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22年間ウルトラマンが好きな人間のシンウルトラマン感想/構成について

公開日からはや、1ヶ月。3回観た自分のなかで整理ができたことを
まとめたい。

<感想>
 この作品は、ウルトラマンと人類の友情を育む”過程“を表した作品だ。”個“で活動する外星人に対して、“群”をなす人類。自分よりも弱い“個”(でもあり“子”)を助ける神永に興味を持ったウルトラマン。彼が、友情を育む、その様が凝縮されていた。
 浅見が「衣服」を例に“群”について諭すシーンがあるが、彼は着服しているのか/地肌なのかという、よくあるツッコミを逆手に取った、わかりやすい導入。それに始まり、ザラブ戦の浅見→メフィラス戦の禍特隊→ゼットン戦の人類の叡智へと、頼る(=生きるため)対象が、“個”から“群”へと輪を広げ、人類の理解を深めていく。「知れば知るほど、わからない。だから、もっと知りたい」そう願う彼に、「そんなに人間が好きになったのか」とゾーフィが語りかける。「わからないけど、知りたい」という欲求を“好き”と言い換える、そう言い表わすことが、この作品の全てではないだろうか。わからないけど好き、そう思う瞬間は誰にもあると思う。私にとってウルトラマン(シリーズ)がそれにあたるだろう。それ以外にも、説明できない言語化できない“好き”が、いくつも存在している。本を読んだり、体験したり、誰かと話したり、一人で反芻したり…様々な工程を重ねて、そこから抽出された意識の中で、“好き”という感情が立ちどころに現れる。そんな自分自身を振り返ると、彼の思考は、至極真っ当だと気づく。当たり前で、あまりにも身近な感情だから、口に出そうと思えば簡単に出せるから、この感情について真剣に考えることが無くなっていた。それをガボラの光線を受け止めるかのように真正面から、ゼットンをぶん殴るときのように真っ直ぐに、純粋な気持ちで受け止めていくのが、彼だった。「行ってらっしゃい」と見送られた彼自身と同化していた神永が「おかえりなさい」と迎えられた、そのとき。“彼”は何を思うのだろう。
 この出来事を境に、あの地球では外星人からの侵略や交流が盛んになって行くはずだ。光の星のゼットンを退け、光の星の住人に多大なる影響を与えた人類に、興味を持って来訪する外星人がいるはずだ。そして、外星人”7“号が来る、なんてことも、あるかもしれない。この世界において、“好き”という感情は生まれ続ける。より“好き”になる瞬間も訪れる。あちらの世界でも、同様に言えるだろう。ひどく輝く遥か彼方に輝く星を、これからの私たちの未来を、追いかけるように、この“過程”を味わいたい。

