宮澤賢治『やまなし』の真実 ー賢治の青は何を意味しているのかー
前回は、最初の一文に着目して、なぜ幻灯なのかを考えました。今回は、その幻灯の色が青色であるわけを探っていきましょう。
賢治は、詩集『春と修羅』の序において、自分を「青い照明」だと言っています。自分が青色だというのですから、賢治にとって青は特別な色です。賢治の詩や童話の中に、たびたび青色は使われていますが、使われ方は様々であり、青の意味を一つに限定することは困難です。それでも、青の意味を考えずに『やまなし』を理解することはできません。
『春と修羅』の冒頭を抜き出してみます。
「心象のはひいろはがねから/あけびのつるはくもにからまり/のばらのやぶや腐植の湿地/いちめんのいちめんの諂曲模様」とは、何とも不気味で不穏で陰鬱な情景です。かなりこじれて身動きもとれない心理が浮かび上がってきます。
次に、「正午の管楽よりもしげく/琥珀のかけらがそそぐとき」の二行が突然挿入されています。ここには、以前に紹介した賢治の共感覚者としての一面を垣間見ることができます。「はいいろはがね」の情景に、突然、オーケストラが聞こえ、琥珀色の光が降って来るのが見えるのですから。視覚と聴覚と感情が複雑に絡み合っています。
そして、「いかりのにがさまた青さ/四月の気層のひかりの底を/唾し はぎしりゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」と続きます。賢治にとって、怒りは青色です。岩手の4月は、長い冬を終えた春の光の輝きに満ちています。そんな喜びの春にあって、自分は底を這うように、つばを吐き捨て、歯ぎしりしながら歩き回っている、自分は修羅に他ならない。激しい怒りを感じながら苦しむ賢治の姿が思い浮かびます。
賢治にとって怒りが青色であることは、友人に宛てた手紙からもわかります。
怒りは最初、赤く見えるのですが、それが限界を超えると青くなると書いています。注目すべきは、その心理状態を心地よいと感じている点です。そして、その状態のまま妙法蓮華経の経典を読み、ページをめくる。そのとき、賢治の心は、何と、喜びに満ちているのです。
賢治は、自分が信じる本当の幸せを強く願うとき、恍惚状態となり、世界が青く染まるのです。
『よだかの星』のよだかも最期は青い光に包まれました。
よだかは自分を犠牲にして、自ら命を捨て去ることで業から逃れようとしました。賢治は、よだかの姿に強い高揚を感じたのでしょう。だから、最期によだかを青い炎で燃やして供養したのです。
『やまなし』もまた、青い世界の物語です。賢治自身の周囲にいる俗物たちに、一方的な怒りを感じ、その感情のままにこの童話を書いたのかもしれません。物語の最後には、青白い炎がいっそうゆらゆらと燃え上がります。その青白い炎は、金剛石の粉を吐いているようだと表現されています。金剛石は信仰の強さの象徴です。炎のゆらめきから、賢治の高揚感の高まりが読み取れますね。
俗物の代表は、もちろん賢治の父、政次郎だったでしょう。でも決して憎んでいるわけではありません。愛しているからこそ、父を宗教的に救いたかったのだろうと思います。
賢治の青は、怒りだけではありません。美意識として、無条件に美しいものを青く表現していることも忘れてはならないでしょう。
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