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研究目的

最近、YouTubeでさまざまな研究者の講義を視聴するのにハマっています。
和歌や古典文学に関する講義に最も興味があるのですが、意外と理系の分野が心に刺さったりします。公開講座だと、理数苦手な人間にも分かりやすく、魅力的なエッセンスを伝えてくれるものが多いので、量子力学やIUT理論みたいな、正体不明級に難しい内容でも、むしろ「分からなすぎて楽しい」まであるのですよね。
そしてそれらを視聴していて感じることは、その道を究めた研究は、「この世界はどんなものか」「人間とは何か」といった深淵に触れうる、という点。哀しい哉、この点が、国文学系の講義にはちょっぴり不足している(と、個人的には思います)。文学なんて、人間の根幹に関わるものなのに、どうしてこのワクワク感が乏しいのだろう。別に「役に立つ」必要はないかもしれないけど、文学を学んで、「なぜ人は生きるのか」とか、「辛くてちっぽけな人生でも、世界に小石を投じているのだ」とか、そういうことを感じさせるような研究であってほしいと願います。

もちろん、そんなことを考えているとどんどん自分の首が締まっていくのだけれども……、「どうして古典なんか勉強しないといけないんですか!?」と生徒から問われたら唸らざるを得ないし。近年は、井庭崇氏の「3つのC」を引用しつつ、「これからはクリエイティブ社会が到来するから、消費者ならぬ『創作者』であることが人生を楽しむ秘訣となる。古典の時代の人々は、日常的に和歌を読み、自らも詠んでいた。《読者=作者》という、その豊かな時代から、ちょっと学んでみると楽しいかもよ?」みたいなことを話すようにはしていますが。じゃあ翻って、自分の授業や古典文学研究が、そういった「豊かさ」を伝えるものになっているかと問われると、もう、白旗を振り回すしかありません。

例えば貫之の研究について言えば、彼の和歌に踏まえられている漢詩文や万葉集の典拠に関する研究は、本当に盛んに精緻に行われています。一つ一つは素晴らしい研究には違いないですが、私はもう少し違う観点からも知りたいことがあるのです。料理に喩えると、とある美味しい料理のヒミツを探る中で、材料はだいぶ明らかにはなってきた。でも、当の凄腕コック以外の人間がいくらその材料を揃えたからとて、同じ味は出せない。私は、どちらかといえば料理法が知りたい。野菜や肉をどう切って、どういう順番で鍋に入れるのか、どう味付けするのか?
喩えから貫之の話に戻すなら、私の興味は、語と語の繋ぎ方や配置、省略といった構文或いは統語論的な研究にあるようです。これはまだ、全くされてないとは言わないものの、出典研究に比べるとマイナーな分野です。特に、それらの方法を実際の創作に活かす観点で研究するものは、ほぼ無いと言ってよいかもしれません。もしもそこを明らかにできれば、もしかすると、貫之という人の創作の秘密、彼の苦吟の裏側、思念、人生に触れられるかもしれない、私達が生きるこの時代に、再び貫之という人が必要とされ、起ち上がってくるかもしれない……。

年の瀬を控えて、生徒らは次学年の文理選択の時期が迫ってきています。親御さん達は「文系は先が無いから、役に立たないから」と、理系を頻りに我が子に勧めます。まあ、それはそうなのかもしれないけど、とても忸怩たる思いに駆られてしまう。文系も理系も、そこに垣根は無くて、全ての研究には通底して「生きる」ことや「在る」ことへの懐疑と感動があり、だからこそ大学で学ぶ以上は、各自の研究に人生を賭けて臨んでほしいと、そんなことをふと考えてしまうのです。


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