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立松和平『海の命』を読む ―最後の場面は必要かー

 『海の命』は、いつの間にか小学校国語教材の定番になっています。少年の成長と父の喪失、生命の連鎖、海の母性が作品の中に編み込まれており、切り口が多様であるところが作品の魅力になっています。子どもたちにとって読み応えのある作品だと言えるでしょう。
 
 さて、この作品のクライマックスは、瀬の主である巨大なクエと主人公の太一が対峙するシーンです。今にも銛を打とうとする太一は、その刹那に瀬の主と父とを重ね合わせ、瀬の主を殺さないことを自分に納得させます。
 作品はそこで終わらず、太一のその後が語られます。結婚して4人の子をもうけ、長く村一番の漁師であり続けたことが説明されるのです。
 
 ふと思うのは、この最後の場面は必要なのかということです。命を賭けた対決場面で終わってもよさそうです。なんだか付け足しのように思えます。「まあ、いろいろあったけど、その後は幸せに暮らしました」などと言う話は、作品を浪花節にしてしまうのではないでしょうか。
 数年後の主人公を描いて終わるのは、映画やドラマでよく見かけるパターンです。そこまで説明しなくても、観る側が想像すればいいと思うことがたまにあります。日本昔話を観せられているような気になりませんか。
 
 授業では、最後の場面が必要なのかどうかを検討してみたくなります。例えば、原作通りの終末と、最後を省いた終末と比較させ、どちらが優れているかを検討する方法が考えられます。
 
①原作通り
 やがて、太一は村のむすめと結婚し、子どもを四人育てた。男と女と二人ずつで、みんな元気でやさしい子どもたちだった。母は、おだやかで満ち足りた、美しいおばあさんになった。
 太一は村一番の漁師であり続けた。千匹に一匹しかとらないのだから、海の命は全く変わらない。巨大なクエを岩の穴で見かけたのにもりを打たなかったことは、もちろん太一は生涯誰にも話さなかった。
 
②別の終末
 太一は船のへりに両手をかけ、肺いっぱいに息を吸った。蒼白の肌に赤みがもどった。この日のことを、太一は生涯誰にも話さないだろう。
 
 少年の成長と自立、命の連続性に視点を向ける子どもは、原作通りを選ぶでしょう。そうではなく、生命の崇高さ、海の豊穣さに視点を向ける子どもは、別案を選ぶと思います。どちらを選択するのも自由なのですが、二つの結末を比較検討することで、作品の新しい世界が広がっていけばよいのです。

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