが、そのことを余計に感じさせた。ただ、乗せた直後からずっと車窓の外を眺め、これからどこに向かおうとしているのか、今一つ分からなかった。

 10分ほど道なりに走っていると、
「あの、運転手さん」
 小門は男に声を掛けられた。ルームミラー越しに男の方に目をやり、
「はい。なにか」
「このあたりで――、いえ、関東近郊で起きている通り魔事件について、何かご存じないですか」
 尋ねられた小門は、仕事中は常にラジオをかけ、ニュースなどには耳を傾けていたつもりだったが、ここ最近、通り魔事件が起きたという話は聞いたことがなかった。
「いつの話ですか?」
「つい昨日とか、ここ1週間とか」
 小門はやはりまったく聞き覚えがなく、男は何か勘違い、あるいは記憶違いをしているのではと思った。
「実はここだけの話、私昨日、通り魔と出くわしましてね。それで今、追っているんです」
 そこまで聞いたところで、小門は男のことをあからさまにいぶかしみ始めた。小門の中で再び、男の素性の考察が始まる。スーツを着ているにしても、外回りの営業などの仕事中という雰囲気もなく、それよりもリストラされたばかりで、習慣で家を出たはいいものの、どこに行く当てもなく、何となくタクシーを拾い、何となくどこかへ向かおうとしている、そんな風にも見えてきた。ただ、その中でも、嘘か本当か分からない通り魔の話をしだしたことで、にわかにそれも的外れのように思えてきた。しかし、小門が男の顔を見る限り、男が嘘を言っているようには思えなかった。仮に男が嘘は言っていないとすると、考えられるのは、通り魔のことは現実ではないが、男がそれを本当のことだと思い込んで言っているということだった。小門の頭では、そう理解するしかなかった。
 
 小門が、はあ、そうですか、はい、それでどうしたんです、はいはい、と、あらゆる客との受け答えの際の常套句を、男に対して繰り出していると、ラジオから流れていたオードリー・ヘップバーン主演『マイ・フェア・レディ』の「踊り明かそう」が急遽中断され、
「ここで番組の途中ですが、臨時ニュースをお伝えいたします」
 という男性アナウンサーの声に切り替わった。
 小門は前を走る車のブレーキランプに合わせてブレーキを浅く踏みながら、耳はラジオに意識を向けた。
「――午後3時15分ごろ、N暮里中央通りの歩道で、中学生が何者に切りつけられる事件が発生しました。中学生は腕に軽傷を負いましたが命に別状はなく、間もなく救急車で搬送されました。警察関係者によると、事件の目撃者はなく、事件当時の詳しい状況を調べているとのことです――」  
 
 突然飛び込んできた傷害事件のニュースに、松田は息を止めた。すぐに自分が追っていた通り魔事件との関連性を疑ったが、ニュースの情報だけでははっきりと判断はできなかった。もし昨日の今日での犯行なのであれば、犯人は大胆不敵としか言いようがなかった。動機は分からないが、犯行の間隔が短くなっているのかもしれなかった。松田はこれ以上、犯人を野放しにしておくことは出来ないと思い、後部座席から身を乗り出して、運転席のシートに手をかけ、「すみません。今のN暮里中央通りに向かってもらえますか。至急で」と早口で伝えた。
 小門は正体の分からないグレーのスーツの男の表情に、真に迫るものを感じた。それでも男に対する怪しさは拭い去ることが出来ないまま、「分かりました」と応え、次の信号を右折し、男の言う通りN暮里中央通りへと車を走らせた。

 山下から無理を言って借りたスマートフォンで、正則の位置情報を確認しながら、三沢の運転するタクシーでN暮里駅までやってきた景子は、今現在、夫がいるらしい中央通りにまで、そのまま三沢に移動してもらうように頼んだ。ここまでの走行中も、ずっとスマートフォンから目を離さずにいたが、もうかれこれ10分以上も位置情報のポイントが動かないところを見ると、何かあったのか、正則は同じ場所で立ち止まっているようだった。
 タクシーは間もなく、中央通りに到着した。景子が窓の外を見ると、歩道を中心に十数人の人だかりができていた。近くにはパトカーが数台止まり、何か事件があったのだと分かった。
 三沢に「ありがとうございました」と礼を告げ、タクシーを降りた景子は、その人だかりへと近づいて行った。位置情報に間違いがなければ、正則がその辺りにいるのは間違いなかった。いくら夫が誰かを演じているとはいえ、一目見れば夫だと分からないはずはなかった。そして景子は間もなく、人だかりの中にはっきりと、見覚えのある後ろ姿の人物を見つけた。見慣れないスーツこそ着ていたが、髪型から背格好まで、夫の正則であることが容易に見て取れた。景子はすぐにでも声を掛けようかと思ったが、ジャズバーでの山下の言葉を思い出し、ここは慎重に、夫の、――いや、「仁村岳弘」という架空の俳優の共演者となることを選んだ。

