日本最古の文字を探る

 前々回の続きとなりますが,ヴァリニャーノが感嘆した日本人の言語能力,寺子屋の広まる江戸時代以前の話なので子どもたちの識字率は低く,そもそも日本語の書き取りができないので,辞書をもとにイタリア語から日本語に翻訳するという姿ではなく,リスニング力ということになります。現代日本人の英語力を見るにつけ,この司祭を驚かせたほどのリスニング力は一体どこへ消えてしまったのか…謎ですがそれはともかく,日本独自の表音文字である仮名文字の成立が9世紀というのも,近世以前の日本人の言語能力から考えても遅すぎます。古代日本で文字を駆使できた限られた層が,まず何を記録するかと考えれば,支配者の事績,土木や工芸の技術が考えられます。工人どうしで金属器の寸法,成分比,燃焼時間などの製法を記録し,伝授するには,まず大陸の言語から日本語に通訳する必要があり,通訳を養成するには漢字を日本語の発音に当てて対比させた辞書を手元に,対訳していく学習が必須ではないでしょうか。口伝えと記憶だけで技術が伝授されたとは思えません。記紀には4世紀後半に漢字の本格的な使用が始まったと書かれていますが,最も遅くともこの時期でしょう。欠史八代の天皇の事績があやふやなのは口承に頼っていたため,10代崇神天皇が登場した4世紀後半(というのが今のところ自分の考えですが)から天皇の実在性がはっきり認識される,と考えると漢字の使用開始時期と合致します。

行燈山古墳(崇神天皇陵)

 しかしそれでは遅すぎるという考えがぬぐえません。「魏志倭人伝」における邪馬台国の税の記述を見ると,文字なしでどう徴税したのか...7万戸(余りに多すぎるので割り引いて7千戸としても)の家々の配置,名前,収税した量,未納の量などの情報を,役人の記憶や棒や結び目で管理できたはずがありません。伝言に伝言を重ねた末の情報の歪み,人の記憶のあやふやさと照合の面倒に耐えかねて,さっさと文字を当てようと思うでしょう。文字は年月を重ねて錬成されていくものとは限らず,政府が制定すればその日から成立し得るものです。最も早ければ奴国~邪馬台国の間の時期には,漢字を表音文字として日本語に当てる努力,あるいは独自の文字を編み出す努力が行われたのではないでしょうか。
 その後の大和政権初期においても(あくまで欠史八代は実在という考えです),大王の名や事績を墓に刻むこともなく葬ったとすれば,それはまるで無縁仏の扱いです。この山裾にあるあの古墳はかの皇族のものであるという情報を,文官の口承のみに委ねていたのでしょうか。楔形文字は粘土板に葦の茎を押し当てたため,後生まで文字が残りました。墨で木に記した漢字は腐食してしまいますが,金属器や石に刻んだ銘文は長く残ります。古墳盗掘の対象となったのは金属器だけでなく,石材も貴重な資材として持ち去られたということですが,それでも日本最古の文字を発見できる可能性が一番高い場所が,身分の高い人物の石室であることは間違いありません。

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