<構成>
 この作品は5つのエピソードによって構成されており、人によっては総集編のように受け取る方がいるかもしれない。私が思うに、この作品は二部構成だ。メフィラス戦までとゼットン戦の2つ。冒頭の、ウルトラQオマージュのパゴスから、ネロンガ・ガボラについては、胴体が同じで、頭部などがアタッチメントのようだと言及しているシーンがあった。これは、初代ウルトラマン含めウルトラマンシリーズにおいて、怪獣の素体をアレンジして新しい怪獣として出すという、怪獣の着ぐるみ作成のコスト削減を意識した実際の事象に、物語上の意味を付け加えたものだ。これらの禍威獣は、地球上に眠っていた侵略兵器であり、メフィラス自身が目覚めさせたと述べている。禍威獣の恐怖を植え付けるのが目的だったと。その後のザラブについても、外星人には人類の科学力を持ってしても敵わないと無力感を覚えさせるため、またウルトラマンの活躍によるベータシステムの有用性を示すものだったとしている。全てメフィラスの前座だったというわけだ。そしてメフィラスとの対決では、メフィラスが優勢でありながら自身の利益を優先し損切りするという、格を落とさない姿勢を表し、「さらば、ウルトラマン」と言い残すのだ。これは、初代ウルトラマン最終回のタイトルと同じものである。つまり、今から最終回が始まるぞという合図なのだ。ここまでが前半。そして後半のゼットン戦へと移るという構成だと感じた。もちろん前半のなかで、ウルトラマンが人類との友情を育むステップを各エピソードで積み重ねてはいるため、5分割しても良さそうだが、全体を見ると、この分け方が良いと感じた。
 先ほどの<感想>で述べた、「行ってらっしゃい」と「おかえりなさい」についてだが、一点補足したい。初代ウルトラマンの最終回では、ウルトラマンと分離したハヤタ隊員は、融合していたときの記憶がすっぽり抜けているような素振りをみせていた。今回の場合は、どうだろう。ウルトラマンと同化している神永が、「外星人と人間の狭間だからこそ、見えるものがある」と断定している様から、その視線は、唯一無二であり、独自性を持つ。「いってらっしゃい」と言われた神永と「おかえりなさい」と言われた神永は、ウルトラマンが不在という点で別人といえる。ただ、玄関で「いってらっしゃい」と見送り、「おかえり」と迎えるとき、我々は同じ人物に向けて言葉を放つ。「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」は、その人物が同じ(視線を持つ)人間であることを担保する役割を持つのではなかろうか。つまり、今回の場合、帰ってきた神永は、ウルトラマンが不在でも“狭間の視線”を持っていると、私は信じたい。
 パンフレットで、樋口監督は「オリジナルが好きな人に向けてサービスしましょうということは、実はほとんどやっていないんです。あからさまに過去の作品に目配せしたものにすると、それはどこか閉じたものになってしまう。(中略)確かにオリジナルを踏襲した表現をしている部分もありますが、それは知っている人が気づけばいいのであって、そういうことばかりやっているから面白いでしょうという作品にはしたくなかった。」と述べている。人によっては、こんなサービスシーン満載で何を言っているんだと思う方がいるかもしれないが、私が思うに、最適解を探した結果、オリジナルの表現がベストだっという着地もあるのではないだろうか。また、予算の都合などもあるはずだ。ザラブ戦で浅見がベータカプセルを神永に渡すシーン。あれは明らかにウルトラセブンの最終回インスパイアだった。自分の正体を打ち明けるという共通項に加え、男女が向き合い、真横を写すカット割。オリジナルではなくセブンだが、あのシーンの最適解カット割は、遺伝子レベルで刷り込まれてしまっているのだろう。ゼットン戦後、神永とウルトラマンを分離するシーン。逆ぐんぐんポーズも、オリジナルとまったく同じであったり、他にも再解釈にしてはオリジナルと同じシーンが多い印象だが、再解釈しても同じになってしまうほどオリジナルは素晴らしいと、そういう見方で私はいたい。
 再解釈といえば、ウルトラマンのぐんぐんポーズ。握りこぶしの理由付けをされたのは度肝を抜かれた。変身アイテムを2回連続で押すとどうなるのかという、「空想科学読本」のような世界観に圧倒された。ゼットンが光の星のものであるという設定、ゾーフィを拾ってくるところ、これは知っている人が楽しめる要素だった。さらに付け加えると、ゾーフィのデザインは、ウルトラマンや怪獣のオリジナルデザインを担当した成田亨氏の、未発表作品の「ネクスト」を元にしたと、デザインワークスで庵野秀明氏が語っていた。成田氏は、純美術家(成田氏の言葉を引用する)になりたかったが、あれよあれよと、特撮番組のデザインを担当する道へと入ってしまった。そこには葛藤があり、簡単に割り切れない気持ちがあったと作画集で読んでいたため、エンドロールで成田亨氏の名前を見つけたらとき、心の底からのリスペクトを感じ、目頭が熱くなった。
 オリジナルへの多大なリスペクトと、ウルトラマンを初めて観た、あの感覚を再び届けようとする熱量が、緻密な構成に表れていた。
 さらに特徴的なものは、徹底して演技の余韻を残させないという点もある。最後の戦いを前に神永が笑顔を見せるシーンや、エンドロールへ入るまでの間などは、もっと間があってもおかしくないシーンだ。そのような重要なシーンでも、テンポ良く切り替わって行くのは、庵野氏の邦画に対する姿勢が受け取れる、そんな気がした。
 ここまで読んでいる物好きはいないだろうが、とりあえず今週末の予定は埋まったはずだ。百聞は一見にしかず、私の好きな言葉です。

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