 景子より15分ほど早く現場に着いていた松田は、黄色いテープの規制線が張られ、5、6人の制服の警察官が辺りの警戒に当たっている様子や、十数人の野次馬、それからたった今、駆け付けたばかりような数人の報道陣の姿に目を配っていた。規制線の中では、遺留品か何かを捜しているのか、鑑識が立ったまま足元に視線を落としていたり、チャックの付いたビニール袋のようなものを手に、しゃがみこんで何かを拾うような仕草をしていた。松田はここでの自分の役割を果たすため、探偵として地元の住民を装い、野次馬の中にいた人たちから事件についての聞き取りを行っていった。
 松田が性別も年齢も異なる5人に聞いた話をまとめると、被害者は近くの中学校に通う生徒で、シャツの上から、左の二の腕をカッターナイフのようなもので切り付けられたらしい(切り付けられた瞬間を見たものはいないようだった)。出血はほんのわずかで、被害者の生徒は、生徒の訴えを聞いて通行人が呼んだ救急車に乗り込むことを、何故か初めは拒んだらしいが、救急隊員とのちょっとした問答の後、そのまま乗り込み、病院へと搬送されたらしい。犯人については、自転車に乗っていた男とか、髪の長い女とか、同年代の少年だとか、聞く人聞く人によって犯人像はばらばらだった。

 少しずつ正則との距離を縮め、人だかりの中に紛れ込もうと思っていた景子だったが、正則が突然頭を下げ、隣にいた若者のからだの前に身を隠すような行動を取ったのを見て、自分の存在に気付かれたかと思い、動揺した。さすがにまだ、自分の正体を明かすには早すぎた。景子は何とか正則を別の場所に呼び出し、2人きりのシチュエーションを作りたかった。2人芝居に持ち込み、問い質すべきことを問い質したかった。当初こそ、正則が演じる仁村と言う俳優に付き合うつもりでいたが、共演者としての自分の役柄を考えているうちに、自分以外の誰かを演じることがわずらわしく思えてきた。自分は自分、田村景子として、正則に対峙たいじしたかった。

 昨日の夜から今日にかけて費やしてきた時間と感情が燃料となり、景子はにわかに怒りを覚え始めていた。わたしのためと言いながら結婚後、自分自身の情熱のことを偽り続けてきて、さらにはわたしのことも結果的に騙すような形を取り、一体全体何をやってるんだと、怒りをぶつけたくなってきた。それなら今まであなたは、夫と言う役割を演じてきただけじゃないかと思った。景子自身も確かに、正則に合わせるように妻を演じてきたことは否定できなかったが、それならなおさら、正則だけが自由になりたい自分を演じていることが許せなくなってきた。こうなったら是が非でも、化けの皮を剥いでやる。そんな気持ちにすらなっていた。ただそのためには、どうしても接触を図らなければならなかった。――つまり、声を掛ける。

 覚悟が出来た景子が思い切って、正則の後ろ姿に声を掛けようと思った矢先、正則は再び人だかりに身を隠し、景子は一瞬、正則の姿を見失ってしまった。しかし、そのすぐあと、正則は人だかりから抜け出して堂々と姿を現し、ひとり駅の方向へと歩き始めた。景子は「もしかして気づかれた?」と思ったが、正則は後ろを振り返る様子もなく、そのまま歩いて遠ざかっていった。景子は正則を追うしかなかった。

 松田は、自分と同じように現場に乗り付けたタクシーの存在に気付いていた。中から降りてきたのは、目深に帽子をかぶり、デニムの上着に紺色のロングスカートを履いた女だった。年齢はぱっと見で30代。身長は160といったところだった。報道関係者には見えず、被害者の少年の関係者かとも思ったが、それなら先に少年が搬送された病院に行くはずだと思った。横目で何となく観察していると、次第にどこかで見かけたことがあるような気がしてきた。――今日。いや、もっとずっと前に。松田は女にこちらの視線を悟られないように、隣にいた長身の若者の肩に顔を隠し、ちらちらと女の様子を観察し続けた。女はスマートフォンに目を落としたかと思えば、顔を上げてやたらと辺りを見回していた。どうやら誰かを捜しているようだった。こんなところで待ち合わせだろうか。それともやはり、事件の関係者か。松田が女の素性を洞察で突き止めようとしていると、女は視線を伏せながらもこちらの方に近づいてきた。女の目的はまさか、――俺か。
 瞬時にそう思った松田は、考える間もなく、ひとまずこの場を離れようと思った。事件の関係者、それもずばり通り魔事件の犯人とまでは思わなかったが、何か事情を知っている人物の可能性を感じ、先に警察や報道関係者につかまってしまうことを恐れた。それは必ずしも悪いわけではないが、松田は自分が犯人を捕まえるためには、誰よりも先手を打つ必要があると思った。
 女は、松田からすれば尾行とは言えない尾行を始め、自分の後ろをついてきた。その歩容はどこか荒々しく、自分のことを尾行しているということを隠すつもりがないようにも思えた。松田はそれでもあえて、女に無防備な背中をさらしながら、駅へ向かう道を途中で右折し、出来るだけ人通りの少ない路地を歩き、どこかのコインパーキングに誘い込むことにした。 

