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自動詞か他動詞か

貫之のように和歌が詠みたいな…、とか書くと、正岡のノボちゃんに唾棄されそうですが、本心からそう思います。
以前の記事でも触れたとおり、これまでの貫之研究の主流は出典の指摘(比較文学的研究)でした。でも、もし私が同じように漢籍や万葉集の表現をふまえて和歌(短歌)を作っても、貫之のようには作れません。また、同じ出典をふまえた古今集時代の和歌を並べてみても、貫之の歌にはそれとしての良さがある(=他の歌人の歌にも良さがあるのと同等に)。古今集時代の和歌はみんな同じ、「手弱女ぶり」「理知的技巧的」と一緒くたにされがちですが、細かく分析すればそうではない。材料が同じでも料理法は少しずつ異なるんです。
先人の偉業により、冷蔵庫の中はだいぶクリアになってきた。今度は、厨房での貫之の姿を覗き見したい。加工の方法を明らかにしたい。

そんな思いを抱く中、最近気になっていること。
「自動詞or他動詞」問題です。
※念の為。「ドアが開く」が自動詞、「ドアを開ける」が他動詞ですね。「自動ドア」と覚えると分かりやすいかも。

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つ今日の
風や解くらむ

『古今集』巻一〈春上〉紀貫之 1

初句「袖ひちて」は「袖が濡れて」の意で、自動詞です。諸注、ここを「袖を濡らしてすくった水…」と解釈します。ところがそれは、実は正確とは言えません。「袖が濡れてすくった水」なんです。
ちなみに同作者に「ひてて(=濡らして)」の用例もあります。

手をひてて寒さも知らぬ泉にぞくむとはなしに
日ごろ経にける

『土佐日記』二月四日条

袖と手の違いはありますが、先掲の『古今集』の歌の方も、「袖ひてて」と言うことはできたはず。そこを敢えて「袖ひちて」と自動詞化するのは何故なのかな、と不思議なんです。

もう一つ、不思議な自動詞の例。

桜花散りぬる風の名残には水無き空に
波ぞ立ちける

『古今集』巻二〈春下〉紀貫之 89

第二句「散りぬる風」、すなわち「散ってしまった風」はやや奇妙です。風は花を散らしたのだから、例えば「散らしぬる風」「散らせる風」のように、他動詞「散らす」を用いる方が自然でしょう。現に、別作者ですが、「花散らす風」の例があります。

散らす風の宿りは誰か知る
我に教へよ行きて恨みむ

『古今集』巻二〈春下〉素性法師 76

貫之の歌で敢えて自動詞「散る」を用いるのは何故なのでしょうか。
和歌の定型による字数制限はもちろんあります。ですが、何かそれだけで説明してしまうのは寂しい気持ちです。彼ら歌人にとって、字数制限により思惑と違う表現を強制されることなどあり得るのでしょうか?そんなことは無く、全て彼らの思惑通りなのだとしたら、現代語訳がしにくいこれらの自動詞の表現も、貫之に意図があってのものだと考えられるのです。

些細なことだけど、ここを覗き窓にして、貫之の厨房での仕事を明らかにできないかな〜、なんて夢見ているところです。
論として成立させるにはまだまだ証拠も方法も定まっていませんが、稿を改めて、現時点での仮説を備忘的に記してみたいと思います。

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