「面倒くさい」の質
*『』以降に、本編の核心があること、ご了承ください。
『「はぁー、朝から面倒くさいー」と言いながら娘たちは学校に行く。
わたしはといえば、夕飯作りの途中の「ママー、丸つけしてー」とか「ママー、トイレットペーパーなくなったー」とか「ママー、明日筆いるってー」とか…とにかく一つの作業をひとつづつやるのが得意なわたしにマルチタスクをふっかけてくる愛する娘たちからの面倒くさい要望の数々と戦う日々。
むらたさんちの子育ては面倒くさいでできている。こんにちは、はじまりましたむらたさんちの子育てです。
以前、YouTubeでスタジオジブリの宮崎駿さんが絵を描いてるとき「面倒くさい、あー面倒くさい」と面倒くさがりながら描いてるのを見たことがある。とても、かっこいい。なんて愛があるんだ。
娘たちと出会う前のわたしはずっと面倒くさいことは棚に置いてできるだけ避けてきた。なぜってスマートを求められる世の中で、鈍臭いわたしでもスマートを求められてたから。
でもでも、面倒くさいことってほとんど愛だから。
そんでもって子育てって愛だから、そりゃ面倒くさいんです。めちゃくちゃに面倒くさい。面倒くさいとか思っちゃいけないような綺麗事の愛とかは疑うほどに面倒くさい。
それを時短とかコスパとかに変えちゃいかんのですよ。(サンボマスター風に)
刻もう、面倒くさいは愛だ。
(来年度、娘たちの登校班の地区委員みたいなのに決まり、なんだかんだやること増える数ヶ月後のわたしを懸命に納得させようとしていることはここではあえて触れないことにする。)
…でも、やっぱり面倒くさいな。』
と、ここまで読んで、お気づきだろうか、宮崎駿監督とわたしの「面倒くさい」の⇨の方向が違うことに。
宮崎駿監督は、自分から矢印が出ている「面倒くさい」だ。自分の意思を体現する工程が面倒くさい。自分⇨映画というように。
わたしはといえば、周りからの矢印に「面倒がっている」。周り⇨わたしなのだ。そこなんだよなー、面倒くさいの質の違い。
これからはわたし発信の面倒くさいをやるぞ!まずは目標が定まったから、次が見えてくる。
今日も楽しく自分ができることから。
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