見出し画像

『饒舌について』(プルタルコス著)から二千年、ヒトの本性は変わっていない!?

 著者のプルタルコス(英語的にはプルタークらしい)は紀元後40年代後半、ギリシアのカイロネアという小さな町に生まれた。ウィキによれば46年頃の生まれという。つまり、今からほぼ2千年前頃の人でありその頃の著作。しかし全く古さを感じない。
 以前セネカ『生の短さについて』でも感じたことだが、1世紀前後の頃には人間の本性みたいなものは書かれ尽くしていて、そこから人は本質的には何も変わっていないようだ。嫉妬心や対抗心など醜い感情を克服したわけでもなく。技術は進歩しても内面は進歩しないのだということに驚く。一人の人間としては内面も成長するのだが、死ぬ。後々生まれた人間は内面が進歩して生まれるかということそうではない。よって、人という種族としては、内面はおそらく、一歩も成長していないんだろう。これはかなり興味深い。進歩した技術と組み合わさることで危ない感じさえする。
↓このとおり、約二千年前から同じ負の感情を、人は克服できていない。

(略)我々の不幸にも、妬み心ゆえの不幸、対抗意識に由来する不幸、臆病ゆえの不幸、些細なことに拘泥するための不幸などの別があるだろう。

P79「知りたがりについて」

 私が読んだ1985年出版の岩波文庫には、表題作を含め6篇が収録されている。
・いかに敵から利益を得るか
・饒舌について
・知りたがりについて
・弱気について
・人から憎まれずに自分をほめること
・借金してはならぬこと

 3つ目の収録作「弱気について」が最も学びが多かった。これは「恥の感情について」と題してもいいかもしれない。ひとことで言えば、恥の感情によって自分を窮地に追い込むな、ということ。「恥の文化」(アメリカの文化人類学者 R. ベネディクトが著書『菊と刀』で日本文化は恥の文化であると喝破)である我々は心して読んだ方がいいだろう。
 謀反の気配を知らなかったわけではないのに、友であり客人でもある人物に警戒の目を光らせることを恥じたために敵に売られて死んだシシリー島のディオンの話(P114)や、食事の招きを怪しいと感じ恐れもしたので気分がすぐれぬと断ったのに、「そなたのお父上がいつもご機嫌麗しく応じて下さったこと、それに友人を大事にあそばしたことを、まず真似ていただきたいものですな。もし、まっことそれがしが、何かたくらんでいるなどとお恐れでないならば」と言われ、恥じ入ってその言葉に従い、案の定食事の最中に扼殺されたアレクサンドロス大王の側室の子ヘラクレス(P115)の話など。よーく覚えておきたいものである。

 他にも教訓や人間変わっていないなと思う点として、以下をメモ。

気が弱いためにいつも同じ床屋に行ったり、いつも同じ毛織物の仕上げ工で間にあわせる、あるいは、たびたびそこの主がよくもてなしてくれるからというので、ほかにいい宿があるのに、みすぼらしい宿に鞋を解くとか、そういうことはしない習慣をつけよう

P121「弱気について」

恥じらいもせず、厚かましく我々を悩ます連中に対しては断固として拒否し、恥知らずの相手にこっちから好意を示して、みずから恥にまみれることなく、真に正しく身を処する、これがわきまえある人間のやることだからである。

P128「弱気について」

ローマの将軍スッラも、つねに運の女神を礼賛することによって人々のそねみを避け、演説の締めくくりには、自分は幸運に恵まれた人間だと言うことにしていた。人間は、自分が他人より劣っているのは能力のためではなく運のせいだと思いたがるものなのだ。

P152「人から憎まれずに自分をほめること」

同様にまた、著述家にせよ弁論家にせよ、俺には知慧があると称すると世間からうんざりされるが、知慧を愛しているとか身につけつつあるとか、何かそういう、人の憎しみを買わないほどほどのことを言えば歓迎される。

P155「人から憎まれずに自分をほめること」

 ところで本筋とは異なる点で驚いたのは、当時すでに子宮癌というものが認識されていたこと。

子宮に白い蟹の形のでき物(癌のこと)のある婦人はおらぬかと(略)

P89「知りたがりについて」

それで、この頃日本は何時代だ?と調べると、情報が何も出ない。古墳時代と呼ばれているのはすでに西暦400年とか600年のようなのである。古代における彼方との医療を含む文明のこの違いは何なのか。二千年前にもう文明完成感がハンパない古代地中海周辺への新たな興味がわく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?