 景子は初め、電信柱や路肩に止められていた車などに身を隠しながら、正則の尾行を行っていたが、次第に正則の背中の様子から、すでに自分のことに気が付いていることに気が付き始めた。それはまるで、自分のことを試しているかのようにも思え、再び腹立たしさを覚えた。――あなたのために、こんなところまで来たというのに! 
 細い通りに面した10階建てのビルの外階段の出入り口のそばに設置されていた、コインロッカーの影に身を隠した景子は、正則が道を挟んだコインパーキングに入っていくのを目で確認した。「まさか、ここから車で逃げだすつもり?」と内心焦りを感じたが、スマートキーで車のカギを開ける電子音も聞こえず、しばらく待っても音沙汰はなかった。

 コインパーキング内で、通りから車1台分空けたスペースに止められていた、建設会社のシルバーのワゴン車の側面に身を隠した松田は、ここで女が自分の前に姿を現すのを待つことにした。いつまでも、いたちごっこをしていても埒が明かないため、ここで勝負をかけることにした。女が先の傷害事件や通り魔事件と関係があるのかないのか分からないが、白であろうと黒であろうと、対面すれば何かしらは判明するだろうと思った。

 しばらくの間、2人は離れた位置でその場にとどまり、相手の出方を伺いながら均衡状態を保っていたが、そうこうするうちに、景子にとってのタイムリミットが近づいていた。今すぐにでも自分を家庭に引き戻す菜々子からの帰りの電話が、いつ掛かってきてもおかしくはなかった。もう待つことは出来ないと思った景子は、今日、正則を捜すために家を飛び出した時と同じように決意を固め、コインロッカーの影から飛び出し、正則が身を隠したコインパーキングへと急いだ。

 ――来た。松田は女の足音が自分の方に向かっていることに気付いた。徒手空拳のため、若干の不安はあったが、昨日の夜の二の舞にはならないだろうと高を括った。
 徐々に2人の距離が近づく。景子の背後を自転車に乗った買い物帰りのおばあさんが通り過ぎていった。景子はそのおばあさんに気付く余裕もなく、鼓動を高鳴らせながら、コインパーキング内のシルバーのワゴン車のフロントまでたどり着いたが、いったん立ち止まり、呼吸を整えた。――そして、1、2の、3で、正則の前に飛び出そうと思った。

 松田の耳には、微かに女の荒い呼吸が聞こえていた。自分の前に姿を現す機会を伺っていることも分かった。松田は女の緊張が移ったかのように緊張し始め、唾を飲み込んだ。知らず知らずのうちに、2人の鼓動が重なり始める。互いに緊張と不安を抱え、景子はさらに正則に対する怒りを、松田は見知らぬ女に対する疑念を、それぞれぶつけようと思っていた。景子はその時、生まれて初めて、清水の舞台から飛び降りるという言葉を使いたくなった。

 ――1、2の、3!
 
 心の中の合図で、景子はワゴン車の側面に飛び出した。女が飛び出してくるのに合わせ、ワゴン車の後部座席のドアの辺りで、片膝をついていた松田は即座に立ち上がり、女と正面切って相対した。次の瞬間、2人は阿吽あうんのような対照的な表情を浮かべていた。景子は怒りを堪えるように固く口をつぐみ、松田は女の正体に瞬時に気付き、「あ」と、その発音時の口の形の通りに口を開き、驚きからその目を大きく見開いた。2人の時間は、その瞬間だけ止まったかのようだった。
 
 景子と目が合った瞬間、松田の面の皮が剥がれ仁村となり、仁村となったばかりか、その下の田村正則としての素の表情まで露わにしてしまった正則は、――そうか、自分は追う側ではなく、追われる側だったのかと観念した。直後、その場で膝から崩れ落ち、地面に手をついた。それがもし演技ならば、アカデミー賞ものの見事な演技だったかも知れない。正則はうなだれながら、本来ならここは岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」が流れるシーンだと思ったが、その時、頭の中に流れてきたのは、大学時代に地元の公演で実際に観劇した梅沢富美男の『夢芝居』だった。

 男と女 あやつりつられ
 対のあげはの 誘い誘われ
 心はらはら 舞う夢芝居
 恋はいつでも 初舞台

 景子はまるで犯行を自供した後のように、その場にしゃがみ込み、うなだれる正則の姿を見て、自然と怒りが冷めていくのを感じた。こんな夫に対して、怒っている自分が馬鹿らしく思えてきた。間もなく。景子のスマートフォンが鳴った。娘の菜々子からだった。
「――うん。分かった。ママも今、買い物から帰るところだから。うん。パパも帰ってくるって。ううん、お仕事早く終わったみたい。うん。じゃあ、またあとでね」
 菜々子との通話を切った景子は、肩を落とす正則の肩に手を置き、――ああ、また私は、この人の妻を演じなければならないのかと、心の片隅でうんざりしながらも、その自分を否定する気持ちにもなれず、ただ一言、「帰ろう」と声を掛けた。
 すると正則は、ゆっくりと顔を上げ、今にも泣きだしそうな顔をしたまま、黙って頷いた。

                               おわり

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